俺に戻れる場所
その週末、俺は慧の部屋にいた。
TS前からの習慣だ。俺と慧は、月に何度か、どちらかの部屋でだらだらと過ごす。昔はゲームをして、くだらない話をして、時間を潰した。女になってからも、それは変わらない――変わらないように、二人で努めている、というのが正確かもしれない。
藤堂慧。俺の、たった一人の親友だ。そして――この世界で唯一、俺が「元は男だった」ことを知っている人間でもある。
高校からの付き合いだった。出会いは、二年の時の、席替えだった。隣の席になった慧は、無口で、目つきが悪くて、最初は「関わりたくないタイプ」だと思っていた。だが、ある日、俺が現代文の教科書を忘れて困っていたとき、慧が黙って自分の教科書を、机の真ん中に、すっと寄せた。何も言わず。それが、始まりだった。
以来、俺たちは、いつも一緒にいた。喋らなくても、居心地がよかった。お互いの家庭の事情も、将来の不安も、恋の失敗も、全部知っていた。俺が女の子に振られるたび、慧は「ドンマイ」の一言で済ませて、コンビニのアイスを奢ってくれた。そういう、関係だった。
だから、俺があの朝、女の身体で目を覚まして、パニックのまま最初に電話をかけた相手が、慧だったのは、当然のことだった。
あいつは俺の取り乱した声を、最後まで聞いた。俺が「もう終わりだ」「どうすればいいかわからない」と、めちゃくちゃなことを喚くのを、遮らずに聞いて、それから、「とりあえず、そっち行く」とだけ言って、本当に来た。始発で。
部屋に来た慧は、女になった俺を見ても、悲鳴も上げなければ、目も逸らさなかった。ただ、まじまじと俺を見て、しばらくして、こう言った。
「……大変だな、お前」
それだけだった。その、あまりにいつも通りの一言に、俺は、その場で泣き崩れた。慧は、俺が泣き止むまで、ただ、隣に座っていた。何も聞かず、何も慰めず。ただ、いてくれた。あの時間が、なければ、俺はたぶん、今、ここにいない。
「――で、固まってたわけだ。廊下のど真ん中で」
湯気の立つカップ麺を啜りながら、慧は呆れたように言った。俺は、一ノ瀬の一件を、さっき話したところだった。
「笑うなよ」俺は箸を置いた。「そっちの身にもなってみろ。いきなり連絡先教えろって」
「羨ましい話じゃねえか。モテなかった男が、モテ期到来だぞ」
「うるさい」
慧の前でだけは、俺は「俺」に戻れる。声色まで男に戻るわけじゃないが、言葉遣いも、態度も、取り繕わなくていい。膝を開いて座っても、がさつに笑っても、誰にも咎められない。女を演じなくていい、たった一つの時間。半年間、この時間だけが、俺の呼吸できる場所だった。ここでだけ、俺は、俺のままでいられた。
「一ノ瀬、まだ諦めてないのか」
「毎日、講義に付いてくる。参るよ」俺はクッションに顎を乗せた。「悪い奴じゃないのが、余計たちが悪い」
「湊は、どうしたいんだ」
「どうもこうも。断るしかないだろ。……あいつは、俺が男だったって知らないんだぞ。付き合うなんて、無理に決まってる」
言いながら、俺は自分の声に、ほんの少しの迷いが混じったのに気づいた。慧も、たぶん気づいた。画面の中でキャラクターが倒されても、あいつはコントローラーを置いて、こちらを見た。
「無理、って決めてるのは、湊自身か? それとも、"男だった俺"か?」
静かな問いだった。核心を、まっすぐに突く問い。慧は、昔から、こういうところがある。普段は無口なくせに、時々、俺が一番触れられたくないところに、そっと指を置く。
俺は答えられなかった。
俺は、女として誰かに好かれることを、「元男の自分」への裏切りみたいに感じている。男だった俺が、男に好かれて、それを受け入れる。それは、俺の中の「男」を、殺すことのような気がしていた。でも――それは、本当に、そうなのか? 中身が男なら、男を好きにならない。そう決めているのは、俺自身の、古い価値観じゃないのか?
わからなかった。半年やそこらで、二十二年ぶんの自分を、作り変えられるはずがない。
「……お前は」俺は話を逸らすように言った。「俺が女になって、その、嫌じゃないのか」
慧の手が、止まった。
長い沈黙のあと、あいつは、画面のほうを向いたまま言った。
「嫌なわけ、ないだろ」
声が、いつもより低かった。
「ただ……たまに、思う。昔のお前を覚えてるの、たぶん、この世で俺だけになったんだなって」慧は、缶コーヒーを、両手で包んだ。「お前の親も、親戚も、大学の連中も、今のお前しか見てない。みんな、"柏木湊は昔からこういう子だった"って、そう思ってる。……写真の中の、男の柏木湊を見て、"これがあいつだ"ってわかるの、たぶん、俺しかいない。あの、モテなくて、ダサくて、でも、優しかったお前を、覚えてるのが。……それが、なんか、寂しい時がある。それだけだ」
俺は、何も言えなかった。
慧が飲み込んでいたのは、これだったのか。恋愛でも、同情でもない。もっと静かで、もっと重い、喪失に似た何かだった。俺が女になって失ったものを、慧もまた、別の形で失っていた。「男だった柏木湊」という存在を、覚えている最後の一人として、あいつは一人で、それを抱えていた。俺が、自分のことで精一杯だった半年の間、ずっと。
「……悪い」俺は小さく言った。
「なんで謝るんだよ」慧は苦笑して、コントローラーを俺に押し付けた。「ほら、次お前の番。ぼーっとすんな」
いつもの慧に戻っていた。だが俺は、その夜、この親友が抱えているものの重さを、初めて、ほんの少しだけ、知った気がした。
俺は、一ノ瀬の好意に戸惑い、慧の喪失に胸を痛めている。半年前、ただ「元に戻りたい」としか考えていなかった俺の世界は、いつの間にか、こんなにも、たくさんの人の感情と、絡み合い始めていた。




