二つの嘘の間で
限界が近づいたのは、雨の日だった。
噂に疲れ、講義にも身が入らず、俺は一人、傘を差して、雨の中を歩いていた。灰色の空から、細かい雨が、絶え間なく降っていた。傘を持つ手が、やけに重かった。世界の全部が、湿って、俺の肩に、のしかかってくるようだった。
「柏木さん!」
声に振り返ると、一ノ瀬が、傘も差さずに、走ってきた。
髪が、シャツが、ぐっしょりと濡れている。それも構わず、あいつは、俺の前で、息を切らして立ち止まった。
「探した。……大丈夫か。最近、なんか、避けられてる気がして。しんどそうだから、心配で」
雨に濡れた一ノ瀬の顔が、本気で俺を心配していた。
俺は、思わず、自分の傘を、一ノ瀬に差し出しかけた。だが、その手が、途中で止まった。あの噂を、こいつは、知らないはずがない。学年に広まっているのだから。なのに、一ノ瀬は、俺を疑う様子が、まるでなかった。ただ、純粋に、俺の身を、案じていた。
「噂、聞いてるだろ」俺は、自嘲気味に言った。傘の柄を、握りしめて。「男遊びが激しいとか、計算だとか。……お前に近づいたのも、計算だって、みんな言ってる」
「聞いた」一ノ瀬は、あっさり頷いた。雨粒が、その頬を伝った。「でも、どうでもいい」
「どうでもいいって……」
「柏木さんが、そういう人じゃないの、俺が一番わかってるから」
一ノ瀬は、まっすぐに、俺の目を見た。雨の中で、その目だけが、揺るがなかった。
「噂がなんだよ。会ったこともないやつが、勝手に作った話だろ。俺は、柏木さんと、一緒に飯食って、講義受けて、喋って、笑ってきた。俺が、この目で見てきた柏木さんが、本物の柏木さんだ。他人の噂なんかより、俺は、自分が見てきたものを、信じる」
その言葉に、俺は――泣きそうになった。雨に紛れて、涙が、こぼれそうになった。
こいつは、本気で、俺を信じている。まっすぐに、疑いなく。俺という人間を、まるごと。
だが、そのまっすぐさが、同時に、俺を、最も深く刺した。
一ノ瀬が信じている「柏木湊」は、半分が嘘だ。あいつが「この目で見てきた」と言っているものの、根っこには、元男という、あいつの知らない事実が、横たわっている。あいつは、俺の嘘を、命がけで守ってくれている。何も知らないまま。他人の悪意から、俺を庇ってくれている。俺自身が、一番、大きな嘘をついているのに。
その優しさが、どうしようもなく、苦しかった。
「……ありがとう」俺は、なんとか、それだけ言った。「風邪、ひくよ。早く、帰りな」
俺は、一ノ瀬に傘を押し付けて、雨の中を、走って逃げた。あいつの顔を、これ以上、見ていられなかった。
*
その夜、俺は、慧に電話をかけた。
「……もう、限界かもしれない」俺は、暗い部屋で、膝を抱えて言った。「一ノ瀬に、嘘をつき続けるのが、しんどい。あいつは、いい奴なんだ。噂を信じないで、俺を庇ってくれた。……いい奴すぎて、余計に、つらい」
電話の向こうで、慧は長いこと黙っていた。俺の呼吸の音だけが、二人の間に流れた。
やがて、慧は、静かに言った。
「湊。お前が本当につらいのは、嘘をついてることじゃないだろ」
「え?」
「本当は――あいつに、本当の自分を、知ってほしいんじゃないのか」
俺の、心臓が、跳ねた。
「俺だけが知ってる"男だった湊"を、あいつにも、見てほしい。噂を信じないで庇ってくれるくらい、お前を信じてるあいつになら、本当の自分を、受け止めてもらえるんじゃないか。……そう、思い始めてる。違うか?」
俺は、電話を握りしめたまま、動けなかった。
図星だった。完全に。
