流されそうな夜
一ノ瀬律との距離は、俺が望むより早く、縮まっていった。
断ろう、断ろうと思いながら、断りきれない。あいつは、決して無理強いはしなかった。ただ、諦めもしなかった。講義の隣、学食での相席、帰り道の途中まで。まるで、雨だれが石を穿つように、少しずつ、少しずつ、俺の日常に、一ノ瀬のいる時間が、染み込んでいった。気づけば、それが、当たり前になりつつあった。
その夜、俺たちはサークル後、二人で夕飯を食べていた。成り行きだった。「腹減ったし、飯行こうぜ」の一言に、断る理由を探すのが、だんだん億劫になっている自分がいた。
入ったのは、大学の近くの、小さな定食屋だった。学生で賑わう、安くて量の多い店。一ノ瀬は、唐揚げ定食を、旨そうに頬張っていた。その食べっぷりが、見ていて気持ちよかった。
「柏木さんって、時々、すげえ大人っぽいこと言うよな」
定食をつつきながら、一ノ瀬が言った。「同い年なのに、なんか、二十歳くらい上の人と話してる気分になる時ある」
当たり前だ。中身は、お前より少しだけ長く生きた男だ。だが、それは言えない。
「……老けてるってこと?」俺ははぐらかす。
「違う違う」一ノ瀬は笑った。「頼れる、っていうか。安心する、っていうか。俺、柏木さといると、なんか、素でいられるんだよな。格好つけなくていいっていうか」
その言葉が、ちくりと刺さった。
素でいられる。それは、俺が慧に対して感じていることと、同じだった。一ノ瀬は俺といると素でいられて、俺は慧といると素でいられる。だが、一ノ瀬が「素でいられる」相手の俺は、実は、素じゃない。女を演じている、嘘の俺だ。皮肉な、鏡合わせだった。
「……格好つけなくて、いいのか。彼女候補の前で」俺は、少し意地悪く聞いてみた。
「うーん」一ノ瀬は箸を止めて、真面目に考え込んだ。「格好つけたい相手には、格好つけちゃうんだよな。でも、柏木さんの前だと、なんでか、そういう気が起きない。ありのままでいいって、思える。……これって、けっこう、すごいことだと思うんだよ、俺」
俺は、返す言葉に詰まった。
こいつは、本気で言っている。俺という人間に、心を許している。無防備なほどに。その信頼が、まっすぐであればあるほど、俺の胸は、締めつけられた。
正直に言えば――俺も、一ノ瀬といる時間が、嫌いではなくなっていた。
男に戻れないまま、女として生きる。その現実を、俺はずっと「耐えるもの」だと思ってきた。歯を食いしばって、やり過ごすもの。だが、一ノ瀬の真っ直ぐな好意に触れていると、時々、思ってしまう。この人生も、そんなに悪くないんじゃないか、と。誰かに、まっすぐ求められる。存在を、まるごと肯定される。それは、男だった頃、俺が一度も味わえなかった甘さだった。喉が渇いていた人間が、初めて水を与えられたような。
流されかけている。
自覚したとき、俺は箸を置いた。
流されたら、どうなる。俺は一ノ瀬に、嘘をつき続けることになる。あいつが好きになった「柏木湊」は、半分が嘘でできている。この甘さは、砂糖の衣を着た罪悪感だ。舐めれば舐めるほど、後で苦くなる。いつか、この嘘は、俺と一ノ瀬の両方を、傷つける。それが、わかっていた。
「一ノ瀬」
「ん?」
「……お前は、なんで、そんなにまっすぐなんだ」
思わず、そう聞いていた。
一ノ瀬は、少し驚いた顔をして、それから、水を一口飲んで、言った。
「まっすぐじゃなかった時期も、あるよ」
その声が、ふいに、静かになった。
「昔、好きなやつに、何も言えないまま、そいつが、いなくなったことがあってさ。……ずっと後悔してるんだ。あの時、ちゃんと言っときゃよかったって。だから、決めたんだよ。好きなら、伝える。逃げない。後悔だけは、二度としたくねえから」
その横顔に、俺の知らない、深い影があった。
いつも明るい、まっすぐなだけの男だと思っていた。だが、こいつのまっすぐさは、生まれつきのものじゃなかった。何かを失った痛みから、意志で、選び取ったものだった。
その夜、俺は、一ノ瀬に、また一つ、惹かれてしまった自分を、認めざるを得なかった。そして、その分だけ、言えない秘密が、重くなった。




