~ 第二章その7 ~
母がテーブル下から取り出した「バスケットボールサイズのモノ」……彼を救ってくれた、死の苦痛に歪んだ転校生……鬼敷空という名の「少女の頭部」を目の当たりにした瞬間、護は驚きに思わず立ち上がっていた。
「うっぐっ!」
直後、護は必死にその肉塊から……いや、テーブルの上に並べられている、先ほどまで食べていた焼いた肉をも身体を遠ざけようと思いっきり仰け反っていた。
いや、身体を引き離すだけでは飽き足らず、口の中に入れてしまったものですら、吐き出したくて仕方がない。
何しろ、先ほどまで彼が口にしていた焼いた肉は、恐らく……
そう思い当ってしまった以上、護の全身を嫌悪感が這い回り、さっき食べた肉が……いや、胃そのものが逆流しそうな吐き気を覚えてしまい、恐怖で指先の震えは止まらず、吐き気を堪えるために喰いしばった歯はギリギリと妙な音を立てる。
「……あら、食べないの?」
「も、もう、構いませんっ!」
空の頭部を抱いたまま呟く、母のその一言に護は首を振って拒否を表す。
……と言うよりも、訳が分からなかった。
目の前の母は、何故『そんなもの』を手に持ったまま、普段と変わりない笑顔でそんなことが言えるのだろう?
「じゃあ、もうお腹一杯なのね?」
「は、はい」
確認するような母の言葉に、護はこくこくと何度も頷く。
護はもうこの茶番から逃れたくて必死だった。
だから……少年は気付かない。
母の笑顔が……いつのまにか慈悲に満ちた母親の笑顔から、顔も形も笑みの形までもが「ただ同じだけ」というだけの、全く別の代物に変貌していたことに。
「美味しかったでしょ?
みんなも頑張って食べられたんだから」
「みんなって……っ?」
母の言葉に護少年はもう一度周囲を見渡し……絶句する。
彼がさっきまで食べていたパンやベーコンエッグなどの色々な食材は、いつのまにかイモムシのような化け物……転校生の言葉を借りるならマクラガエシという妖に取って代わっていたのである。
切り刻まれ齧られボロボロの状態で白濁した体液を撒き散らしながら、そのイモムシのような異形の化け物たちはキューキューと悲痛な鳴き声をキッチン中に響かせる。
嫌悪感と罪悪感、そして何よりも口にした色々に対する不快感が吐き気を催し……満腹だった護はたまらずテーブルの上にさっき食べたものを吐き散らかす。
「何が、どう、なって……」
濡れた口元を拭いながら少年がそう呟くのも無理はない。
ふと気付けば、さっきまで平和なキッチンだった筈の周囲は、いつの間にか形は同じの血まみれで赤く染まった惨状へと変わっていた。
周囲に転がっているのは、人体だった筈の肉片だろうか?
空という少女が着ていたのだろう血で赤く染まった制服や下着、更には皮や髪の毛、部位すら判別できない内蔵らしきものが、イヤでも少年の目に入ってくる。
「な、な、な、な、な」
「ねぇ、空さんもみんなも美味しかったでしょう?」
驚きと嫌悪の余り、言葉すらもまともに話せないままの護に、ゆっくりと母が近づいてきた。
その手には、少女を一人解体したのだろう、血まみれの包丁が握られており……
「だから、今度は母さんに、護を食べさせてね?」
母の笑みが、ニタリと、歪み。
その手にある、ここ数日、きっちりと料理を食べさせてくれた筈の鋭利な文明の道具が、まっすぐに、彼の腹部に突き刺さり……
「まずは、内臓を、頂戴ね?」
「~~~っ!」
腹部に感じた灼熱にも似た激痛と、内臓に鋼鉄が触れる冷たい感触とに、逃げようと力を込めた少年の身体はその意思に反して力を失い、床へと崩れ落ちてしまう。
だけど、悪夢はそこで終わらなかった。
激痛に傷口を押さえようとする護の腹を、母は優しげな笑みを浮かべたまま包丁で掻っ捌く。
「っっっぁぁぁあああああああああああああぁぁあああああ!」
「いただき、ます」
母がそう呟きながら、切り開かれて少年の腹部からはみ出た腸を、今まで何万もの言葉を投げかけてくれたその口で、喰らい千切り……
「うわああああああああああああああああああ!」
合歓木護は自らの絶叫で目が覚めた。
「お、おい、合歓木っ?
