二つの自分と、これから
だが、俺には、まだ、やるべきことが、残っていた。
橘沙耶との、決着だ。
俺が一ノ瀬と付き合い始めたことが、サークルに知れ渡ると、橘の敵意は、頂点に達した。噂は、さらに、悪質になった。俺は、もう、逃げも隠れもしないと、決めていた。だから、ある日、部室で、橘が、ついに直接、俺に牙を剥いたとき、俺は、まっすぐ、その場に立った。
「あんた、何なの」橘の声は、震えていた。取り巻きたちの前で、女王の仮面が、剥がれかけていた。「どこから来たかもわからない、地味な新参者が。噂もあるくせに。一ノ瀬くんの、どこがいいわけ? あたしのほうが、ずっと、ずっと前から、あの子のこと――」
言いかけて、橘は、はっと、言葉を切った。
自分が今、何を口走ったのか、気づいたのだ。取り巻きたちが、気まずそうに、目を逸らしている。橘は、自分が、女王の仮面を脱いで、ただの一人の、恋に破れた女に、なっていることに、気づいた。その顔が、屈辱に、赤く染まった。
俺は、橘を、見た。
半年前の俺なら、この状況を、ただ「面倒な女の嫉妬」として、見下していたかもしれない。かつての俺は、こういう「女王」タイプが、正直、苦手だった。理解できない生き物だと、思っていた。
だが、今の俺には、橘の必死さが、わかった。痛いほどに。
橘は、ずっと、「女王」であることで、自分の価値を、証明してきたのだろう。可愛くあること。序列の上にいること。注目されること。誰よりも「女らしく」あること。それが、彼女の、存在の証明だった。だから、それが崩れることは、彼女にとって、自分そのものの否定に、等しかった。
俺が、この半年、「女として生きる」ことの、しんどさを知ったように。橘もまた、「女らしくあり続けること」の檻の中で、必死に、もがいていた。方向は真逆だが、俺たちは、同じ「性別という檻」の中で、あがいている者同士だった。
「橘さん」俺は、静かに言った。争う口調ではなく。「あなたは、一ノ瀬のこと、本気だったんだね」
橘の顔が、歪んだ。図星を突かれた者の、顔だった。目の縁に、涙が、滲んでいた。
「……あたしの、何が、わかるのよ」橘は、絞り出すように言った。「あんたなんかに」
「わからない。全部は」俺は、正直に言った。「でも、好きな人に、振り向いてもらえないつらさは……わかるよ。俺……わたしも、昔、ずっと、誰にも、振り向いてもらえなかったから。好きだって、言えなかったから。だから、あなたが、一ノ瀬に振り向いてほしくて、必死になる気持ちは、少し、わかる」
それは、本音だった。男だった頃の、俺の。誰にも選ばれず、誰にも言えず、恋の舞台の観客席で、ずっと、指をくわえていた、あの頃の俺の。
橘は、俺を、睨んだまま、動かなかった。
だが、その目から、敵意が、少しずつ、抜けていくのが、わかった。俺が、彼女を、見下していないこと。憐れんでいないこと。同じ地平に立って、話していること。それが、伝わったのかもしれない。
「……あんた、変な奴ね」橘は、ふいに、力が抜けたように、言った。「勝った側が、なんで、そんな、悲しそうな顔、すんのよ。……調子狂うわ」
「勝ち負けじゃ、ないと思うから」俺は言った。「あなたと俺は、同じだよ。たぶん。……色々、しんどい思いして、生きてる」
橘は、何も言わなかった。ただ、くるりと背を向けて、「もう、いい」と、小さく言って、部室を出ていった。その背中は、いつもの、堂々とした女王の背中では、なかった。少しだけ、丸まった、一人の、疲れた人間の背中だった。
それきり、噂は、ぱたりと、止んだ。橘が、取り巻きに、何か言ったのかもしれない。あるいは、ただ、興味を失ったのか。理由は、わからない。だが、俺への風当たりは、少しずつ、和らいでいった。
俺は、この対決を通して、一つの実感を、得ていた。
俺は今、「女としての自分」を、初めて、正面から、引き受けた。逃げず、見下さず、争わず、同じ地平に立って。それは、俺が「女になった自分」を、心のどこかで、ようやく、肯定できた、通過儀礼だったのかもしれない。橘という、俺とは真逆の場所で檻に囚われた女と、向き合うことで。
*
すべてが落ち着いた頃、俺は、慧を、いつもの中庭に、呼び出した。
秋が、深まっていた。中庭の木々が、赤や黄に、色づき始めていた。ベンチに並んで座ると、昔と同じ、心地よい沈黙が、二人の間に流れた。
