~ 第二章その13 ~
目を閉じてほんの数秒も経たない内に、合歓木護少年の意識はあっさりと闇の中に沈んでしまう。
いや、護自身、一度は真っ暗な眠気の中へと沈んでいく意識を自覚した筈だった。
……だけど。
どうやら彼が完全な眠りに落ちられないほどには、この状況は特殊過ぎたらしい。
何しろ、「生まれて初めて入るラブホテルのベッドの上で、半裸の少女が見守る中で眠る」という人生を八回くらい繰り返してもあり得ないようなシチュエーションである。
睡眠不足でそれどころではない人生を歩んできたものの、護も一応は中学生……性欲もあれば恋人も欲しい・性行為にも興味津々の年頃なのだ。
そんな少年にとって何もかもが初体験というこの緊張は、睡魔をどこかへとあっさり追いやってしまったようだった。
「あの、すみません」
いつまで経っても眠りに就けない護は、仕方なく身体を起こすと……なるべく半裸の少女の方を見ないようにしながら頭を下げる。
主な原因が彼女にあるとは言え、彼女がこのホテルで半裸になっている理由は全て食欲を満たすためであり……護が眠れないということは、こうしている彼女の行為全てが徒労に終わることに他ならないのだから。
「……どうやら、眠れない、ようで」
その事実を申し訳なく思いながらも……どうしても眠れそうにない護は、自分を助けてくれる筈だった少女にそう告げていた。
「やっぱり、そう、よね」
だけど、護の心苦しさを意に介した様子もなく……もしかすると、その反応を予期していたのかもしれないが……彼女はそれほど落胆を見せることなくそう呟いた。
「あの、空、さん?」
「私も、一昨日、丸々太った一匹を食べたから、かな?
あんまりお腹、空いてなかったんだ」
「あ、ああ」
そんな彼女の言葉に護は思わず頷いてしまう。
確かに一昨日、彼に取り憑いていたマクラガエシとやらは大物だと言っていたし、実際、あの生き物の体積を牛肉とカニの足として換算すると、合計で10キロを超えかねない程のサイズであり……彼女が延々と口にするのを見ていた少年の方が吐き気を催してしまうくらいの量だったのだ。
……だけど。
それだったら、どうして彼女は彼をこのラブホテルに誘ったのだろう?
「でもね。
私にはもう一つ、満たしたい欲望があるのよ」
「……え、ええと」
まるで護の疑問を予期したかのように空はそう呟くと……護の身体の上にのしかかってきた。
半裸の少女の体温を服越しとは言え感じてしまい、異性に全く免疫のない少年は彼女の方を見ることも出来ず、身動ぎすら出来ないまま固まってしまう。
しかしながら、少女の大胆な行動はそれだけでは終わらなかった。
いつかの保健室のように彼女は突然唇を重ねてきたばかりか、そのまま少年の唇を割ってまたしても舌を捻じ込んでくる始末である。
……いや、それどころか。
栄養失調が原因と分かる、明らかに同年代のそれよりも遥かに細い少女の手のひらが、少年の身体中を這い回り始めたのだ。
肩、首すじ、鎖骨……だけに留まらず、骨盤、太もも、内腿という、段々と異性に触れられるには、少しばかり躊躇われる箇所までも這い回り続け……
彼女の薄い胸は彼の身体に押し当てるように触れ続けていて、その上、石鹸か何かでもない、彼女自身から発せられる『少女』そのものの香りが、徐々に護の理性を奪い去って行く……
(~~~~っ!)
