告白
俺は、一ノ瀬を、大学の屋上に呼び出した。
放課後、誰もいない屋上。授業の終わったキャンパスは、遠くで、微かにざわめいている。西の空が、ゆっくりと、赤く染まり始めていた。フェンスの向こうに、街が広がっている。その景色を背にして、一ノ瀬は、少し緊張した面持ちで、俺の前に立っていた。
たぶん、あいつは、俺が「返事」をするのだと思っている。あの、廊下の告白の。だから、その顔には、期待と、緊張が、入り混じっていた。
俺は、その期待を、これから、裏切るのかもしれない。あるいは――違う形で、応えるのかもしれない。それは、俺にも、わからなかった。ただ、言わなければならない。それだけは、決めていた。
「一ノ瀬。……聞いてほしいことがある」
俺は、拳を握った。手のひらに、爪が食い込む。半年間、誰にも――慧以外の誰にも言えなかったことを、今から、言う。心臓が、痛いほど、鳴っていた。
「わたし……いや」
俺は、そこで、言葉を、切り替えた。
この話をするときだけは、「俺」で話したかった。取り繕った「わたし」ではなく、本当の俺で、本当のことを伝えたかった。それが、俺の、せめてもの誠実さだった。嘘の一人称のまま、本当のことを話すのは、どうしても、嫌だった。
「俺は、半年前まで、男だった」
一ノ瀬の表情が、止まった。西日を浴びたその顔から、ゆっくりと、色々な感情が、抜け落ちていく。
「原因は、わからない。ある朝起きたら、こうなってた。事故でも、病気でもない。ただ、女の身体になってた。医者にも、わからなかった。……中身は、ずっと男のままだ。二十二年間、男として生きてきた。その記憶も、価値観も、全部、そのまま持ってる。お前が好きになった『柏木湊』は――半分が、嘘なんだ。俺は、ずっと、お前に嘘をついてた。女のふりをして。本当の自分を、隠して」
言葉が、堰を切ったように、あふれ出た。半年間、押し込めてきたものが、一気に。
「お前が、まっすぐ好意を向けてくれるたびに、俺は、嬉しかった。男だった頃、俺は、誰にも選ばれなかったから。でも、その嬉しさの分だけ、罪悪感で、苦しかった。お前が見てるのは、嘘の俺だから。噂を信じないで、庇ってくれた時……本当に、嬉しくて、でも、申し訳なくて、逃げ出した。ごめん。ずっと、騙してて、ごめん」
言い切って、俺は、目を閉じた。
これで、終わりだ。軽蔑されるだろう。混乱するだろう。気持ち悪がられるかもしれない。あの真っ直ぐな好意が、これで終わる。それでも――暴かれるより、自分で言いたかった。俺の口から、俺の言葉で。
覚悟して、俺は、一ノ瀬の言葉を、待った。
長い、沈黙があった。屋上を、夕方の風が、吹き抜けていく。俺のスカートの裾が、髪が、風に揺れた。
やがて、一ノ瀬が、口を開いた。
「……なんだ。そういうことか」
俺は、目を開けた。
一ノ瀬は、驚いてはいた。目を、見開いていた。だが――俺が覚悟したような、軽蔑も、嫌悪も、そこには、なかった。あるのは、むしろ、腑に落ちたような、奇妙な、安堵だった。長年の疑問が、ようやく解けたような、そんな表情。
「なんで……」俺は、掠れた声で言った。「気持ち悪く、ないのか。俺は、男だったんだぞ」
「気持ち悪い?」一ノ瀬は、不思議そうに、首を傾げた。「なんで、そうなるんだよ」
「だって……」
「柏木さんが、時々見せる、大人びた感じとか。俺と話すとき、どこか、一線引いてる感じとか。他の女子と、目の使い方が違うのとか。……ずっと、なんでだろうって、思ってた」一ノ瀬は、一歩、俺に近づいた。「なんか、秘密を抱えてるんだろうな、とは、思ってた。でも、それが、何かは、わからなかった。……理由が、わかった。それだけだ。むしろ、すっきりした」
「それだけって……俺は、男だったんだぞ。お前が、好きになった相手が、実は男だったんだ。それでも――」
「関係ねえよ」
一ノ瀬は、はっきりと、言い切った。夕陽の中で、その声は、揺るがなかった。
「俺が好きになったのは、柏木湊っていう、人間だ。値踏みしない目も、大人びた考え方も、噂に負けない強さも、時々見せる、寂しそうな横顔も。全部、ひっくるめて、好きになった。……そいつが、昔、男だった? だから、何だよ。俺が惚れた"中身"は、何一つ、変わってないだろ。昨日までの柏木さんと、今の柏木さんは、同じ人間だ。俺は、その人間が、好きなんだよ」
俺は、言葉を、失った。
こんなにも、あっさりと。俺が半年間、たった一人で抱え、恐れ続けてきた秘密を。こいつは、たった一言で、飛び越えてしまった。「関係ねえ」と。
「前に、言っただろ」一ノ瀬は、静かに続けた。声が、少し、震えていた。「俺、昔、大事なやつに、"言えないまま"だったことがあるって。……あれ、幼馴染だったんだ。ずっと、好きだった。でも、言えないまま、そいつの家が、遠くに引っ越して。それっきり、会えなくなった。連絡先も、聞けなかった。ずっと、後悔してる。あの時、一言、"好きだ"って、言っときゃよかったって」
一ノ瀬の目が、赤く、潤んでいた。夕陽のせいだけではなく。
「だから、決めたんだ。好きなら、ちゃんと伝える。逃げない。隠さない。……柏木さんが、こんなに勇気出して、一番隠したかったこと、俺に、話してくれたんだ。俺が、逃げるわけ、ないだろ。俺は、逃げねえよ。絶対に」
その言葉が、俺の中の、最後の壁を、崩した。
俺の目から、涙が、こぼれた。半年間、慧の前でしか流せなかった涙が。今、俺は、二人目の人間の前で、泣いていた。
男だった俺を。女になった俺を。こいつは、どちらも、否定しなかった。ただ、「柏木湊」という一人の人間として、まるごと、受け止めた。それが、どれだけ、俺が欲しかったものだったか。慧という「過去を知る場所」に加えて、俺は今、「今の俺を、過去ごと受け入れてくれる場所」を、手に入れた。
「……ずるいだろ、お前」俺は、涙をぬぐいながら、言った。「そんな風に言われたら、俺、断れないじゃないか」
「断らなくて、いいよ」一ノ瀬は、泣きながら、笑った。「俺は、待つって言っただろ。……ずっと、待ってたんだ。柏木さんの、本当の返事を」
赤い夕陽が、俺たち二人を、包んでいた。




