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第72話 見た上で、選ぶ

 小談話室の窓から入る光は、前回より少し弱かった。


 夕方が近い。


 机の上には、茶器と水差しと、ティナが用意した焼き菓子が置かれている。


 甘いもの。


 塩気のある薄焼き。


 飴。


 話すための物資。


 ポルカの言葉を借りるなら、休憩地点の補給物資。


 壁には、一枚の紙を貼った。


 ――怒りにも名前がある。


 目的。

 人間側にも魔族側にも怒りがあることを認める。

 どちらの怒りにも、同じ約束を使う。


 約束。

 一、具体的な被害体験を無理に話さない。

 二、怒りを比べない。

 三、人間も魔族も「全部」と言わない。

 四、名前が分からない時は出来事で限定する。

 五、相手の怒りを嘘と決めつけない。

 六、怒りを理由に、今ここにいる相手を攻撃しない。

 七、重い時は合図。休憩可。退出可。

 八、記録は個人名なし。扱い方だけ残す。


 補足。

 被害規模の記録は必要。

 ただし、怒りの価値に勝ち負けをつけない。


 前回より、さらに重い紙だ。


 だが、必要なことは一枚に収まっている。


 私はその紙を見て、息を吸った。


 逃げ道。


 休憩。


 合図。


 教師の見守り。


 記録は個人名なし。


 ゼルガの声は再生しない。


 言えることだけ言う。


 言えないことは言わない。


 ただし、重さからは逃げない。


 最初に来たのはアレンだった。


 彼は扉側の椅子に座り、前回と同じように部屋全体が見える位置を選んだ。


「今日もそこですか」


「出るやつがいたら見える」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。落ち着かない」


「感謝です」


「同じだろ」


 彼は少しだけ笑った。


 その後、ティナが茶器を持って入り、焼き菓子の位置を整えた。


「今日は、休憩多めでいこう」


「はい」


「ルシェラも、途中で飲んでね」


「守ります」


「よし」


 ミナは少し遅れて来た。


 扉のところで、前回より長く立ち止まった。


 それから、紙を見た。


 目で一つずつ約束を追っている。


 怒りを比べない。


 人間も魔族も全部と言わない。


 相手の怒りを嘘と決めつけない。


 彼女は小さく頷き、窓側の席に座った。


 ティナは隣に座る。


 ただし、近づきすぎない。


 ミナが選べる距離。


 クロードは規則案の紙を持って来た。


 今回は、前回より表情が硬い。


「二番目の約束について、念のため確認したい」


「怒りを比べない、ですか」


「ああ。もし誰かが『自分の方が痛い』と言った場合、すぐ止めるべきか」


 私は少し考えた。


「思うことは禁止しません。ただ、それを相手の痛みを消すために使うなら止めます」


 クロードは頷いた。


「分かった。感情は否定しない。行動を止める」


「はい」


 ポルカは最後に来た。


 顔色は悪くない。


 ただ、手帳を持つ手に力が入っている。


「怖いです。理由は、人間の怒りと魔族の怒りが同じ部屋にあるからです。支援として、最初に水を飲みたいです」


「どうぞ」


 ティナがすぐに水を渡した。


 ポルカは一口飲み、大きく息を吐く。


「生きています」


「始まる前から確認が早いな」


 アレンが言う。


「生存確認は大事です!」


「まあな」


 最後に、グレイン先生とセフィナ先生が入ってきた。


 二人は前回と同じく、部屋の端に座る。


 見守り。


 主導は生徒。


 ただし、危険なら止める。


 私は全員を見た。


 逃げ道はある。


 合図もある。


 それでも怖い。


 だが、やる。


「始めます」


 私は立ち上がった。


「怒りにも名前がある、を始めます」


 声は、思ったより落ち着いていた。


「今日は、人間側の怒りだけでなく、魔族側の怒りも扱います」


 魔族。


 その言葉で、空気が少し重くなる。


 ミナの指が、机の端に触れた。


 ティナがそっと水差しを近くへ寄せる。


 私は続けた。


「ただし、今日の目的は、和解することではありません」


 これは最初に言わなければならない。


「早すぎる和解は嘘になる、とグレイン先生に教わりました。だから、今日は分かり合えたことにする会ではありません」


 グレイン先生が小さく頷いた。


「今日の目的は、怒りがどちら側にあっても、同じ約束を使えるか確認することです」


 私は壁の紙を指した。


「人間が魔族に怒る時も、魔族が人間に怒る時も、全部と言わない。怒っても名前で呼ぶ。名前が分からない時は出来事で限定する。怒りを理由に、今ここにいる相手を攻撃しない」