流石にされるがままというこの状況に理性が限界を超えたのか、護は身体の奥底から湧き上がる衝動に背中を押されるまま、彼女の細い肩に向かって手を伸ばす。
と、その時、だった。
「あ、ごめん。
やっぱり……」
「え?」
不意に止まった愛撫に、理性が限界だった護は、暴発するその間際を狙ったかのように気を削がれてしまい……「さっきまで彼女の方が乗り気だった筈なのに」と思わず首を傾げていた。
「やっぱり、耐えられない、みたい」
直後、彼女の口から放たれた……この状況にそぐわない、そんな訳の分からない言葉の意味を、護はすぐには理解出来なかった。
ただ、彼の理解を置いてけぼりに……そう告げた彼女の唇は一まず満足したのか、優しく触れ合っていた少年の唇から離れ、徐々に護の身体を下っていく。
唇から顎、首筋、鎖骨、胸、肋骨へとその唇が這い回るくすぐったい感覚に耐えられず、護は知らず知らずの内に身体をよじっていた。
彼女が「耐えられない」と告げてから変わったことと言えばそれだけであり……それらは別に愛情表現としては不思議ではなく、護も彼女の言葉を理解できないまま、身体に触れ続ける空の唇をくすぐったいながらも受け入れる。
……その時だった。
護のあちこちの肌へと優しく触れ続けていた筈の彼女の唇が、大きく開かれたかと思うと……
その顎がそのまま、護の腹に食いついて来たのだ。
「ぐ、あ、ぐぎゃああああああああ!
あっあっあっあっ!」
歯という硬質な器官が容赦なく肉を挟み込み、皮膚を抉り破る激痛。
……いや、それよりも遥かに大きな、恐怖感。
生物がこの地球上に生まれ出でて以来、延々と繰り返された食物連鎖という名の……捕食者が味わい続けただろう、恐怖と絶望。
DNAの奥底に刻み込まれたその苦痛と絶望と恐怖の記憶が少年の理性をあっさりと破壊してしまった所為で、彼の口からは真っ当な言語が出て来ることはなく……少年はただただ悲鳴をあげることしか出来なかった。
空の身体を振り払おうにも、栄養失調が極まっている筈の少女の細腕は、絶対者の如く強靭で力強く……護がどれだけ足掻いても微かに動かすことすら叶わない。
「あ、あ、あああ、あ、あ、ああああ」
恐怖と絶望に悲鳴を上げて暴れる少年を押さえつけ、鬼敷空という名の少女は、捕食する側が浮かべる愉悦と優越の混じった笑みを浮かべながら、少年の身体の一部を食いちぎり、咀嚼する。
傷口から噴き出す血は、少女の顔を真っ赤に染めたものの、少女は顔を染める真っ赤な液体を意に介すこともなく……いや、彼女にとってはその血すら食欲を増す食前酒にしか過ぎないのだろう。
食欲が満たされる愉悦の笑みを浮かべたまま、少女は顔に飛び散った返り血を舐め取って、大きく息を吸い込むと。
更なる食欲を満たすべく、彼女はその口を大きく開き、少年の身体を胃袋の中へ運び込む作業に再び熱中し始めた。
その食い破られた腹の肉を、更に食い千切られる激痛に、悲鳴を上げる気力すらなくなってきたその、時だった。
「……あ、あっ、ああ……ああああああああああああああああああああああああっ!」
さっきまで腹の肉を……痛覚神経の鋭い腹腔を食い千切られる激痛に暴れていた護が、それを超えた先の肉に食らいつかれた感覚に、絶叫を上げてしまう。
少女の顎が……ついに内臓へと食らいついたのだ。
さっきまでの肉を抉られる激痛とは本質的に違う、身体の内部にある生命活動に必要な器官を食い破られるという、脳髄にまで響くような恐怖と絶望に、護は疲労も息苦しさも忘れてただただ悲鳴を上げ続ける。
だけど、少女の腕は残酷なまでに強固で……護がどれだけ藻掻こうが逃げ出すどころか彼女の口を避けることすらを叶わなかった。
そうして彼女の歯は躊躇いも容赦もなく、一口、一口と護の身体を食道へと運び続ける。
……徐々に徐々に。
行き過ぎたその激痛と恐怖と絶望は、少年に気絶という救済すらも許してくれない。
身体の一部が欠けていく激痛と恐怖を明瞭な意識のままで味わいながら、護はただもう上がらない叫びをあげようと口を開閉し、自由の利かない身体の中で唯一自由になる指先だけを動かして、欠けた身体の一部を取り返そうと藻掻く。
……そのまま。
少年の意識は激痛と恐怖と絶望によって、じわじわと沈み込むように消えていって……
──だけど、その次の瞬間。
ホテルの壁も、自分を喰らう少女も、自分の身体から噴き出す鮮血も、激痛も恐怖ですらも、突如として砕け散ったのである。




