第70話 魔族の怒りにも名前がある
職員室の扉を叩いた時、私の手は少し冷たかった。
中からグレイン先生の声がする。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けると、グレイン先生とセフィナ先生がいた。
幸い、他の教師は少ない。
それでも、ここで魔王城の伝令石を出すわけにはいかない。
私は扉を閉め、声を落とした。
「先生方に、相談があります」
グレイン先生は私の後ろを見た。
ティナ、ミナ、アレン。
三人が一緒にいる。
先生の目がわずかに鋭くなった。
「重い話か」
「はい」
「内容は?」
私は一度、息を吸った。
「詳細すべては、まだ言えません。ただ、私の故郷側の知人から、人間への強い怒りを含む連絡が届きました」
グレイン先生は黙った。
セフィナ先生の表情も、静かに引き締まる。
「その知人は、人間との戦いで故郷と家族を失っています。人間を憎む理由があります」
ミナが少しだけ目を伏せた。
私は続ける。
「彼は、私が人間の学校で過ごし、人間の生徒たちと関わることを責めています。そして、人間側の怒りを扱うなら、魔族側……いえ、故郷側の怒りも消すな、と言いました」
グレイン先生が低く言う。
「故郷側、か」
「はい」
「ディア。お前の故郷は、かなり魔族に近いのか」
心臓が強く鳴った。
来た。
当然だ。
この流れで、先生が気づかないはずがない。
私は答えを選ばなければならない。
嘘を重ねるか。
真実を少し出すか。
完全な真実はまだ言えない。
だが、何も言わないと、この先の相談はできない。
「はい」
私は答えた。
「私の故郷は、魔族との関わりが非常に深い場所です」
嘘ではない。
だが、全部ではない。
グレイン先生は、しばらく私を見た。
その目は、戦場を知る者の目だった。
見逃してくれたのか。
保留したのか。
判断したのか。
分からない。
「今は、そこまでにしておく」
先生は言った。
私は少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼を言う場面かは分からんがな」
セフィナ先生が静かに言う。
「その知人の怒りを、あなたはどう受け取りましたか」
「重いです」
すぐに答えられた。
「理由は、彼の怒りに事実が含まれているからです。人間に殺された魔族の子にも名前があった。その言葉は、否定できません」
ミナが小さく息を吸った。
ティナは両手を握っている。
アレンは黙っている。
「ですが、その怒りは私を人間から引き離そうともしています。人間を一つの敵として見ろ、と」
「それで、お前は?」
グレイン先生が聞く。
「私は、どちらか片方だけを見たくありません」
声が少し震えた。
だが、言った。
「ミナの怒りを消してはいけないように、ゼルガの怒りも消してはいけないと思います。けれど、ゼルガの怒りが人間全体の名前を消すことも、そのままにはしたくありません」
ゼルガ。
名前を出した。
グレイン先生とセフィナ先生が、その名を受け取った。
「その知人の名が、ゼルガか」
「はい」
「魔族か」
答えられない。
いや、答えなければならないのか。
私は少しだけ沈黙した。
その沈黙が答えに近いことは分かっていた。
グレイン先生は、それ以上は追わなかった。
「分かった」
分かった。
その一言が、何を意味するのかは分からない。
ただ、今ここで正体を暴くつもりはないらしい。
セフィナ先生が言った。
「ゼルガさんの言葉を、あなたは記録しましたか」
「まだです」
「なぜ?」
「勝手に記録してよいか迷っています。彼の怒りは、私に向けられたものです。しかし、その中には魔族側の被害の言葉が含まれています。扱い方を間違えれば、彼の痛みを利用することになります」
セフィナ先生は頷いた。
「とても大事な迷いです」
グレイン先生は言った。
「だが、何も記録しなければ、また一人で抱えることになる」
「はい」
「なら、個人名を出す記録と、扱い方を残す記録を分けろ。ミナの件と同じだ」
私は目を上げた。
「ゼルガの名は?」
「ここで出した以上、俺たちは知った。だが、教室全体に出す必要はない」
先生は言葉を切った。
「重要なのは、魔族側にも怒りがある、という事実だ。だが、個人名を晒す必要はない」
セフィナ先生が続ける。
「怒りの会の次の段階として、扱うなら、こうでしょう」
