交わる線
最悪のタイミングというのは、狙ったように訪れる。
その日、俺は慧と、大学の中庭で話していた。
昼下がりの、人気の少ない時間。ベンチに並んで座って、俺は「俺」で喋っていた。周りに人がいないのを確かめて、油断していた。慧といる時間は、俺にとって、唯一の休息だ。その休息に、俺は、いつもより深く、身を委ねていた。
「だからさ、一ノ瀬のことは、いい加減はっきりさせないと――」
「柏木さん?」
背後からの声に、俺は凍りついた。
一ノ瀬だった。いつからそこにいたのか。俺の、男の言葉遣いを、聞かれたか?
全身の血が、すっと引いた。時間が、やけにゆっくり流れる。俺は、必死に、直前の自分の言葉を思い返した。何を喋っていた。どこから聞かれた。
「あ……一ノ瀬」俺は慌てて「わたし」の顔に戻る。声のトーンを、上げる。「どうしたの、こんなとこで」
「いや、見かけたから」一ノ瀬の視線が、俺と慧の間を、行き来した。その目に、これまで見たことのない、硬さがあった。「……えっと、そちらは?」
その声に、微かな棘があった。独占欲、と呼ぶべきものが、初めて、一ノ瀬の表情に覗いた。俺と慧の、二人だけの空気。その親密さを、あいつは、敏感に嗅ぎ取っていた。恋する者の、鋭い勘で。
「藤堂慧。高校からの、幼馴染みたいなもんだよ」慧が、落ち着いた声で間に入った。眉一つ動かさず。「湊とは、ただの腐れ縁。心配しなくていい」
湊、と慧は呼んだ。その呼び方の、あまりの自然さに、一ノ瀬の眉が、わずかに動いた。「柏木さん」ではなく「湊」。下の名前を、呼び捨てにする関係。その距離の近さが、一ノ瀬の心に、小さな棘を刺したのが、わかった。
「……そうすか」一ノ瀬は、無理に笑った。だが、その笑いは、いつもの、屈託のない笑いではなかった。「じゃあ、俺、行くわ。柏木さん、また」
立ち去る一ノ瀬の背中を見送って、俺は大きく息を吐いた。心臓が、まだ、うるさい。
「……聞かれたかな。俺の喋り方」
「たぶん、途中からだ。言葉遣いまでは、聞き取れてないと思う」慧は言った。だが、その表情は、硬かった。「でも、湊。気をつけろ。あいつ、お前と俺のこと、勘繰り始めてる」
「勘繰るって……俺とお前は、そんなんじゃ」
「わかってる。俺は、お前を、そういう目で見てない。お前だってそうだろ」慧は、まっすぐ俺を見た。「でも、恋してる奴の目は、そういう理屈じゃ動かないんだよ。理屈で"違う"ってわかってても、心が、勝手に引っかかる。……厄介なんだ、あれは」
慧の言葉には、妙な実感がこもっていた。
俺は、ふと思った。こいつは、恋してる奴の目、というものを、どこで知ったんだろう。慧が誰かに恋している話なんて、聞いたことがない。高校の頃も、大学に入ってからも。あいつは、いつも、俺の恋の相談に乗るばかりで、自分の話は、一度もしなかった。
「なあ、慧。お前、誰か――」
「じゃあな。俺、次、講義だから」
俺が聞き終える前に、慧は立ち上がって、いつもより早口に、去っていった。逃げるように。その背中を、俺は、見送るしかなかった。
中庭に、一人残されて、俺は、複雑な気持ちで、空を見上げた。
一ノ瀬の独占欲。慧の、隠された何か。俺の、包囲されつつある秘密。それらが、俺の知らないところで、少しずつ、絡まり合い、締まっていく。糸が、いつか、どこかで、切れる。その予感だけが、確かに、あった。
そして、その予感通り――もう一つの脅威が、静かに、動き始めていた。




