第71話 怒りにも名前がある
翌日は、奇妙な一日だった。
ゼルガの手紙も、伝令石も、私の手元にはない。
セフィナ先生の鍵付き箱に預けてある。
だから、物理的には軽い。
鞄の中にも、机の引き出しにも、あの黒い石片はない。
だが、頭の中には声が残っている。
――姫様。
――敵と笑うためではないはずです。
――人間の子に名があるなら、焼かれた魔族の子にも名があった。
ゼルガの声は、一度しか再生されていない。
それなのに、何度も聞いたように耳の奥へ残っていた。
朝、教室に入ると、アレンが私を見た。
「眠れたか」
「少し浅いです」
「だろうな」
「顔に出ていますか」
「出てる」
「分類は?」
「手紙を預けたのに、声は預けられてない顔」
私は黙った。
正確すぎる。
「……その通りです」
「だと思った」
アレンは机に頬杖をついた。
「今日、会はやらないんだろ」
「はい。明日です」
「なら、今日は普通にしろ」
「普通とは、最も難度の高い偽装です」
「懐かしいな、その言い方」
アレンは少し笑った。
私が人間界へ来る前、ノノに言われた言葉だ。
普通にしてください。
普通とは、最も難度の高い偽装ですね。
あの時は、普通を装うことが任務だった。
今は、普通に戻ることが支援になる。
ミナが教室に入ってきた。
彼女は私を見て、短く言った。
「今日は、魔族の怒りの話はしない日」
「はい」
「でも、明日の準備はする?」
「少しだけ」
「しすぎないで」
「努力します」
ミナは眉を寄せた。
「守ります」
「……守ります」
最近、皆がこの修正をしてくる。
私はそこまで信用がないのだろうか。
おそらく、ある意味ではない。
ティナがやって来て、机に包みを置いた。
「今日は普通の日用の焼き菓子」
「普通の日用」
「重い話用じゃないやつ」
「違いがあるのですか」
「あるよ。重い話用は、噛みしめる感じ。普通の日用は、さくっと食べる感じ」
「菓子にも役割が」
「ある!」
ティナは胸を張った。
分類語と名前の間どころか、焼き菓子にも役割があるらしい。
私は一つ食べた。
確かに、さくっとしていた。
午前の授業は通常の魔法基礎だった。
小さな火球を安定させ、一定距離で消す訓練。
私にとっては簡単だが、簡単に見せてはいけない。
平均より少し上。
安定。
目立ちすぎない。
だが、集中が少し乱れていたのか、火球が一瞬だけ青白くなった。
魔王城式の魔力色に近い。
危ない。
私はすぐに人間式の赤い火へ戻した。
隣のアレンが、ちらりとこちらを見る。
見られた。
確実に。
「今の」
「制御の乱れです」
「青かったな」
「火の温度が一瞬上がりました」
「そういうことにしとく」
そういうことにしとく。
つまり、信じてはいない。
だが、今は追わない。
アレンは最近、聞かないことで私を追い詰める。
聞かないのに、見ている。
非常に厄介だ。
そして、ありがたい。
授業後、グレイン先生は私を短く呼んだ。
「ディア」
「はい」
「明日の会の準備は一枚にしろ」
「はい」
「今日はそれ以上やるな。訓練と食事と睡眠を優先しろ」
「はい」
「あと、魔法制御が一瞬乱れた」
やはり見られていた。
「……はい」
「何か重いものを抱えた時、魔力が癖に戻ることがある。気をつけろ」
癖。
先生は、どこまで分かっているのか。
魔王城式とは言わなかった。
ただ、癖と言った。
「承知しました」
「アレンにも見られただろう」
「はい」
「なら、そのうち聞かれる」
「はい」
「逃げ方を考えるより、言える範囲を決めておけ」
鋭い。
私は深く頷いた。
「言える範囲」
「全部言えとは言っていない。だが、全部隠すにはもう遅い」
胸が痛む。
その通りだ。
姫様という呼び方。
ゼルガ。
魔族側の怒り。
青白い火。
アレンは、点を集めている。
その点が線になるのは、いつか。
いや、もうなりかけている。
昼休み、私は一枚の準備紙を書いた。
ティナ、ミナ、アレン、クロード、ポルカが周りにいる。
題名。
――怒りにも名前がある。
目的。
人間側にも魔族側にも怒りがあることを認める。
どちらの怒りにも、同じ約束を使う。
約束。
一、具体的な被害体験を無理に話さない。
二、怒りを比べない。
三、人間も魔族も「全部」と言わない。
四、名前が分からない時は出来事で限定する。
五、相手の怒りを嘘と決めつけない。
六、怒りを理由に、今ここにいる相手を攻撃しない。
七、重い時は合図。休憩可。退出可。
八、記録は個人名なし。扱い方だけ残す。
私は読み上げた。
ミナは三番で頷いた。
ティナは二番を見て、少し眉を寄せた。
「怒りを比べないって、どういうこと?」
「どちらがより苦しんだかを競わない、という意味です」
ティナは少し考えた。
「それ、大事だね。『そっちよりこっちの方がひどい』ってなると、終わらない気がする」
「はい」
アレンが言う。
「でも、被害の大きさを比べる必要がある時もあるだろ」
「あります」
私は頷いた。
