わたし、の練習
「わたし」
鏡の前で、俺は小さく声に出してみる。
半年経っても、この一人称には慣れない。喉から出る高い声にも、鏡の中でそれを喋る女の顔にも、まるで他人の服を着せられているような、ちぐはぐな感覚がつきまとう。
柏木湊。名前は変わっていない。読みも同じだ。ただ、この名前が指すものが、ある朝を境に、まるごと入れ替わってしまった。
原因は、今もわからない。医者も首を捻るばかりだった。血液検査も、MRIも、遺伝子の解析まで、思いつく限りの検査をした。結果は、どれも「異常なし」。ただ、俺の身体は、生物学的に、完全な女になっていた。事故でもない。病気でもない。ある種の奇病として、大学病院に一週間ほど「観察」されたあと、俺は静かに退院した。原因不明のまま、治療法もないまま。世界のどこかの歯車が、俺一人ぶんだけ、静かにずれたのだと思うことにしている。
最初の一ヶ月は、まともに外に出られなかった。カーテンを閉め切った部屋で、俺はただ、自分の身体を眺めていた。触れるたびに、これが夢であってくれと願った。だが、朝が来るたびに、現実は同じ形をしていた。細くなった手首。薄くなった肩。存在しないはずの重み。俺のものではない身体で、俺は、俺のまま、取り残されていた。
次の一ヶ月は、外に出るたびに泣きそうだった。コンビニのレジで「お姉さん」と呼ばれるたび、電車で席を譲られるたび、世界が俺を「女」として扱うことに、心が追いつかなかった。中身は、二十二年間男をやってきた人間だ。その二十二年が、外側の器一つで、まるでなかったことにされていく。その感覚は、静かな暴力だった。
それからの四ヶ月で、俺はようやく、この身体で生きる作法を、少しずつ覚えた。
歩き方。歩幅を狭く、内股気味に。座り方。膝を閉じ、鞄を膝に。声の出し方。喉の上のほうで、柔らかく。女物の服の着方も、下着の着け方も、もう鏡を見ずにできる。半年かけて、俺は「柏木湊という女」を、一から演じ切れるようになった。舞台役者が、役を仕込むように。
「わたしは、柏木湊です」
もう一度、練習する。表向きの俺は「わたし」を使う。地の底で喋っている本当の俺は、たぶん一生、「俺」のままなのだろうけど。
男に戻る方法は、今のところ、ない。だから俺は、女として生きる練習をしている。それだけの話だ。人生とは、配られた手札で勝負するものだと、どこかで聞いた。俺に配られたのは、とんでもない手札だったが――もう、降りることはできない。
鏡の中の女が、俺の疲れた目で、こちらを見返していた。造作は、悪くないのだと思う。整った、と言ってもいい。だが、それを喜ぶ気には、まだ、なれなかった。この顔は、俺が選んだものじゃない。
時計を見て、俺は鏡から目を離した。大学に、行かなければ。平凡な女子学生として。それが、俺の新しい仕事だった。
*
大学二年の後期が始まって、二週間が過ぎていた。
講義棟の廊下は、いつも通り人で溢れている。俺はレジュメを抱えて、次の教室へ向かって歩いていた。誰の記憶にも残らない、平凡な女子学生として。それでいい。目立たず、波風を立てず、この身体で穏やかに卒業まで漕ぎ着ける。それが半年かけて俺が立てた、ささやかな人生計画だった。
友達は、多くない。TS後に入り直したようなものだから、深い付き合いの相手はいない。それも、都合がよかった。過去を詮索されず、当たり障りなく、薄く広く。半年間、俺はその距離感を、注意深く保ってきた。
その計画は、その日、廊下のど真ん中で、あっさり崩れた。
「柏木さん」
名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある男が立っていた。同じ学年の一ノ瀬律。サークルは違うが、共通の講義で何度か顔を見たことがある。背が高く、目のはっきりした、いかにも人目を引くタイプの男だ。運動部の空気をまとっている。俺とは、住む世界が違う人種、という印象だった。
その一ノ瀬が、まっすぐに俺を見て、こう言った。
「前から気になってた。連絡先、教えてくれない?」
廊下の時間が、一瞬止まった気がした。
周りを歩いていた学生が、何人か足を止めてこちらを見ている。ざわめきが、さざ波のように広がる。俺は、状況を理解するのに、たっぷり三秒かかった。
告白、というほど大げさではない。だが、これ以上ないくらい直球の好意だった。
妙な感覚が、背骨を通り抜けた。
――男だった頃、俺はこんな風に、誰かから「まっすぐ好意を向けられた」ことが、一度もなかった。
二十二年間。正確には、女になる前の二十二年弱。俺はずっと、好意を「向ける側」だった。中学の頃、隣の席の子を目で追った。高校の頃、バイト先の先輩に、渡せない手紙を書いた。振り向いてもらえるかどうか怯えながら、遠回しに、探り探り、差し出す側。そして、そのどれもが、実ることはなかった。差し出されたことなんて、ただの一度もなかった。俺は、恋愛という舞台の、永遠の観客だった。
それが今、こんなにも無防備に、正面から差し出されている。
「……えっと」
俺の口から出たのは、情けないほど間の抜けた声だった。二十二年ぶんの経験が、この状況の前では、何の役にも立たなかった。
「ごめん、急だった」一ノ瀬は悪びれもせず、少し笑った。人好きのする笑い方だった。「でも、今言わなかったら、たぶんずっと言えない気がして」
その言葉に、なぜか胸の奥が、ちくりとした。言えない、という言葉に。俺の中にも、ずっと言えないでいるものが、あるからかもしれない。
「返事は、今度でいいよ」一ノ瀬は身を引きながら言った。「逃げないから。俺」
そう言い残して、彼は人混みの向こうへ歩いていった。呆然と立ち尽くす俺を、廊下に置き去りにして。
握りしめたレジュメが、いつの間にか、少し湿っていた。心臓が、うるさかった。この鼓動が、驚きなのか、それとも別の何かなのか、俺には、まだ、判別がつかなかった。




