女王の視線
俺が所属しているのは、ゆるい文芸サークルだ。
週に一度、部室に集まって、好きな本の話をしたり、書いた掌編を見せ合ったりする。人数は多くないが、居心地のいい場所だった。TS後の俺が、唯一、「趣味」で繋がれた場所。誰も俺の過去を知らないから、俺は、ただ本好きの一人として、そこにいられた。少なくとも、その日までは。
部室に入ると、空気が、微妙に冷たかった。
「あ、柏木さん」
声をかけてきた女子の目が、どこかよそよそしい。俺が近づくと、それまで話していた数人が、さっと話をやめる。そういうことが、その日、何度もあった。会話の輪に入ろうとすると、輪が、少しだけ、俺から遠ざかる。目に見えない壁が、いつの間にか、俺の周りに、できていた。
理由は、すぐにわかった。
部室の奥、いつもの定位置に、橘沙耶がいた。
文芸サークルには珍しい、華やかな存在だ。長い髪を丁寧に巻いて、爪の先まで手入れが行き届いている。本人も文章を書くらしいが、それ以上に、この部の「空気」を握っている人物だった。彼女が笑えば場が明るくなり、彼女が不機嫌になれば、全員が顔色を窺う。女王、という言葉が、これほど似合う人間を、俺は他に知らない。
その橘が、俺を見て、にっこりと笑った。
「柏木さん。最近、一ノ瀬くんと仲いいんだって?」
声は甘い。砂糖菓子のように。だが、目が笑っていない。俺は、この手の視線を、半年間で嫌というほど覚えた。すれ違いざまに向けられる、女たちの、無言の視線。品定めの視線とも、好意の視線とも違う。これは――排除の視線だ。「お前は、ここにいるべきではない」と告げる、静かな圧力。
「別に、仲いいってわけじゃ」
「またまた。廊下で告白されたんでしょ? 有名だよ」橘は髪をかき上げた。指先の宝石のようなネイルが、蛍光灯を反射して光る。「一ノ瀬くん、モテるからねえ。うちのサークルにも、狙ってる子、何人もいるんだよ。……あんまり、勘違いさせないほうがいいと思うな。あの子のためにも。ね?」
言葉は、一見、忠告の形をしていた。優しい先輩の、親切なアドバイス。だが、中身は、明確な牽制だった。一ノ瀬は私のテリトリーだ、出しゃばるな――そう言っている。周囲の女子たちが、固唾を呑んで、俺の反応を待っているのが、空気でわかった。ここで俺がどう出るかを、彼女たちは、値踏みしている。
俺は、この状況を、頭のどこか冷めた場所で分析していた。
橘は、一ノ瀬に想いを寄せている。おそらく、かなり長い間。その一ノ瀬が、突然現れた「新参者」に、公衆の面前で告白した。橘のプライドは、深く傷ついた。だから、序列を守るために、俺を排除しにかかっている。単純で、わかりやすい構図だ。恋愛のもつれと、女社会のヒエラルキー。その二つが、俺という異物を、弾き出そうとしている。
男だった頃の俺なら、こんな女子の力学とは、一生無縁だっただろう。教室の隅で、こういう「女王」の存在を、遠くから眺めるだけの立場だった。まさか、自分がその渦の、ど真ん中に立つ日が来るとは。
「……忠告、どうも」
俺は、それだけ言って、部室を出た。言い返すこともできた。だが、争うことに、意味はない。俺が欲しいのは、平穏だ。橘と戦って、この居心地のいい場所を、戦場に変えたくはなかった。
背中に、橘の視線が刺さるのを感じながら、俺は廊下に出た。
大きく、息を吐く。
面倒なことになった。一ノ瀬の好意も、慧の抱える喪失も、橘の敵意も、全部、俺が「女になった」ことから生まれている。俺は、ただ静かに卒業したかっただけなのに。世界は、俺を、静かにさせてはくれないらしい。
だが――と、俺は思う。
この面倒事の一つ一つが、俺が「柏木湊という一人の女」として、確かにこの世界に存在し始めた証でもある。誰にも気づかれなかった男が、今、複数の人間の感情を、否応なく巻き込んでいる。存在感、というものを、俺は生まれて初めて、持て余していた。
それが、嬉しいのか、しんどいのか。俺には、まだ、わからなかった。ただ、心臓のあたりが、ざわざわと落ち着かないことだけは、確かだった。
その夜、慧に、橘のことをメッセージで報告すると、短い返信が来た。
『そういう手合いは、正面から相手にするな。放っておけ。ただ、噂には気をつけろ』
噂。その言葉の意味を、俺は、数日後に、思い知ることになる。