 ポルカが小さく息を吸う。


 だが、手は上げていない。


 続けられるらしい。


「最初に、私から説明します」


 ここが一番難しい。


 ゼルガの名前を出す。


 しかし、手紙の機密は出さない。


 姫様の呼び方にも触れない。


 必要最低限。


「私の故郷側の知人に、ゼルガという人物がいます」


 ミナがこちらを見る。


 アレンも、少し目を細める。


「ゼルガは、人間との戦いで家族と故郷を失っています。だから、人間に強い怒りを持っています」


 私はゆっくり言った。


「彼の怒りは、嘘ではありません」


 部屋は静かだ。


 ティナが唇を引き結ぶ。


 ミナは動かない。


「ですが、ゼルガは、その怒りで人間全体を敵として見ようとしています。私が人間の学校で過ごし、人間の同級生たちと関わることを、裏切りに近いものとして見ています」


 言葉が重い。


 だが、言えた。


「私は、彼の怒りを消したくありません。彼の故郷で起きたことを、なかったことにしたくないからです」


 胸が痛い。


「でも、その怒りが、今ここにいるティナやアレンやミナやクロードやポルカを、まとめて敵にすることも、違うと思っています」


 アレンが静かに聞いている。


 ティナの目が少し揺れている。


 ミナは、深く息を吸った。


「だから今日は、ゼルガの怒りにも、前回決めた約束を使えるか考えます」


 私は座った。


 少し手が冷たい。


 ティナが水を差し出した。


 私は受け取って飲んだ。


 進行役も飲む。


 守った。


「最初の問いです」


 私は紙を見る。


「魔族側に人間への怒りがあると聞いた時、何を感じましたか。話したくない人は、話さなくていいです」


 沈黙。


 最初に手を挙げたのは、ティナだった。


「怖かった」


「理由は?」


「人間って言われると、あたしも入るから」


 ティナは杯を両手で持ったまま言った。


「ゼルガさんが怒っている人間は、たぶんあたしじゃない。でも、人間って言われると、あたしも責められてる気がした」


 私は頷く。


「分類語が広すぎた、ということですね」


「うん」


 アレンが続けた。


「でも、魔族側から見れば、俺たちも人間なんだよな」


「はい」


「そこを完全に否定すると、それも変だ。人間がしたことを、俺はやってないから関係ない、って言い切るのも違う気がする」


 クロードが頷いた。


「王国に属する者としての責任と、個人としての責任は分ける必要がある」


「硬いけど、分かる」


 アレンが言う。


 クロードは少しだけ眉を寄せた。


「硬いのは認める」


 少し空気が和らぐ。


 私は紙に書く。


 ――分類語で責められると、個人も責められているように感じる。

 ――集団に属する責任と、個人の責任は分ける。


 次に、ポルカが手を挙げた。


「怖かったです。理由は、人間も魔族も怒っているなら、どこに逃げればいいのか分からないからです」


 ポルカらしい。


 だが、とても大事だ。


「逃げ場がなくなる怖さですね」


「はい」


「欲しい支援は?」


「どちらの怒りにも、同じ約束があると少し安心します。怒っても全部と言わない、という約束が、逃げ道になります」


 逃げ道。


 怒りの場にも逃げ道。


 私は書く。


 ――同じ約束があると、怒りの場にも逃げ道ができる。


 ミナが手を挙げた。


 部屋が静かになる。


 ミナは少しだけ視線を落とし、それから言った。


「嫌だった」


 短い。


「理由は?」


「魔族が人間を怒っているって聞いて、最初に、でも私の家族を殺したのは魔族だって思った」


 私は頷く。


「はい」


「自分の怒りを取られる感じがした」


 胸が痛む。


 怒りを取られる。


 その表現は、とても重要だった。


