~ 第二章その9 ~
何がどうしてそうなったのか。
小鳥遊生徒会長から唐突に押し付けられた唇の感触に、護は慌てて彼女を引き剥がそうと試みるものの……少女の細腕とは思えない彼女の膂力に、彼は身動ぎ一つすることすら叶わず、ただまな板の上の鯉の如く、されるがままの有様だった。
そして残念なことに……いや、彼女からしてみれば至極当然のことに、生徒会長の暴挙はそれだけでは終わらなかった。
「うわっ?」
そのまま彼女は激情に任せたかのように……だけど、柔術か何かの理合いで全く予兆を感じさせないままに護を押し倒すと、唇を情熱的に合わせ続けてくる。
その上、当然のように唇を割って入ってきた舌の感触に、護の精神が耐えられる限界値を超えてしまい……彼はもう抵抗すら考えられない有様である。
(……ああ、これも悪夢、かなぁ?)
されるがままの護が惚けた頭で考えていたのは、そんな現実逃避だった。
何しろ、彼女の情熱的な舌先は彼の口内を一方的に這い回り快感を与えてくれていたものの……酷く情熱的な生徒会長の抱擁は彼の腕とあばら骨をへし折らんばかりに強烈なものだったし、何よりも周囲の学生たちの視線が思いっきり痛い。
見世物というか、もはや晒し者だった。
加えて言うと、護が見せられた悪夢の中には磔刑にあった彼が晒し者になるものや、集団監視の中で群衆から惨殺される類のものもあったのだが……この手の淫夢にも等しい、快楽を絡めて社会性を削って来る系の悪夢は初めてである。
(いつになったら、終わるんだろう?)
抵抗の意思すら砕けた護少年が、ただただ美少女が繰り返す求愛行動に対し、諦め混じりにそんな現実逃避を胸中で抱いた、まさにその時のことだった。
(……っ!)
視界の縁に……彼と彼女とが繰り広げている痴態を見つめる野次馬たちのその中に、一際目立つ黒いセーラー服の見知った顔を見つけた護は、これで悪夢が終わるという安堵と、何故だか全く分からない謎の罪悪感の板ばさみに合い、思わず狼狽してしまう。
その黒いセーラー服を身にまとった細身の少女は、護と目が合った瞬間に一瞬だけ目を丸くしてまじまじと少年のことを見つめたかと思うと……
不意に、その痩せた顔に笑みを……とても愉快な見世物を見たかのような、満面の笑みを浮かべて見せる。
直後、抱き合ってキスをしている二人には何の興味も持てないとばかりに、去っていってしまったが。
その足取りは、先日までの半病人のようなそれではなく……スポーツをやっている少女のような、しっかりとした足取りであった。
(……ああああああああ)
その様子に思いっきり軽蔑されたのだと勘違いした護は、少しだけ会長の拘束から逃れようともがくものの……情熱の赴くままに両腕に力を込めている生徒会長は、まるで鉄の処女の如く少年を離そうとしなかった。
いや、勿論、鬼敷空という転校してきたばかりの少女と護とは付き合っている訳でもなく、そもそも唇を交わしたのでさえ「彼女の食事に必要な行為」でしかなく……少年が別に罪悪感を抱く必要はない。
ないのだが……それでも、護にしてみれば心穏やかに居られる訳がない。
何しろ、彼女に軽蔑される……見捨てられるということは、彼にとって「延々と続く悪夢に苛まれ、今後心安らかに眠る日が訪れることがない」ことを意味しているのだから。
(コレで、会長も彼女みたいに化け物を食べてくれたら嬉しいんですけど)
口内を他人の舌が暴れ回るという、生暖かくくすぐったい、だけどどこか気持ち良さもある……そんな奇妙な感覚の中、別の女の子に視線を向けながら、護はそんなことを考えていた。
と言うか、そうして現実逃避をしなければならないほど、三角関係からなる心痛……二人の少女の板ばさみを味わっている(気がしている)少年は、その慣れない精神的重圧にいとも容易く押し潰されていたのである。
勿論、彼が現実逃避をしている理由は、その他にも……呼吸が出来ない苦痛に耐えられなくなったこともある。
大体、ディープキスの基本でよく言われる「鼻で息すれば良い」なんて……突然唇を塞がれた状況で思い浮かぶ筈もなく。
その上、「鼻で息をすること自体、相手に強い鼻息を向けて不快な気分にさせやしないだろうか?」なんて意味がない不安までもが胸中に渦巻いてしまう始末である。
そもそも、悪夢を見せられる恐怖から極度の睡眠不足だった上に、昨日走り回った所為で全身疲労という劣悪な環境の中、現状のような想像だにしなかった精神重圧によって心身共に追い詰められた彼の脳みそは、酸素まで足りなくなったことを理由に思考を完全に放棄しようとして……
「お、おい、小鳥遊!
何をやってるか!」
その頃になって、ようやく我に返ったのだろう。
校門に立っていた……恐らくは服装検査をしていたのだろう教師たちがようやく生徒会長の発狂を見咎め、少女を数人がかりで彼から引き剥がしてくれた。
「ぷはっ!」
唇が離れたことで何とか窒息死を免れた護は、空気の美味さを実感していた。
不幸中の幸いか、酸欠によって意識を失うことはなく……美少女とのキスで酸素欠乏症になるなんて、当事者として見れば笑い話にもなりやしない。
「見てっ、見てっ!
戻ってきたの!
あの素晴らしい目の色……なんて素敵!」
当の加害者……完璧超人と名高かった筈の小鳥遊生徒会長は、数名の教師に引っ張られていきながら、そんな歓喜の叫びを上げていた。
彼女にしてみれば実際、昨日死んだと思った人間が突然生き返ったに等しい訳だから、あの暴挙もただ感情が爆発した結果に過ぎないのだろう。
……だけど。
(幾らなんでも朝の賑やかな時間帯の、しかもこんな誰もが通る校門の前でやらかしてくれなくても……)
もう一人の当事者……被害者である護は、溜息を吐きながらも内心でそんな呟きを零していた。
……これから自分がどんな目に遭うか、十二分に予想が出来ていたから、だ。
「合歓木、話を聞かせてもらおうか?」
「……はい」
実際問題、教師という風紀の乱れを極端に恐れる連中は、男女関係をまるで魔女や異教徒のように忌み嫌う性癖がある。
だからこそこうして……実質的には通り魔にあっただけの護でさえ、単なる被害者と認定されることもなく、事情聴収に付き合わされることになったのだから。




