~ 第二章その15~
(確かに……ラブホテルに入ったというのは正解、だったのでしょうか?)
彼女の食事が終わった後、特にやることもなかった護少年は、柔らかくて座り心地の良いソファーに身を委ねながら、今さらながらにそんなことを感じていた。
さっきまで見ていた悪夢の所為か、それとも昨日眠れなかった所為か、身体には妙な倦怠感があるものの……白濁した化け物の体液で汚れまくったベッドなんかに寝転ぼうとは思えなかったのだ。
(……いや、汚れてるのはベッドどころじゃないんですが)
今日のマクラガエシとかいう化け物の活きがよほど良かったのか、それとも空の食べ方が雑だったのかは分からないものの……周囲の汚れ方は一昨日の保健室よりも遥かに酷い状況だった。
ベッドの上どころか周囲のカーペットにまで体液は飛び散っていて、「掃除する人は絶対に大変だろうな」と思わず従業員に同情してしまうほどには散々な状況である。
こんな食事がもし自分の部屋で行われていたかと思うと……当の被害者である護自身であったとしても、部屋を貸すことを若干躊躇うに違いない。
そして今、妖の哀れな鳴き声やその肉を咀嚼する音も消えたこの室内に響き渡っているのは、水の音だった。
(ついでに、シャワーも完備しているみたいですし)
音の方へ視線を向けないように意識しながら、護はそう内心で呟く。
今色々と胸中で呟いている彼は、ラブホテルという施設の利便性を考えているようで……その実、水音の方へと視線を向けたい衝動を必死に我慢している最中であった。
何故ならば、この手のホテルにありがちな設備として、風呂場の窓ガラスは見事に透けており……そちらに視線を向けるだけで空の裸身がばっちり見えてしまう、と思われるのだから。
正直な話、彼女の身体は肉付きが非常に悪く魅力的とは言いがたい代物だったものの、同級生の裸体がガラス越しに見えるというこの状況は、男子中学生にとっては酷く自制心を要求される代物に違いはない。
ついでに言うと、「やっぱりコレも脱いでた方が良かったわね」という呟きと共に、彼女が雑に脱ぎ捨てたパンツが近くに転がっているのも問題だった。
その安っぽくて白い、木綿の布切れは見事なまでに白濁した液体によって濡れていて……まるで『事後』を思わせるソレは、少年の自制心を容赦なく削っていく。
「般若波羅密多心経行深なんとかかんとか」
護は煩悩退散のために唯一知っているお経を唱えてみる。
尤も、彼はそういうのに詳しい訳もなく……最初の方をちょっと覚えているだけに過ぎなかったが。
何故、中学生である護少年がお経なんてものを唱えられるかと言うと……昔、悪霊退散と眠気覚ましのついでに色々なお経を覚えてみた経験があったから、である。
尤も、悪夢に対して効果がないと分かってからは完全に忘却の彼方へ葬り去っており、もう随分と記憶も曖昧になっている訳だが。
……と言うか。
まさか覚えた頃は、自分の煩悩を消し去るために般若心経を唱えるとは思っていなかった護少年は、「人生とは何が役に立つか分からないものですね」なんて、今さらながらに自らの数奇な運命に嘆息していた。
「お待たせ。
……覗かなかった?」
「覗いてませんよ!」
うろ覚えの般若心経を唱えている内にいつの間にかシャワーの音は止まっていたようで……身体をこげ茶色したバスローブに包んだだけという色々と不味い格好をした、先ほどまで化け物を生きたまま食っていた少女が姿を現す。
シャワー上がりの上気した肌に短いバスローブという格好は、下手に全てが見えているよりも妙に緊張してしまうものである。
たとえそれが、あばら骨の本数までも簡単に数えられるような空の身体であったとしても、だ。
そんな失礼なことを護が考えている間にも、少女は同じ部屋の中にいる異性の視線を気にした様子もなく、体液で汚れたパンツを摘み少しだけ眺めるとそのままゴミ箱へと放り込み、制服の方へと歩き出した。
その気のない様子から、さっきの言葉もからかわれただけだと気付いた護は、憮然とした表情を浮かべながら、彼女が視界に入らない……入口のドアをじっと見つめることにした。
と言うよりも、そこ以外、彼が煩悩を感じずにいられる方角がなかっただけ、ではあるが。
「しかし、護くんも災難ね。
普通は一度妖に寄生された人間が、もう一度寄生されることなんて見たことないのに……」
「そう、なんですか?」
視界の外から何気なく放たれたであろうその空の言葉に、護は思わず身体を乗り出して振り返ってしまう。
それくらい、その言葉は少年にとって聞き捨てならないものだったのだ。
……だけど、少年が振り返った先では少女がバスローブを脱ぎ捨て、シャツを頭から被ろうとしている最中であり。
後姿だったとは言え、彼女の裸身を思いっきり直視してしまった少年は、慌てて身体をソファに沈ませ……首を大きく左右に振ることで、先ほどの光景を記憶から振り払おうと努力する羽目に陥ってしまう。
「そうよ。
妖って生き物自体、人間と比べると数は凄く少ないわ。
今までの経験上、居ても大きめの街に数匹だから、ざっと5万人に一人くらい?」
「……たったの、その程度、ですか?」
「ええ。だから、5万分の一を二度も引き当てる確率なんてざっと25億分の一。
地球上で3~4人、という計算になるわね」
空の言葉はただ確率をかけ合わせただけの、中学生が考えた程度の適当な計算だったものの、少年が我が身に降りかかった災難の特異さを嘆くには十分過ぎる説得力があった。
何しろ……25億人に一人を見事に引き当てる確率というものは、数百万分の一と言われる宝くじがよりが数十倍容易いのだから、その希少さは語るまでもないだろう。




