~ 第二章その8 ~
結論から言うと、その日……護少年は鬼敷空という転校生を見つけることは出来なかった。
「……個人情報保護の前では、無力、でした、ね」
その名の通り、個人の情報を秘匿する法律の壁は高く、そして法律に規制された教師という名の公務員たちは、一生徒の訴えに耳を貸すほどには融通が利く存在ではなく。
少女の存在が今夜の睡眠に直結している護にとっては、法律の存在と杓子定規の教師たちに、ただただ嘆くことしか出来やしない。
適当に街中を走り回ってはみたものの、そんな闇雲な行動なんて当然のことながらただの徒労以外の何物でもなく……少年は走り回って疲れ切った身体をベッドの上で丸め、必死に恐怖と眠気に抗っていた。
「……兎に角、今夜だけでも、何とか乗り切らないと……」
悪夢への恐怖から、護はそう呟く。
だけど現実は非情であり……放課後走り回った少年の身体は疲労を回復させる手段として最も効率の良い『睡眠』という手段を取ろうと、脳内で眠りを誘う化学物質を分泌し続ける。
「イヤだ、もう、眠りたく、ない。
悪夢なんて、二度と……」
少年は追い詰められた表情で、そう呟く。
今までは、ただ「そんなものなんだ」とまだ諦めがついた。
だけど「一度でも恐怖から逃れられた」という希望は……少年の絶望を更に色濃くしてしまう。
だからこそ、護は必死にインスタントコーヒーの粒を口の中に押し込み、苦味とえぐ味に顔を顰めながらも、必死に目を開いて眠気と戦い続ける。
……そして。
「や、った……。
朝、だ……」
その孤独な奮闘は、少年の勝利という形で幕を下ろす。
尤も、空が明るみ始めた頃には少年の瞳は再び苦悩に歪み、目の下のクマも再び凄まじいまでに濃くなっていたのだった。
──鬼敷空に会うためには、学校へ行かなければならない。
その当然の結論は、合歓木護に酷い肉体的・精神的苦痛を味わわせていた。
「……ちく、しょう」
カウンセリング等、医者を始めとする目上の相手と話し慣れたため、敬語が癖になっている筈の少年が思わずそう口汚く吐き捨ててしまったのも無理はない。
何しろ、昨日走り回った所為で少年の全身を襲っている筋肉痛は、歩みの一歩一歩に付きまとい、彼に苦痛を与え続け。
一晩中睡魔と抗い続けたために磨り減った彼の精神は、その僅かな苦痛でさえも耐え難く、必要と分かっている通学という工程ですら、意思が挫けそうになってしまう。
(目が、痛い……視界が、霞む)
体力気力以外でも、そんな寝不足による不調は彼に付きまとい……その挙句、昨日迂闊に食欲が回復してしまった彼は、咽喉から逆流しそうな胃液を必死にこらえる必要があったし、加えて体内リズムが狂った所為か、胃腸は一歩ごとに鈍痛を訴え続けてきて鬱陶しいことこの上ない。
更には、燦々と輝く太陽が彼の網膜を刺激し、日本の夏に特有の身体中を覆う湿気は護の磨り減った精神力を容赦なく削り取っていく。
ふらふらと、もう前に歩くのも苦痛という足取りで、それでも「学校へ着きさえすれば、鬼敷空が救ってくれる」という一縷の希望によって突き動かされるように、少年は前へ前へと歩き続け……何とか通い慣れた校門へと辿り着く。
(って、今日に限って、服装検査か……)
そこでは珍しく生徒会役員たちが出揃っていて、珍しく服装検査&持ち物検査などという鬱陶しい作業に勤しんでいた。
護は素行と授業態度こそ最悪なものの、別に不良という訳でもないため、その手の検査なんてそう気にするほどでもない。
それでも、小鳥遊生徒会長とあんな別れ方をした翌日と言うこともあり、護少年は何となく気後れしたまま、それでも校門へと近づいていく。
「おはようございます」
「あら、おは……」
悩んだ結論として、何を言っても仕方ないという判断をした護は、とりあえず普通の生徒と同じように適当に挨拶をしてさっさと校門を立ち去ろうと決め、それを実行に移した。
だけど、生徒会長の方はそうはいかなかったらしい。
完璧と名高い筈の、相変わらずどう見ても中学三年生には見えない小鳥遊祐子生徒会長は、護と視線を合わせたその瞬間、言葉を途中で止め絶句する。
ただし先日と違い、その瞳に映っているのは……歓喜だった。
「きゃああああああああああああああああああ!」
直後、彼女の口からは歓喜の絶叫が放たれていた。
まるで追っかけが男性アイドルを目撃したかのようなその黄色い悲鳴に、そこら中にいた人間全てが目を丸くして生徒会長の方を振り向く。
実家が神社ということもあり、常にお淑やかで冷静沈着、表情を表に表さないというイメージが強い彼女が放ったその奇声は、周囲の生徒たちからはまるで天変地異の訪れのようにも思われたようで……生徒会と一緒になって持ち物検査に参加していた教師たちですら全く予想だにしていなかった現状に、身動ぎ一つすら取れないでいた。
……そして。
(え、会長が?
一体、何を……?)
人間、驚き過ぎると全く反応出来ないというのは本能的なものらしく……様々な悪夢によって数多もの経験を積んでいる護であっても、生徒会長が突如上げた奇声を前には、ただ目を瞬かせることが限界だったのだ。
だからこそ……感激に震える生徒会長が次に起こした行動に、彼は一切の対処が出来なかったのである。
「んん~~♪」
「むぐっ?」
突然、唇に押し付けられたその柔らかで温かい感触に、更なる混乱に陥った護は何一つ有意義な行動を取れやしない。
ついでに言うと、彼の身体は左右から生徒会長の細い割に凄まじい力の込められた両腕に挟まれていて……数秒後、我に返った護が身体に力を込めたものの、逃げ出すどころか、彼女の身体を引き剥がすことすらも叶わなかった。
周囲でその光景を目の当たりにした生徒たちも、それどころか、そういう行為を止めなければならない筈の教師たちでさえも、まるで目の前で惨殺行為を目撃してしまったかのように固まって動けなかったのである。




