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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第1話 題名のない本



雨の日は、古いものの匂いが濃くなる。


神谷恒一は、そう思っていた。


午後八時過ぎ。


仕事を終えた恒一は、いつもの帰り道を外れて、駅裏の細い路地を歩いていた。


目的地はない。


ただ、まっすぐ家に帰る気分ではなかった。


そのときだった。


路地の奥に、見覚えのない店があることに気づいた。


古本屋だった。


軒先には小さな木製の看板。


「黒猫堂」


いつから、こんな店があったのだろう。


恒一は足を止めた。


店の入口には、営業時間を書いた札が掛かっている。


――午前十時から午後八時まで。


スマートフォンを見る。


20時13分。


「もう閉店してるじゃん……」


そう呟いた瞬間。


店の扉が、内側からゆっくり開いた。


ギィィ……。


恒一は思わず後ずさった。


店内は暗い。


電気がついていない。


それなのに、奥から声がした。


「……入りますか?」


男の声だった。


恒一は断ろうとした。


だが、不思議なことに。


その店の奥にある本棚が気になった。


「少しだけ……」


扉をくぐる。


古い紙と埃、それから何とも言えない甘い匂いがした。


店内には大量の本が並んでいる。


小説、歴史書、写真集、古い新聞。


そして、その一番奥。


他の本棚から少し離れた場所に、一冊だけ置かれた本があった。


黒い表紙。


題名はない。


背表紙にも何も書かれていない。


なのに、恒一はなぜか、その本から目を離せなかった。


「それですか」


背後から声がした。


振り返る。


五十代くらいの男が立っていた。


白髪交じりの髪。


細い眼鏡。


古い灰色のカーディガン。


「店主ですか?」


「黒田です」


男はそれだけ言った。


恒一が本を指差す。


「これ……何の本ですか?」


黒田は答えなかった。


ただ、本を見つめている。


「買いますか?」


「え?」


「それ」


黒田が本を指差した。


「いくらです?」


「五百円」


安すぎる。


恒一はそう思った。


しかし、なぜか財布を取り出していた。


五百円玉を渡す。


黒田は受け取ると、釣りを出そうともせず言った。


「一つだけ、忠告しておきます」


「はい?」


黒田の表情が変わった。


それまで無表情だった顔が、ほんの少しだけ強張っている。


「最後まで読まないでください」


恒一は笑った。


「呪いの本とかですか?」


「そういう冗談ではありません」


「……じゃあ、どういう意味です?」


黒田は答えなかった。


代わりに、本を紙袋へ入れた。


「途中で読むのをやめても構いません」


「はい」


「ですが――」


黒田が恒一を見る。


「途中で、戻ってこないでください」


「戻る?」


「本を返しに来ても、私はいませんから」


意味が分からなかった。


恒一は苦笑しながら店を出た。


「ありがとうございました」


背後で扉が閉まる。


振り返る。


そこには確かに古本屋があった。


黒猫堂。


小さな看板もある。


恒一はそのまま駅へ向かった。


だが、その夜。


自宅に着いてから、ふと思った。


あの店、いつからあった?


スマートフォンで地図を開く。


駅裏の路地を検索する。


しかし――


そこに「黒猫堂」という店は存在しなかった。


「……検索に出ない店なのか?」


気にしないことにした。


風呂に入り、適当に夕食を済ませる。


そして午後十一時過ぎ。


恒一は、買ってきた本を机の上に置いた。


黒い表紙。


やはり題名はない。


「途中でやめろ、か……」


馬鹿馬鹿しい。


そう思いながら、表紙を開く。


一ページ目。


白紙だった。


二ページ目も。


三ページ目も。


「なんだこれ」


五百円とはいえ、完全なハズレだ。


そう思って本を閉じようとした。


そのとき。


最後のページに何か書いてあることに気づいた。


一番後ろのページ。


そこだけ、黒い文字が一行。


恒一は眉をひそめた。


ゆっくり読む。


> 「この物語を最後まで読んではいけない。」




「……なんだよ、これ」


思わず笑った。


だが、その直後。


違和感に気づいた。


その文章の下に。


さっきまで何もなかったはずの場所に――


もう一行、文字が浮かび上がっていた。


インクが紙に染み込むように。


ゆっくりと。


一文字ずつ。


「神谷恒一は、午後十一時十三分にこの本を開いた。」


恒一の顔から笑みが消えた。


時計を見る。


23時13分。


「……え?」


心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


本を見る。


さらに文字が増えていく。


「彼は、この時点ではまだ何も知らない。」


そして――


最後の一行。


「彼は、自分の名前がこの本に書かれていることに気づいた。」


恒一は息を止めた。


本を落とす。


バサッ。


床に落ちた本のページが勝手にめくれていく。


一枚。


また一枚。


そして最初のページで止まった。


そこには、さっきまで存在しなかった文章があった。



---


『最後のページを読んだ人』


第一章


神谷恒一は、黒い本を拾った。



---


恒一は動けなかった。


なぜなら、その文章の下に――


今まで自分が今日一日で経験した出来事が、最初から最後まで書かれていたからだ。


そして一番下。


まだ起きていない出来事が、一行だけ残っていた。


> 「午前零時、玄関のチャイムが鳴る。」




時計を見る。


23時59分。


その瞬間。


――ピンポーン。


玄関のチャイムが鳴った。

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