先生は近くの紙に短く書いた。
――人間への怒りを持つ魔族もいる。
――その怒りにも理由がある。
――ただし、その怒りで人間全体を一括りにしてよいわけではない。
――人間側の怒りにも、魔族側の怒りにも、同じ約束を使う。
同じ約束。
怒っても名前で呼ぶ。
全部と言わない。
人ではなく、言葉や行動が怖いと伝える。
大きな言葉を、誰の話か、どの出来事の話かに戻す。
ミナが小さく言った。
「同じなんだ」
部屋が静かになる。
ミナは続けた。
「魔族が人間を怒る時も、全部って言わない方がいい」
「はい」
私は答えた。
「同じです」
ミナは少しだけ唇を結んだ。
「変な感じ」
「はい」
「でも、そうじゃないと、たぶん駄目」
その声は、重かった。
ミナにとって、魔族側の怒りを認めることは簡単ではない。
当然だ。
彼女は家族を奪われている。
それでも、彼女は「同じ」と言った。
私は、その強さに胸が痛くなる。
ティナが胸の前に手を上げた。
限界の合図。
グレイン先生がすぐに言った。
「ここで止める」
短い。
明確。
「マール、休憩が必要か」
「はい。ちょっと、頭が追いつかないです」
「水を飲め」
「はい」
ティナは職員室の隅の水差しから水を飲んだ。
アレンが小さく息を吐く。
「先生、これ、教室全体に出すのはまだ早いですよね」
「早い」
グレイン先生は即答した。
「だが、避け続けると、後で爆発する」
「どうしますか」
私が聞いた。
「まず、昨日の少人数会の延長で扱う。参加者は同じ。追加はしない。題名は変えろ」
「題名を?」
「怒りを消さない会の第二回でもいいが、魔族側という言葉をいきなり前に出すな。見出しで人を構えさせすぎる」
セフィナ先生が少し考える。
「『怒りにも名前がある』ではどうでしょう」
私は顔を上げた。
怒りにも名前がある。
ゼルガ。
ミナ。
名前のある怒り。
人間側の怒り。
魔族側の怒り。
どちらも分類語ではなく、誰かの傷から出てくる。
「良いと思います」
ミナも小さく頷く。
「それなら、いい」
アレンが言う。
「重いけど、逃げてない」
ティナは水を飲み終え、少しだけ頷いた。
「うん」
グレイン先生は紙を見た。
「明日すぐにはやるな」
意外だった。
「なぜですか」
「お前たちが疲れている。今日この話を聞いた。明日すぐ会にすると、整理する前に触ることになる」
確かに。
怒りを扱う会は体力がいる。
連続で行えば、ミナもティナもポルカも、そして私も疲弊する。
先生は続けた。
「一日置く。明後日の放課後、小談話室。今日は詳細を記録せず、扱い方だけ決めろ」
「はい」
「そして、ディア」
「はい」
「その石と手紙は、今夜一人で持つな」
私は一瞬固まった。
「ですが」
「機密か?」
「……はい」
「なら、俺が預かるとは言わん。だが、封をして、保管場所を決めろ。寝る場所のすぐそばに置くな。お前は見返す」
否定できない。
絶対に見返す。
そして重くなる。
「分かりました」
「寮内で保管が難しいなら、セフィナ先生に預ける。中身は見ない。封だけ確認する」
セフィナ先生が頷く。
「私でよければ預かります」
私は迷った。
魔王城の伝令石を人間の教師に預ける。
危険。
しかし、持ち続けるのも危険。
信用できるか。
セフィナ先生。
名前と記録の扱いを教えてくれた人。
中身は見ないと言っている。
だが、教師として、危険物なら確認する責任もあるはずだ。
私は布に包んだ石片を見る。
今は魔力を使い切っている。
声はもう出ない。
手紙は危険だが、読めば私の秘密に近づく。
どうする。
アレンが言った。
「封して、自分の印をつければいいんじゃないか。開けられたら分かる」
なるほど。
魔王城式の封印ではなく、普通の封でよい。
開けられたかどうかが分かるだけでいい。
私は頷いた。
「では、封をして、セフィナ先生に預けます。内容は見ないでください」
「約束します」
セフィナ先生は静かに言った。
私は持っていた予備封筒に手紙と石片を入れ、簡易封蝋を垂らした。
本来の魔力印は使わない。
ただ、ルシェラ・ディアとしての小さな印だけ。
開けられれば分かる。
セフィナ先生はそれを受け取り、引き出しの鍵付き箱へ入れた。
少しだけ、胸が軽くなった。
重いものを、完全に手放したわけではない。
だが、今夜一人で抱えない。
それだけで違う。
職員室を出る頃には、外は少し暗くなっていた。
廊下でティナが大きく息を吐く。