「魔族にも怒りがあるって言われると、私の怒りが小さくされる気がした」


 ティナが少し泣きそうな顔をする。


 だが、何も言わない。


 ミナは続けた。


「でも、ゼルガって人の怒りも、たぶん嘘じゃない」


「はい」


「だから、嫌だった。でも、嘘とは言えない」


 重い。


 だが、これが今日の中心だ。


 私はゆっくり言った。


「ミナの怒りは、ゼルガの怒りがあることで小さくなりません」


 ミナが私を見る。


「ゼルガの怒りも、ミナの怒りがあることで消えません」


 私は言葉を選ぶ。


「怒りを比べない、という約束は、たぶんそのためです。どちらかを大きくするために、もう片方を小さくしない」


 ミナは少し黙った。


 そして、頷いた。


「うん」


 私は紙に書く。


 ――相手の怒りがあることで、自分の怒りが小さくなるわけではない。

 ――どちらかを大きくするために、もう片方を小さくしない。


 ポルカが胸の前に手を上げた。


「休憩が必要ですか」


「はい。重いです。理由は、怒りが二つあると頭が混乱するからです」


「休憩します」


 私はすぐに言った。


 ティナが茶を注ぐ。


 全員が水や茶を飲む。


 アレンは窓を少し開けた。


 外の空気が入る。


 私は息を吐いた。


 セフィナ先生が静かに言う。


「良い休憩です」


 休憩中、誰もゼルガの話をしなかった。


 ティナが焼き菓子の皿を回す。


 ポルカが「塩気があると戻ってこられます」と呟く。


 アレンが「どこからだよ」と返す。


 少し笑いが起きる。


 戻ってこられた。


 休憩後、私は次の問いへ進んだ。


「ゼルガの怒りに、前回の約束を使うなら、どう言い換えられるでしょうか」


 アレンがすぐに言った。


「人間は全部、じゃなくて」


 少し考える。


「ゼルガの故郷を焼いた人間の兵がいた」


 ミナが顔を上げる。


 アレンは続ける。


「ただし、誰が、どの部隊が、どの命令でやったかは分からない。だから、分からないと書く」


 セフィナ先生が静かに頷いた。


 私は書く。


 ――ゼルガの故郷を焼いた人間の兵がいた。

 ――誰が、どの命令で行ったかは不明なら、不明と書く。


 クロードが言う。


「王国軍、という分類語を使う場合も、確証が必要だ。人間の兵と王国軍兵は同じとは限らない」


「はい」


 分類語の範囲。


 ミナが昨日言ったことと同じだ。


 村を襲った魔族、と言っても、本当に誰がいたか分からない時がある。


 人間側にも同じことが言える。


 私は書く。


 ――分類語を使う時は、範囲と確証を確認する。


 ティナが手を挙げた。


「ゼルガさんに言うなら、何て言う?」


 私の胸が少し詰まった。


「ゼルガに?」


「うん。今の約束を使うなら」


 私は、すぐには答えられなかった。


 ゼルガに何と言うか。


 姫様。


 敵と笑うためではないはずです。


 私はその声を思い出す。


 私は彼に、何を返すべきなのか。


 怒るな、ではない。


 忘れろ、でもない。


 人間もいい人がいる、だけでも足りない。


 それは、ゼルガには届かない。


 私はゆっくり言った。


「ゼルガ。あなたの故郷を焼いた人間はいた。あなたが人間を憎む理由はある」


 全員が聞いている。


「でも、今私の隣にいるティナは、その火を放っていない。アレンも、ミナも、クロードも、ポルカも、その子を殺していない」


 声が少し震えた。


「だから、怒るなら、全部の人間ではなく、その出来事と、その命令と、その手を見なければならない。私も見る。だから、あなたも名前を消さないでほしい」


 言い終えた時、部屋は静まり返っていた。


 ティナが目を潤ませている。


 アレンは窓の外を見ている。


 ミナは私を見ていた。


 クロードは紙を見つめている。