大丈夫か?」
未だに抜けない死への恐怖と腹腔内部が切り拓かれる激痛、内臓に空気が触れる感触、そして何よりも育ててくれた実の母に食われるという嫌悪感に、護は血走った目で周囲を見渡す。
(……ここ、は?)
幸いにして、彼がいたのは自宅のダイニングとは似ても似つかない、いつもの教室であり……彼を遠巻きに見ていたのは刃物を持った母親ではなく、目を丸くした教師や級友たちだった。
彼らにしてみれば、いきなり机の上に吐しゃ物をまき散らした少年が、次には悲鳴を上げ始めたのだ。
周囲には胃液の凄まじい匂いが広がっており、護の視界の端ではその匂いに耐えかねたクラスメイトが慌てて窓を開けているのが見える。
尤も、彼のこうした奇行はいつものことなので、あまり周囲の級友たちも教師さえもそれほど深刻な表情を見せておらず……ただ周囲に広がった悪臭に迷惑そうにしながらも、すぐに意識を授業に戻してしまったが。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
未だに恐怖で四肢の痺れが抜けきらない護は荒い息のままもう一度周囲を見渡し、自分の身に何が起こったかをようやく悟る。
──要するに、いつもの悪夢である。
あれほどのリアリティ……激痛から恐怖、触覚から嫌悪感まで実際に味わうのと全く同じという、最悪最低の。
……毎日毎日繰り返し見せられ、少年が人生に一切の望みを持てなくなるほどの苦痛を味わわせ続けられた、あの悪夢だった。
今日のはいつもの激痛と恐怖に彩られた夢よりも、随分と手の込んだ……嫌悪感を主に刺激する内容であったのだが……少なくとも見せられる護少年にとっては、そんな差異など何の救いにもなりやしない。
(……何故?)
あの悪夢を見せる化け物は、鬼敷空という名の転校生が喰らった。
──文字通り、その口で。
今見ても思い出したくないほどに気持ちの悪い食べ方で……だからこそ先ほどのような嫌悪感の先立った悪夢を見たのだろうけれど、彼の目の前で、確実に、化け物は捕食されたのだ。
兎に角、あの少女のお陰で、もう護は悪夢を見ない筈、だった。
……だけど、実際にはこうして、護はまたしても悪夢を見せつけられている。
「一体、何が、どうなって……?」
考えられる可能性は幾つかある。
一つ目、先ほどの夢は、マクラガエシとかいう妖とは全く別の……ただの突発的な悪夢だった可能性。
二つ目、今度は別の妖が取り憑いた可能性。
三つ目、マクラガエシ本体が死んでも、悪夢を見せる『毒』がまだ残留していた可能性。
そして四つ目として、あの少女の存在自体が夢だった……護につかの間の希望を持たせるために、悪夢が趣向を凝らした可能性、だ。
尤も、悪霊なんて数日前に初めて見たばかりでしかない護にとっては、そもそも判断するための材料が欠片もなく、幾ら頭の中で考えたところで答えなんて出る訳もない。
ただ、一つ目と三つ目は楽観が過ぎると分かっていたし、護自身にしてみても四つ目が答えになるほど……あの鬼敷空という、今考えると非常識極まりない存在を夢で求めてしまうほど、自分が追い詰められている、とは信じたくなかった。
(結局は……)
未だに痛みが残っている気がするお腹をさすりながら、護は隣の空席へと視線を向ける。
解決手段どころか判断材料すら持たない普通の少年にとっては、今は座っていなくても、昨日そこに座っていた少女に頼ることくらいしか、この悪夢を食い止める術は思いつかなかったのだ。
(放課後になれば、何とか探し出してでも……)
護はそんな決意を抱きながら、自分の吐き散らかした反吐を片付けるべく、バケツと雑巾を取りに席を立ったのだった。