俺は、慧という「本当の自分を知る場所」を、持っている。その安心を、半年間、味わってきた。誰か一人でも、本当の俺を知っている人がいる。その事実が、どれだけ、俺を支えてきたか。
だからこそ――俺は、一ノ瀬にも、同じものを、求め始めている。嘘をつき続けたくないんじゃない。本当の俺を、あいつにも、受け入れてほしい。慧だけじゃなく、一ノ瀬にも、「俺」でいられる場所が、欲しい。
でも、それは――あまりに、危険な望みだった。慧は、TS前からの親友だ。昔の俺を、知っている。だから、受け入れられた。だが、一ノ瀬は、違う。あいつが恋したのは、女の俺だ。その俺が、実は男だったと知ったら。積み上げてきた好意が、根こそぎ、崩れるかもしれない。庇ってくれた優しさが、裏切られたという怒りに、変わるかもしれない。
「……どうすればいいと思う」
「それは、俺が決めることじゃない」慧の声は、優しかったが、どこか、痛みを含んでいた。「お前が、決めることだ。誰かに背中を押されて決めることじゃない。……ただ、一つだけ言わせてくれ」
慧は、一度、言葉を切った。そして、絞り出すように、言った。
「どっちを選んでも、俺は、お前の味方だから。打ち明けても、打ち明けなくても。うまくいっても、いかなくても。俺は、ずっと、お前の隣にいる。……それだけは、何があっても、変わらない。だから、お前は、お前の心が言うほうを、選べ」
電話を切って、俺は、窓の外の雨を、長いこと見ていた。
雨は、まだ、降り続いていた。だが、俺の心の中では、何かが、少しずつ、固まり始めていた。慧の言葉が、俺の背中に、そっと、手を添えていた。
安心(慧)と、罪悪感(一ノ瀬)。二つの嘘の間で、俺の心は、限界まで張り詰めていた。
もう、飲み込み続けることは、できそうになかった。
――そして、俺が決断を、あと一歩のところで、ためらっている間に。事態のほうが、先に、動いた。
数日後、橘沙耶が、次の手を、打ってきたのだ。今度は、噂ではなかった。もっと、直接的だった。
サークルの飲み会の席。橘は、酔ったふりをしながら、俺の過去を、探り始めた。
「柏木さんって、高校どこだっけ? あたしの知り合いも同じ地元でさ、聞いてみようと思って」
俺の背筋が、冷たくなった。
俺の出身高校を調べられたら――男子校だったことが、わかってしまう。柏木湊は、男子校の卒業生。戸籍や書類の上では、うまく処理されているはずだが、"人の記憶"までは、消せない。同じ高校の卒業生が一人でもいて、「柏木なんて女子はいなかった」と証言すれば。その一点が露見すれば、俺の秘密は、根本から、崩れる。
「……普通の、共学だよ」俺は嘘を重ねた。嘘の上に、また、嘘を。
だが、橘の目は、獲物を見つけた目だった。笑みの奥で、爛々と光っていた。「へえ。名前、教えてよ。ほんとに知り合いかもしれないし」
その場は、たまたま同席していた慧が、「湊、そろそろ終電だろ」と割って入って、なんとか切り抜けた。だが、店を出た俺の手は、震えていた。
俺は、悟った。橘は、俺が「何かを隠している」ことに、勘づいている。そして、それを暴くことが、俺を排除する最も確実な方法だと、気づき始めている。
時間の問題だった。
帰り道、俺は、雨上がりの夜空を見上げて、長く、息を吐いた。星が、滲んで見えた。
もう、逃げ切れない。橘に暴かれるか、自分で打ち明けるか。どちらにせよ、秘密が明るみに出る日は、すぐそこまで、来ていた。
だったら――と、俺は思った。心の中の、何かが、ようやく、定まった。
誰かの悪意によって、俺の一番大切な秘密を、暴かれるくらいなら。
俺は、俺の言葉で、俺の一番大切にしたい人に、伝えたい。
一ノ瀬律に。