 ポルカは手帳を握りしめている。


 グレイン先生は、何も言わなかった。


 セフィナ先生も。


 しばらくして、ミナが言った。


「それ、私にも当てはまる」


 私はミナを見る。


「私の家族を殺した魔族はいた。でも、ルシェラの知ってる全部の魔族が、そうじゃない」


 胸が痛くなる。


 ルシェラの知ってる全部の魔族。


 私は、魔族そのものだ。


 まだ言えない。


 だが、ミナは近づいている。


 怒りを扱うことで、私の正体にも近づいている。


「はい」


 私はそれだけ答えた。


 ミナは続けた。


「でも、私はまだ、魔族を好きにはなれない」


「はい」


「ゼルガって人も、たぶん人間を好きにはなれない」


「はい」


「それでいい?」


 問いだった。


 私に向けられている。


 私は頷いた。


「今は、それでいいと思います」


 グレイン先生がそこで口を開いた。


「そうだ。好きになれ、は早すぎる」


 先生の声は低い。


「今必要なのは、好きになることではない。怒りの範囲を見誤らないことだ」


 セフィナ先生も続ける。


「理解することと、許すことも同じではありません。今日は、理解の入口に立っただけです。許すかどうかは、もっと先の問題です」


 許す。


 その言葉で、ミナの指が少し動いた。


 ゼルガも、きっと動くだろう。


 許すには早すぎる。


 和解には早すぎる。


 それでいい。


 私は紙に書く。


 ――好きになる必要はない。

 ――許す必要も、今はない。

 ――まず、怒りの範囲を見誤らない。


 ポルカが小さく言った。


「好きじゃなくても、全部にしない」


「はい」


 私は頷いた。


「今日のまとめに入れます」


 会の終盤、私たちは今日決まった扱い方を整理した。


 個人名は、ゼルガ以外は書かない。


 ゼルガの名を残すかどうかは迷った。


 私はミナに聞いた。


「このまとめに、ゼルガの名前を残してもよいでしょうか」


 ミナは少し考えた。


「少人数の記録なら、いい。全体掲示には出さない」


「分かりました」


 ゼルガの怒りにも名前がある。


 だが、その名前を不用意に晒さない。


 ミナの家族の名前と同じではないが、扱い方は似ている。


 私はまとめを書いた。


 ――怒りにも名前がある 第一まとめ。


 一、人間側にも魔族側にも怒りはある。どちらも嘘と決めつけない。

 二、相手の怒りがあることで、自分の怒りが小さくなるわけではない。

 三、怒りを比べない。被害規模の記録は必要だが、怒りの価値に勝ち負けをつけない。

 四、人間も魔族も「全部」と言わない。

 五、名前が分からない時は、出来事で限定する。出来事も不明点は不明と書く。

 六、好きになる必要はない。許す必要も、今はない。まず怒りの範囲を見誤らない。

 七、同じ約束を両方に使う。怒っても、名前を消さない。


 読み上げる。


 誰もすぐには話さなかった。


 ミナが頷く。


「いい」


 ティナも頷く。


「重いけど、いいと思う」


 アレンが言う。


「掲示用にするなら、もっと短くだな」


「これは少人数記録です」


「ならいい」


 クロードが言う。


「全体へ広げる時は、段階が必要だ」


「はい」


 ポルカが言う。


「今日は生き延びました。でも、明日は軽い訓練がいいです」


 グレイン先生が即答した。


「明日は軽くする」


 ポルカは心底安心した顔をした。


 会が終わった。


 終わった瞬間、ティナが全員にお茶を注ぎ直した。


「はい。終わった後のお茶」


「終わった後にもあるのですか」


「あるよ。戻ってくるためのお茶」


 戻ってくるためのお茶。


 今日は記録してよいだろう。


 私は小さく木板に書いた。


 アレンがそれを見て言う。


「それは書いていい」


