噂という刃
橘沙耶の反撃は、静かに、そして的確に始まった。
最初は、些細な違和感だった。サークルで、俺に話しかけてくる人が、目に見えて減った。次に、俺が部室に入っていくと、それまで弾んでいた会話が、不自然に途切れるようになった。誰かが俺を見て、隣の子に何か囁く。その繰り返し。そして、ある日、俺は、その囁きの中身を、偶然、知ってしまった。
トイレの個室に入っていた時だった。外で、二人の女子が、話していた。
「柏木さんって、男遊びが激しいらしいよ」
「えー、あの大人しそうな子が?」
「一ノ瀬くんに近づいたのも、計算なんだって。ほら、あの子、どこから来たかもよくわからないじゃん。噂だと、高校の頃、いろいろあって、それで――」
「うわ、こわ。見た目で判断できないね」
根も葉もない噂だった。だが、それは、確かな悪意を持って、サークルの、そして学年の一部に、静かに広がっていた。出所は、考えるまでもない。橘だ。直接手を汚さず、取り巻きを通じて、俺の評判を、じわじわと削っていく。証拠は残さず、ただ「そういう空気」だけを作っていく。やり方が、あまりに巧妙で、俺は、反論する糸口すら、掴めなかった。
皮肉なのは、その噂の一つ――「高校の頃、いろいろあった」――が、方向は全然違うが、"秘密を抱えている"という一点だけは、当たっていたことだ。
俺は確かに、隠していることがある。とてつもない秘密を。だから、噂を「事実無根だ」と、胸を張って否定できない。俺の内側には、常に、後ろめたさがある。その後ろめたさが、噂を否定する俺の声を、どこか、弱くした。嘘をついている人間は、自分の潔白を、心の底からは主張できない。俺は、そのことを、身をもって知った。
俺は、孤立し始めていた。
男だった頃、俺はもともと友達が少なかった。教室の隅で、一人で本を読んでいるような、そういう学生だった。だから、孤立には慣れている――そう思っていた。
だが、違った。
あの頃の孤立は、「最初から、誰もいない」孤立だった。期待していないから、傷つかない。凪いだ、静かな孤独。
今のこれは、違う。「いた人が、離れていく」孤立だ。昨日まで笑って話していた人が、今日は目を逸らす。輪の中にいた自分が、少しずつ、外側へ押し出されていく。この、剥がされていくような痛みは、最初から一人だった頃の比では、なかった。ずっと、こたえた。
誰にも言えなかった。
慧には、心配をかけたくなかった。あいつは、俺のことになると、自分のことのように悩む。これ以上、俺のことで、慧の心を、重くしたくなかった。
一ノ瀬には――言えるわけがない。噂の中心にいる俺を、あいつはどう思っているだろう。もし、あいつまで、あの噂を信じていたら。あの、まっすぐな目が、疑いに濁っていたら。それを確かめるのが、怖くて、俺は、一ノ瀬を、避けるようになっていた。
一人で抱えて、俺は少しずつ、すり減っていった。
夜、部屋で一人になると、涙が出た。理由もなく。ただ、疲れていた。女として生きることの、本当のしんどさを、俺はこの時、初めて味わっていた。視線。噂。序列。孤立。男だった頃、まったく見えていなかった、女たちの静かな戦場。武器もなく、味方もなく、俺は、その真ん中に、丸腰で立たされていた。
半年前、俺は「元に戻れないこと」を、一番の不幸だと思っていた。だが、本当のしんどさは、身体が変わったことじゃなかった。変わった身体で、この社会を、生きていくこと。それ自体が、想像を絶する、重労働だった。




