第97話「失いたくないもの」
武道館ライブまで、いよいよあとわずか。
リハーサルも本格的になり、メンバー全員の緊張感も少しずつ高まってきました。
そんな中、れいじの心にもこれまでとは違う変化が訪れます。
気付かなかった想い。
気付こうとしなかった気持ち。
今回は、れいじ自身も戸惑う”心の揺れ”を描いた一話です。
ぜひ最後までお楽しみください。
武道館ライブまで、あと少し。
その日、FirstDayは初めて本番に近い形でのリハーサルを行うことになっていた。
会場に足を踏み入れた瞬間、ふたばは思わず立ち止まった。
「……広い」
客席はまだ空っぽだった。
照明もすべて点いているわけではない。
それでも、そこには圧倒されるほどの空間が広がっていた。
丸い天井。
高く組まれた照明。
遠くまで続く客席。
あの武道館だった。
「本当にここでやるんだな」
はじめが呟く。
いつもなら大きな声で騒ぐはずなのに、この時ばかりは少しだけ声が小さかった。
美月も客席を見上げる。
「……思ったより、でかいね」
「だな」
れいじは短く答えた。
その表情はいつも通りに見える。
けれど、ギターケースを持つ手には少し力が入っていた。
リハーサルが始まった。
照明の位置。
映像のタイミング。
ステージ上の立ち位置。
細かい確認が続く。
ふたばはマイクの前に立ったが、紬がすぐに近づいてきた。
「ふたばちゃん、今日は無理しないで」
「でも……」
「昨日から少し喉、疲れてるでしょ」
ふたばは小さく頷いた。
ツアーの疲れが残っている。
痛いわけではない。
でも、本番前に無理をするべきではなかった。
「今日は仮歌で進めます」
スタッフがそう言った。
代わりに仮歌の女性スタッフがマイクに立つ。
歌はうまかった。
音程も正確。
声も綺麗だった。
演奏が始まる。
はじめのドラム。
美月のベース。
れいじのギター。
そして仮歌。
数小節進んだところで、れいじの手が止まった。
「……すみません」
スタッフが顔を上げる。
「どうしました?」
「違う」
「キーですか?」
「いや」
れいじは少し考えた。
自分でも何が違うのか、すぐには言葉にならなかった。
歌は合っている。
演奏も崩れていない。
でも違う。
「……ふたばじゃない」
その言葉が、自然と口から出た。
会場が少し静かになった。
ふたばは袖からそれを聞いていた。
胸が小さく跳ねる。
れいじは自分で言ってから、少しだけ驚いたような顔をした。
「ごめん。続けよう」
リハーサルは再開された。
けれど、その一言は、れいじ自身の中に静かに残った。
休憩時間。
ふたばは紬とステージ袖の近くで話していた。
れいじは水を取りに行く途中、偶然その声を聞いた。
「武道館が終わったら」
ふたばの声だった。
「ちゃんと伝えようと思う」
れいじの足が止まる。
紬が優しく答える。
「うん。それがいいと思う」
「このまま曖昧にしたくないから」
「区切りをつけたいの」
区切り。
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。
れいじはその場を離れた。
最後まで聞いてはいけない気がした。
でも、聞こえてしまった言葉は消えない。
武道館が終わったら。
ちゃんと伝える。
区切りをつける。
「……まさか」
胸の奥が冷える。
ふたばが、バンドを辞める。
そんな考えが浮かんだ。
根拠なんてない。
でも、ここ最近のことを思い返す。
ふたばが何かを隠していたこと。
はじめたちとよく相談していたこと。
誕生日の件で一度は解けたはずの違和感が、また別の形で戻ってきた。
「……違うよな」
そう呟いても、不安は消えなかった。
リハーサル後。
れいじは楽屋の隅で一人、ギターを拭いていた。
美月が隣へ来る。
「何かあった?」
「別に」
「嘘」
即答だった。
れいじは黙る。
美月は椅子に腰掛けた。
「ふたばのこと?」
れいじの手が止まる。
「……何で」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
少し沈黙が落ちる。
れいじは小さく息を吐いた。
「武道館が終わったら、何か話すらしい」
「ふたばが?」
「ああ」
「区切りをつけたいって」
美月は一瞬だけ目を細めた。
事情はだいたい読めた。
けれど、答えは言わなかった。
「それで?」
「……辞めるのかと思った」
美月は少しだけ笑った。
からかうような笑いではない。
でも、どこか優しかった。
「もしそうだったら?」
れいじは答えられなかった。
「れいじ」
美月は静かに言う。
「失ってから気付いても、遅いことってあるよ」
「……」
「後悔したくないなら、自分で考えな」
それだけ言って、美月は立ち上がった。
「私は何も教えないから」
美月が出ていく。
れいじは一人、楽屋に残された。
夜。
ホテルの部屋。
れいじは誕生日にもらったマグカップでコーヒーを飲んでいた。
白いカップ。
持ち手の内側だけ深い赤。
ふたばたちが選んでくれたもの。
机の上にはギター。
でも、今日は手が伸びなかった。
ふたばがいないライブを想像する。
マイクの前に別の誰かが立つ。
音程は合っている。
歌は上手い。
でも。
違う。
武道館のステージ。
隣にふたばがいない。
その景色を想像した瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「……無理だ」
声が漏れた。
自分で驚くほど、はっきりとした言葉だった。
歌が必要だからじゃない。
声が綺麗だからでもない。
曲を一緒に作れるからだけでもない。
もっと単純で、もっとどうしようもないものだった。
「ふたばじゃなきゃ……」
れいじはマグカップを見つめた。
温かいコーヒーの湯気が、静かに揺れている。
「ダメなんだ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった霧が少しだけ晴れた気がした。
まだ、それを恋と呼ぶには早かった。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
武道館まで、あとわずか。
夢の舞台を前に、れいじの中でも、確かに何かが変わろうとしていた。
第97話を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、れいじの視点を中心に描いてみました。
これまで音楽だけを真っすぐ見つめてきたれいじですが、武道館という大きな舞台を目前にして、自分でも説明できない感情と向き合うことになります。
リハーサルで思わず口にした「ふたばじゃない」という一言。
そして、偶然耳にした会話から生まれた勘違い。
どちらも決して大きな出来事ではありません。
けれど、その積み重ねが少しずつれいじの心を動かしていきます。
今回、一番描きたかったのは「好き」という感情よりも、「代わりはいない」という想いでした。
歌が上手い人はいるかもしれない。
でも、隣で一緒に音楽を奏でるのは、ふたばでなければ意味がない。
そのことに、れいじ自身がようやく気付き始めます。
そして、物語はいよいよ武道館ライブへ。
FirstDayにとって夢だった舞台。
彼らがどんな景色を見るのか、そしてライブの先でどんな未来が待っているのか。
最後まで温かく見守っていただけたら嬉しいです。




