~ 第二章その14 ~
「~~~っ!」
「ふははへはっ!」
突如、周囲の空間が砕け散り……目を開いた瞬間に護が知覚したのは、視界全てを占拠する少女の顔と、唇同士が触れ合わう暖かさと。
そして……獲物を咥えたまま歓喜の叫びを上げる空の声であった。
(さっきのはっ?
夢……だった?)
護は未だに歯が食い込んだ感触の残る腹部に軽く触れながらも周囲を見渡し、内心でそう安堵の溜息を吐き出す。
とは言え、先ほどの悪夢の所為で未だ身体中に残る恐怖感と嫌悪感を振り払い切れないままの護は、マクラガエシを口に咥えて笑みを浮かべる少女との距離を少しだけ取っていた。
……彼女に気付かれないよう、ほんの少しだけではあるものの。
「は、ははは。
また、コレは大物だ。ほら」
そんな彼の葛藤に気付かぬまま、少女は咥えていたマクラガエシを右手で掴むと……まるで釣果を誇るような得意げな笑顔を浮かべながら、その人の頭ほどの化け物を少年に見せ付ける。
彼女にしてみれば、それはどうということのない、ちょっとした自慢のつもりなのだろうけれど。
「うぐっっ!」
しかしながら、夢の中の世界とは言え、先ほどまで意識が残ったまま眼前の少女に内臓を貪り食われていた少年は彼女の自慢を感心する心持ちにはなれなかった。
何故ならば、彼女の浮かべている捕食者の優越に染まった笑みは、先ほど苦痛と絶望と恐怖を味合わされ続けたときに見せられた笑みそのものであり……護は感心どころか、嫌悪に顔を歪めてしまわないよう、唇を固く引き結ぶ必要があったのである。
「さぁて、頂きま~すっと」
「っ!」
そして始まった捕食……白濁した体液を撒き散らすタラバガニの足らしきモノが生えたイモムシ状の化け物を、生きたまま頭部から喰らい付くその行為に、護は慌てて目を逸らす。
相変わらずのブチブチと生きた肉を食いちぎる音と、キーキーという妖の哀れな声と、グチャグチャと少女が咀嚼している音。
ついでに化け物の体液から漂ってくる苦味さえ感じるような生臭い臭気は、少年の嘔吐感を刺激してやまない。
「うっ!」
突如の嘔吐感に慌てた少年は、透明のドアをしたバスルームの隣にあったトイレへと駆け込み、胃の内容物を吐き捨てる。
今日の護は昼飯すら食べる時間を与えられなかったため、吐いた物は胃液だけだったものの……それでも何かを腹から出さないと吐き気を堪えきれない。
いや、腹の中に何もない状況での激しい嘔吐感は、吐き出す物がないのに吐き出さないと気が済まない二律背反によって、ただただ苦しさと気持ち悪さが続くだけの、拷問にも等しい代物だった。
(……何で、こんなっ!)
胃液が混じって苦さと酸っぱさとを感じる唾液を吐き捨てながら、護は自分自身の感情に混乱していた。
何故ならば……今少年が感じているのは、悪夢から助けてもらった恩でもなければ感謝でもなく……憐憫と嫌悪だったのだ。
一昨日感じたような、化け物しか食べられない鬼敷空という少女への憐憫と、マクラガエシへの嫌悪ではない。
今少年の中にあったのは、生きたまま喰われる妖への憐憫と、笑顔のまま生きたまま残酷にも生き物を貪り喰らう鬼敷空への嫌悪感。
先ほどの激しい嘔吐感は、このあり得ない『感覚の錯誤』が増幅させたことも原因の一つだったのかもしれない。
勿論、そうでなかったとしても……生きたままイモムシが目の前で少女に喰われる光景というのは、思春期の少年が嘔吐するくらいには気持ち悪いものだったのだが。
「それもこれも、今日見せられた悪夢の所為……かな」
嘔吐の限りを尽くし、ようやく一息ついた護は口の中の唾を吐き捨てながら、そう呟く。
今、トイレのドアを挟んで少女に捕食されているマクラガエシが護に見せた悪夢には一つの方向性があった。
それは……被食者の、つまり食い尽くされる獲物の恐怖を味あわせること。
そんな悪夢を見せられたのは、一昨日に喰われた仲間への意趣返しのつもりだったのか……それとも単純に、ここ数日間で最も印象的だった「マクラガエシを喰らう空の様子」に影響された所為で夢に出てきただけ、だったのか。
もしかすると、あの捕食者の少女である鬼敷空と妖の餌食である合歓木護との間に亀裂を生み出すべく、こうして嫌悪感を覚えさせるような悪夢を見せ付けたのかもしれない。
……妖の考え方なんて護にはさっぱり分からないし、分かりたいとも思わない以上、答えなんて出そうもない、仮説の上の仮説でしかないのだが。
それでも、原因は兎も角としても……少年自身が悪夢からの救世主である少女に対し、恐怖と嫌悪を感じてしまったのは紛れもない事実だった。
(バカか、ボクは……)
その事実に気付いた護は、内心で自嘲気味にそう吐き捨てる。
──今までマクラガエシの餌食にされ、日々を生きる気力すら湧かなかった少年如きが。
──自分を加害していた相手に同情してどうなるというのだろう?
結局のところ、合歓木護という無力なだけの少年は、どう足掻いてもあの化け物どもの餌食になる以外の選択肢を持ち合わせていない。
そもそも、その悪夢から助けてくれる存在が鬼敷空だけである以上、護は彼女に感謝すべきであり、それ以外のことを考えるべきではないし……そもそも、それ以外のことを考える余裕なんてありはしないのだから。
「兎に角、これでまた数日は……」
一度マクラガエシが食われても、またすぐに悪夢が再開してしまった以上、これで「もう永久に助かった」なんて思えはしない。
だけど……空が妖を狩ってくれてから一昼夜の間、彼は悪夢を見ずに過ごせたのだ。
恐らく今夜だけは……前回と同じように安眠を貪れることだろう。
どのくらいの間、護がトイレに篭っていたのか、その正確な時間は彼自身にも分からなかった。
ただそれはそこまで長い時間ではなかったようで……顔を洗って口をゆすいだ少年が部屋に戻った時、未だに半裸の少女は肌を隠すこともなく、一心不乱に化け物の脚を齧っているところだったのである。