「すごく重かった」
「はい」
「でも、預けられてよかったね」
「はい」
ミナは静かに歩いている。
私は彼女に聞いた。
「ミナ、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、歩ける」
正確な報告だ。
「欲しい支援は?」
「今日は、魔族の怒りの話をこれ以上しない」
「分かりました」
ティナも頷いた。
「じゃあ、ご飯の話しよ」
アレンが言う。
「急だな」
「重い話は今日は終わり!」
ティナは意識的に明るく言った。
逃げではない。
続けるための休憩だ。
「夕飯、何かな」
ミナが少し考えて言う。
「煮込みだと思う」
「何で分かるの?」
「匂い」
「ミナ、すごい」
「普通」
普通の会話。
それがありがたい。
食堂へ向かう途中、アレンが私の横に並んだ。
「お前、大丈夫か」
「大丈夫ではありませんが、歩けます」
「ミナの真似か」
「有用なので」
「そっか」
アレンは少し黙ってから言った。
「姫様って聞こえたって、ティナから聞いた」
心臓が跳ねた。
ティナ。
話したのか。
いや、アレンは談話室で待っていた。
きっと、心配したティナが言ったのだろう。
責めるべきではない。
彼女も重かった。
「はい」
「故郷での呼び方って言ってたな」
「はい」
「それ、全部じゃないだろ」
鋭い。
逃げたい。
だが、完全な嘘はもう危険だ。
「はい」
私は答えた。
「全部ではありません」
アレンは立ち止まらなかった。
ただ、歩きながら言う。
「今は聞かない」
「……ありがとうございます」
「でも、いつか聞く」
「はい」
「その時、全部じゃなくてもいいから、逃げるな」
胸が痛い。
アレンは、もうかなり近づいている。
私の偽装の裂け目に。
「努力します」
「そこは守りますだろ」
「……守ります」
「よし」
その「よし」は、グレイン先生に似ていた。
私は少しだけ笑いそうになった。
「何だよ」
「いえ。先生に似ています」
「やめろ」
アレンは本気で嫌そうな顔をした。
その顔に少し救われた。
食堂では、ミナの予想通り煮込みだった。
ティナは大げさに喜び、ポルカは「温かい食事は生存率を上げます」と言い、クロードは「食事中に戦術語を使うな」と言った。
いつものような、少しおかしな食卓。
だが、今日の私には必要だった。
夜、私は個人記録を書いた。
ただし、ゼルガの手紙の全文は書かない。
声の内容も詳細には書かない。
扱い方を記録する。
――故郷側の知人ゼルガより連絡あり。人間への強い怒りを含む内容。詳細は封印し、セフィナ先生へ一時預託。
――ゼルガの怒りには、魔族側の被害の記憶が含まれている。人間側の怒りだけでなく、魔族側の怒りも扱う必要あり。
――重要。怒りを扱う約束は、人間側にも魔族側にも同じく適用される。怒っても名前で呼ぶ。全部と言わない。出来事で限定する。
――次回少人数会の題名案「怒りにも名前がある」。実施は一日置いて明後日。急がない。
――石片と手紙は一人で抱えず、封印して預託。重い物を寝室に置かない。非常に有効。
――アレンに「姫様」の呼称について、全部ではないと認める。今は聞かないが、いつか聞くと言われる。逃げないこと。
最後に一行。
――魔族の怒りにも名前がある。人間の怒りと同じように、消してはいけない。だが、同じように、人の名前を消す刃にしてはいけない。
羽ペンを置く。
机の上に、ゼルガの手紙はない。
石片もない。
それだけで、部屋の空気が少し軽い。
だが、心の中から消えたわけではない。
ゼルガの声は残っている。
姫様。
敵と笑うためではないはずです。
人間の子に名があるなら、焼かれた魔族の子にも名があった。
その言葉は、私を責める。
でも、同時に、次の問いをくれる。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
ゼルガの怒りを聞きました。
彼は私を責めました。
人間と笑うな、と。
彼の言葉は痛かったです。
ですが、彼の怒りにも名前があります。
私はそれを危険物として遠ざけるだけではいけないのだと思います。
人間の怒りを扱ったなら、魔族の怒りも扱う。
ただし、どちらの怒りにも、同じ約束を置きます。
怒っても、名前で呼ぶ。
全部と言わない。
それができるかどうか、まだ分かりません。
でも、次はそれを試します。