「戦況や歴史記録として、規模を比較する必要はあります。ただ、怒りの場で、自分の痛みを認めてもらうために相手の痛みを小さく扱うのは危険です」
「なるほど」
クロードが言う。
「記録上の比較と、感情の優劣を混同しない、ということだな」
「はい」
ポルカが手を挙げた。
「怒りを比べ始めたら、怖いです。理由は、勝ち負けになるからです」
「採用します」
私は追記した。
――怒りを勝ち負けにしない。
ミナが静かに言う。
「でも、自分の方が痛いって思いたくなる時はある」
部屋ではなく中庭だったが、空気が少し静まった。
ミナは続けた。
「そう思うことは、ある」
私は頷いた。
「思うことを禁止しません。ただ、それを相手へぶつけて、相手の痛みを消す行動は避けます」
「うん」
ミナは小さく頷いた。
アレンが私を見る。
「今日のは、昨日より整理されてる」
「ありがとうございます」
「まだ重いけどな」
「それは避けられません」
ティナが言う。
「じゃあ明日は、お茶多めだね」
「話すための物資ですか」
「うん」
ポルカが真剣に頷く。
「休憩地点の補給物資です」
「会議を遠征扱いするな」
アレンが言った。
だが、間違っていない気もする。
重い会には、戻り道と休憩地点が必要だ。
午後は比較的平穏だった。
座学、短い実技、体調確認。
ただ、私は何度か、ゼルガの声を思い出した。
そのたびに、手元の火球ではなく、木板の端を指で押さえた。
魔力を乱さないために。
アレンはそれに気づいていた。
何も言わなかった。
放課後、セフィナ先生のところへ、明日の準備紙を見せに行った。
先生は一枚を丁寧に読み、二番で少し目を止めた。
「怒りを比べない」
「はい」
「良いですね。ただし、補足が必要です」
「補足?」
「比べないという言葉は、場合によっては『記録しない』『数えない』と誤解されます。被害規模を記録することは必要です。ただ、感情の場で優劣をつけない、ということですね」
「はい」
私は一文加えた。
――被害規模の記録は必要。だが、怒りの価値に勝ち負けをつけない。
セフィナ先生は頷いた。
「これでよいと思います」
グレイン先生も紙を見た。
「明日、時間は短めにしろ」
「はい」
「結論を出そうとするな。第二回の目的は、魔族側の怒りにも同じ約束を使えるか確認することだ。和解させようとするな」
「和解させない」
「そうだ。早すぎる和解は嘘になる」
その言葉は重かった。
早すぎる和解は嘘になる。
ミナとゼルガ。
人間と魔族。
どちらかが「もう分かり合えました」と言えば、きっと嘘になる。
今できるのは、怒りを消さず、名前を消さず、全部と言わない約束を置くことだけ。
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなく、守れ」
「守ります」
夜。
寮の部屋で、私は明日の紙をもう一度確認した。
ティナはお茶道具を整えている。
ミナは窓辺で静かに弓袋を手入れしている。
しばらくして、ミナが言った。
「ルシェラ」
「はい」
「明日、ゼルガの声は流さないよね」
「流しません」
即答した。
「石片は先生に預けています。明日は、内容の一部を私の言葉で説明します。本人の声は使いません」
「うん」
「聞きたくないですか」
「今は、もう一回は無理」
「分かりました」
ティナも小さく頷いた。
「あたしも、まだ無理かも」
「はい」
本人の声は重すぎる。
それを分かった。
声は、文字より直接届く。
使い方を間違えると、相手を守るどころか傷つける。
「明日は、ゼルガという名も出しますか」
ミナが聞いた。
私は少し考えた。
「少人数会では出します。ただし、教室全体には出しません」
「うん」
「怒りにも名前がある、ということを考えるために、彼の名は必要だと思います」
「分かった」
ミナは短く答えた。
その夜の記録は、短めにした。
――明日「怒りにも名前がある」を実施予定。目的は、魔族側の怒りにも同じ約束を使えるか確認すること。和解を急がない。
――約束に「怒りを比べない」を追加。ただし、被害規模の記録と感情の優劣を混同しない。
――グレイン先生「早すぎる和解は嘘になる」と助言。重要。
――ゼルガの声は再生しない。私の言葉で必要最低限を説明する。声は重すぎる。
――明日は結論ではなく、扱い方の確認。
最後に一行。
――怒りに名前を与えることは、和解することではない。まず、誰の怒りなのかを見失わないためである。
羽ペンを置く。
明日、また重い会がある。
だが、昨日より準備はある。
逃げ道もある。
休憩もある。
先生もいる。
友人たちもいる。
そして、ゼルガの怒りにも名前がある。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
明日、魔族の怒りを扱います。
ゼルガの名を出します。
彼を危険物として隠すのではなく、怒りを持つ一人として扱うために。
ただし、彼の怒りをそのまま正義にはしません。
ミナの怒りと同じように。
怒りは、ある。
それでも、全部と言わない。
それを明日、試します。