「一ノ瀬に、全部話した」俺は言った。「あいつ、受け入れてくれたよ。……男だった俺も、女の俺も、全部。関係ねえ、って」
「そうか」慧は、少し笑った。「よかったな」
その笑顔が、どこか、寂しそうに見えた。俺は、意を決して、言った。ずっと、言えていなかったことを。
「慧。お前に、ずっと、言えてなかったことがある」
「なんだよ、改まって」
「ありがとう。……お前が、いてくれたから、俺は、ここまで来られた」
慧が、目を見開いた。
「女になって、一番きつかった時、俺の"男だった頃"を、覚えてくれてたのは、お前だけだった。前に、お前、"昔のお前を覚えてるのが寂しい"って、言っただろ。あれ、聞いた時、俺、お前に寂しい思いをさせて、悪いって、思ってた。でも……本当は、あれが、俺の、支えだったんだ」
俺は、色づく木々を、見上げた。
「誰か一人でも、本当の俺を、知ってる人がいる。男だった俺を、覚えててくれる人がいる。それだけで、俺は、"男だった自分"を、なかったことにしなくて、済んだ。女として生きながら、でも、男だった過去も、ちゃんと、俺の一部なんだって、思えた。……お前が、覚えててくれたから。俺は、女として生きる勇気を、持てたんだ。お前の"寂しさ"が、俺を、救ってた」
慧は、しばらく、黙っていた。俯いて、自分の手を、見ていた。それから、いつもの、ぶっきらぼうな声で、言った。
「……当たり前だろ。親友なんだから」
その一言に、俺たちの間に、半年間、積もっていた、言葉にできない何かが、すっと、溶けていくのを、感じた。
慧が飲み込んでいた喪失も。俺が飲み込んでいた罪悪感も。もう、飲み込まなくて、いい。俺たちは、恋人には、ならない。ずっと、親友のままだ。それでいい。それが、いい。だが、その「親友」という関係は、この半年で、昔よりずっと、深く、確かなものに、なっていた。喪ったものを、二人で分かち合うことで。
「なあ、慧」俺は、空を見上げたまま、言った。「俺、決めたんだ」
「何を」
「男に戻る方法、もし、見つかっても……もう、焦って探すの、やめる」
慧が、こちらを見た。
「俺は、男だった。二十二年間。今は、女だ。この半年。……どっちも、俺だ。どっちかを、なかったことにするんじゃなくて。どっちかを、選ぶんでもなくて。両方、抱えて、生きていく。男だった記憶も、女になってからの経験も、全部、柏木湊っていう、一人の人間の、人生だ。……そう、思えるように、なった」
男だった二十二年間も。女になってからの半年も。これからも。全部が、俺の人生だ。
一ノ瀬が、それを教えてくれた。今の俺を、過去ごと、受け入れることで。
慧が、それを支えてくれた。男だった俺を、覚えていてくれることで。
橘が、それを引き受ける勇気を、くれた。俺とは違う檻を、見せてくれることで。
「上等じゃねえか」慧は、笑った。今度は、寂しそうではない、心からの笑顔だった。「お前は、昔から、そういう奴だよ。ぐだぐだ悩んで、最後は、まっすぐな答えを出す。……変わってねえな、中身」
「うるさい」
俺も、笑った。二人で、声を上げて、笑った。昔と、同じように。
*
その日の夕方、俺は、一ノ瀬と、帰り道を、並んで歩いていた。
あいつは、相変わらず、半歩下がって、車道側を歩く。無意識の、気遣い。付き合い始めても、それは、変わらなかった。
「なあ、柏木さん」一ノ瀬が言った。「一個、聞いていい?」
「なに」
「俺のこと、好き?」
あまりに、直球で、俺は、噴き出した。こいつは、本当に、まっすぐだ。付き合ってもなお、確かめずにはいられないらしい。
俺は、少し、考えた。そして――男だった頃には、一生、言えなかったであろう言葉を、口にした。喉の奥から、地の底の「俺」ごと、絞り出すように。
「……うん。好きだよ」
一ノ瀬の顔が、夕陽よりも、赤くなった。その、わかりやすい反応に、俺は、また、笑った。
誰かを好きになって、それを、口に出せる。振り向いてもらえる。その、当たり前の幸せを、俺は、二十二年間、一度も、味わえなかった。それを、この身体になって、初めて、手に入れた。皮肉と言えば、皮肉だ。だが、もう、皮肉だとは、思わなかった。
二度目の青春。望んでもいなかったはずの、それは。いつの間にか、俺にとって、かけがえのない、ものになっていた。
男だった俺を。女になった俺を。どちらも、抱えて。
俺の、新しい人生が――ようやく、本当に、始まろうとしていた。
夕陽が、長く伸びた俺たちの影を、一つに、重ねていた。




