まっすぐすぎる
一ノ瀬律は、諦めるという概念を持っていないらしい。
あの廊下の一件から三日、俺はまだ返事をしていなかった。断るつもりだった。「ごめんなさい」の一言で終わらせるつもりだった。だが、断る前に、一ノ瀬のほうが動いた。
「柏木さん、次の講義、社会学だろ。俺も同じだから、行こうぜ」
講義棟の入口で、当たり前のように隣に並んでくる。断る隙もない。仕方なく並んで歩くと、一ノ瀬は俺の歩調に、さりげなく合わせた。半歩下がって、車道側を歩く。無意識の仕草だった。
妙なところで、俺は感心してしまう。男だった頃、俺はこういう気遣いを「する側」だった。相手を車道側にしないように、歩幅を合わせるように。誰にも気づかれない気遣いを、いつも一人でやっていた。そして、その気遣いに、誰かが気づいてくれることも、なかった。それを今、されている。しかも、あまりに自然に。まるで、呼吸をするように。
こいつは、気遣いを「特別なこと」だと思っていない。ただ、そうするのが当たり前だと思っている。その育ちの良さのようなものが、俺には、少し眩しかった。
「一ノ瀬さ」俺は前を向いたまま言った。「なんで、俺……わたしなの」
言い間違えかけて、慌てて直す。この身体になってから、時々やる。地の底の「俺」が、うっかり顔を出す。幸い、一ノ瀬は気づかなかったようだった。
「わたしの、どこがいいわけ。ろくに話したこともないのに」
我ながら、可愛げのない聞き方だった。普通の女子なら、もっと違う反応をするのだろう。だが、俺には、その「普通の女子の反応」が、いまだに、うまくできない。
一ノ瀬は、気を悪くするでもなく、少し考えてから答えた。
「柏木さん、他の女子と、目の使い方が違うんだよな」
「目?」
「うん。なんていうか……人を、値踏みしない目。俺、けっこう見た目で近寄られること多くて」一ノ瀬は、少し困ったように頭をかいた。「サークルでも、告られたりするんだけど、なんか、みんな、俺の"外側"しか見てない感じがして。顔とか、背とか、そういうの。……でも柏木さんは、俺のこと、そういう目で見ない。中身を見てるっていうか。品定めされてない感じがして、逆に、こっちが気になった。それが、最初だな」
俺は、言葉に詰まった。
値踏みしない目。それは当たり前だ。俺は元男だ。男を色恋の目で見る習慣が、そもそもない。一ノ瀬の顔がどれだけ整っていようが、背がどれだけ高かろうが、俺の心は、一ミリも動かない。一ノ瀬が「特別」だと感じたものは、単に、俺がこの状況をどう扱っていいかわからず、他の女子とは違う距離を取っているだけの話だった。恋愛対象として見ていないから、フラットに接している。ただ、それだけ。
なのに、それを「中身を見てる」と受け取られてしまう。
皮肉だった。俺が一番隠したい「元男」という事実が、まさにその一ノ瀬の心を掴んでいる。俺は嘘をついているわけじゃない。ただ、本当のことを言っていないだけで。だが、その沈黙が、勝手に「好ましい誤解」を育てていく。俺が黙っていればいるほど、一ノ瀬の中の「柏木湊」は、実像から離れて、美しく育っていく。
「……変な奴」
俺がそう言うと、一ノ瀬は嬉しそうに笑った。
「柏木さんに変って言われると、なんか、褒められてる気がするな」
その屈託のなさが、罪悪感を、また一つ、俺の胸に積んだ。
講義の間も、俺は、上の空だった。隣の席で真面目にノートを取る一ノ瀬の横顔を、時々、盗み見る。悪い奴じゃない。むしろ、いい奴だ。まっすぐで、素直で、優しい。だからこそ、こいつの好意を、俺の秘密で汚してしまうことが、怖かった。
この誤解は、どこまで育つのだろう。育ち切った誤解は、いつか、必ず、崩れる。その時、一ノ瀬は、どんな顔をするのだろう。
俺は、ノートの端に、意味もなく、小さな丸を、いくつも描いていた。