「はい」


 ミナはお茶を両手で持ち、静かに飲んでいた。


 しばらくして、彼女が言った。


「ルシェラ」


「はい」


「ゼルガって人に、今の言葉、いつか言うの?」


「分かりません」


 私は正直に答えた。


「でも、言わなければならない時が来る気がします」


「怖い?」


「はい」


「理由は?」


「ゼルガが、私の言葉を裏切りと受け取る可能性が高いからです」


「欲しい支援は?」


 ミナがそれを聞いた。


 私は少し驚いた。


 ミナが、私に支援を聞いている。


「今は、覚えていてほしいです」


「何を?」


「私が、ゼルガの怒りもミナの怒りも、どちらも消さないと決めたことを」


 ミナは少しだけ目を伏せた。


「覚える」


「ありがとうございます」


 会の後、セフィナ先生に封筒を返すかどうか聞かれた。


 私は迷ったが、首を振った。


「今日も預かっていただけますか」


「もちろんです」


「ありがとうございます。まだ、寝室には置かない方がよいと思います」


「良い判断です」


 グレイン先生も頷いた。


「重いものは、持つ時間を決めろ」


「はい」


 また一つ、扱い方が増えた。


 夜。


 私は個人記録を書いた。


 ――「怒りにも名前がある」を実施。少人数。教師二名見守り。ゼルガの声は再生せず、私の言葉で必要最低限を説明。

 ――ティナ、分類語「人間」で責められると自分も含まれるように感じて怖いと報告。重要。

 ――ミナ、魔族側の怒りを聞いて、自分の怒りを取られる感じがしたと報告。相手の怒りがあることで、自分の怒りが小さくなるわけではないと整理。

 ――ポルカ、同じ約束があると怒りの場にも逃げ道ができると発言。重要。

 ――ゼルガの怒りを言い換えるなら、「ゼルガの故郷を焼いた人間の兵がいた。ただし、誰がどの命令で行ったか不明なら不明と書く」。分類語の範囲と確証を確認。

 ――重要な結論。好きになる必要はない。許す必要も今はない。まず怒りの範囲を見誤らない。

 ――同じ約束を両方に使う。人間の怒りにも、魔族の怒りにも。怒っても、名前を消さない。

 ――ゼルガの手紙と石片は継続してセフィナ先生へ預託。寝室に置かない。


 最後に一行。


 ――見た上で、選ぶとは、片方だけを見ることでも、急いで許すことでもない。両方の怒りを見て、それでも名前を消さない方を選び続けることなのかもしれない。


 私は羽ペンを置いた。


 第二区切りが、終わった気がした。


 学級委員になり、クラスの役割を整理し、遠征訓練をし、怒りを扱い、ゼルガの声を聞いた。


 私は、人間をただの敵として見られなくなった。


 だが、魔族側の怒りも、ただの危険物として見られなくなった。


 どちらもある。


 どちらも消せない。


 その上で、選ばなければならない。


 父上の言葉が、胸に戻る。


 見た上で、選べ。


 私は、まだ選びきれていない。


 けれど、今日、一つだけ選んだ。


 怒っても、名前を消さない。


 人間にも。


 魔族にも。


 ミナにも。


 ゼルガにも。


 そして、いつか自分にも。


 私は胸元のお守りに触れた。


 父上。


 2巻のこの場所で、私は少し分かりました。


 人間を知ることは、魔族を捨てることではありません。


 魔族の怒りを見ることは、人間の痛みを消すことでもありません。


 両方を見るのは、苦しいです。


 でも、片方だけを見るより、たぶん正しい。


 私はまだ、魔王の娘です。


 同時に、勇者学校の学級委員です。


 その二つがいつか衝突することを、私はもう分かっています。


 それでも今は、ここにいます。


 名前を消さないために。


 見た上で、選ぶために。

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