第69話 ゼルガからの短い報告
役割交換訓練の翌日、私は少し筋肉痛だった。
全体補助に徹するだけなら、身体への負担は少ないはずである。
だが、指示したい衝動を抑え続けるのは、どうやら肩に力が入るらしい。
朝、制服に袖を通した時、肩がわずかに重かった。
「ルシェラ、肩こってる?」
ティナがすぐに気づいた。
「こっている、というほどではありません」
「じゃあ、こりかけ」
「その分類は初めて聞きました」
「昨日、ずっと我慢してたからじゃない?」
当たっている。
私は少し腕を回した。
「全体補助は、思ったより難しいです」
「ルシェラ、全部見えると全部言いたくなるもんね」
「はい」
「でも昨日、ちゃんと我慢してたよ」
「そうでしょうか」
「うん。顔はすごく言いたそうだったけど」
顔面管理。
まだ課題である。
ミナは弓袋を整えながら、短く言った。
「肩、温めた方がいい」
「はい」
「あと、朝ご飯」
「食べます」
最近、私は朝食を抜くという選択肢を失いつつある。
よいことなのだろう。
たぶん。
食堂で朝食を終えた後、寮母から呼び止められた。
「ルシェラ・ディアさん。あなた宛てに、小包が届いていますよ」
小包。
私は足を止めた。
封書ではない。
小包。
差出人は、表向きには例の辺境の魔法研究者。
だが、包み紐の結び目に、魔王城の連絡符号がある。
父上からか。
いや、符号の形が少し違う。
黒い角ではない。
鋭く曲がった、一本角。
ゼルガの符号だ。
胸の奥が、冷えた。
ゼルガ。
魔王軍強硬派。
人間を憎む、私を姫様と呼ぶ者。
父上の返書には、彼が私の報告の一部に強い反応を示したとあった。
そのゼルガから、小包。
嫌な予感しかしない。
「ルシェラ?」
ティナが隣で声をかける。
「顔、固いよ」
「少し、予想外のものが届きました」
「読んだ方がいい?」
「はい。ただし、部屋で確認します」
アレンは少し離れた場所でこちらを見ていた。
彼の目が細くなる。
何かを察したらしい。
私は小包を鞄に入れた。
軽い。
中に硬いものが一つ入っている。
手紙もありそうだ。
教室へ行くまでの道が、いつもより長く感じた。
小包のことを考えていると、足元への注意が減る。
これは危険だ。
私は自分に問いを立てた。
今、私は何を感じているか。
不安。
理由は、ゼルガからの連絡である可能性が高いから。
欲しい支援。
読む前に、一人になりすぎないこと。
だが、中身を見せるわけにはいかない。
詳細は言えないが重い。
その形式を使うべきかもしれない。
教室へ着くと、私は机に小包を置かず、鞄の奥に入れたままにした。
朝の会、授業、訓練。
まずは目の前のこと。
そう思ったが、アレンはすぐに来た。
「何か来たな」
「はい」
「重いやつ?」
「詳細は言えませんが、重い可能性があります」
アレンは少しだけ表情を変えた。
グレイン先生が教えた言い方。
詳細は言えないが重い。
それを聞いて、彼も深く聞かないと判断したのだろう。
「読むのは?」
「放課後、部屋で」
「その前に変な顔してたら?」
「指摘してください」
「了解」
ティナも来た。
「今日、放課後お茶いる?」
「おそらく必要です」
「分かった。用意する」
ミナは何も聞かなかった。
ただ、短く言った。
「重いなら、重いって言って」
「はい」
言えた。
中身は言えない。
でも、重い可能性があるとは言えた。
それだけで、少しだけ足元が安定した。
午前の授業は、戦術基礎だった。
内容は、役割固定の続き。
今日は「自分の役割へ戻る訓練」だった。
昨日、役割交換をした。
今日は、自分の本来の役割へ戻り、その役割の使い方がどう変わったかを見る。
グレイン先生は言った。
「他の役割を経験した後、自分の役割へ戻れ。前と同じ動きをするな」
第一班は、元の役割に戻った。
クロードは前衛兼規則整理。
ミナは後衛。
ティナは支援。
ポルカは撤退補助。
アレンは観察記録。
私は学級委員として全体調整。
ただし、昨日の経験がある。
全部指示しない。
足りないところへ入る。
訓練が始まる。
模擬敵は二人。
旗が一つ。
右に支援位置。
左に退路。
中央に罠札の可能性。
「状況確認」
私は短く言う。
「正面二人。中央、土色違い。罠可能性」
アレン。
「左退路、通れる。ただし細い」
ポルカ。
「射線、中央は半分。クロードが半歩左なら通る」
ミナ。
「支援位置、右。負傷者が出たら右へ」
ティナ。
「前衛、左へ半歩。押し込まず止める」
クロード。
昨日の役割交換が効いている。
ミナの声は少し早い。
ティナは支援位置だけでなく、負傷者が出た時の動きまで考えている。
ポルカは退路の太さも言う。
クロードは後衛の射線を先に意識している。
アレンは記録を短くする。
私は、必要なことだけ言う。
「クロード、半歩左。ティナ、右支援準備。旗は保留。土色確認」
動き出す。
クロードが前へ出る。
ミナの射線が通る。
ティナは動きすぎず、右支援位置に待つ。
ポルカは左退路を見続ける。
アレンが小板に書く。
――交換後、役割戻り良好。声短い。
見えた。
少し、嬉しかった。
昨日の訓練は無駄ではない。
皆、自分の役割に戻ったが、前と同じではない。
グレイン先生も訓練後に言った。
「悪くない。昨日の経験が残っている。役割は戻ったが、視野は少し広がった」
生徒たちは嬉しそうだった。
私も少しだけ嬉しかった。
だが、鞄の中の小包を思い出すと、その嬉しさの底に冷たいものが沈む。
ゼルガの符号。
あれは、何を持ってきたのか。
昼休み、私はあまり食べられなかった。
ティナがすぐに気づいた。
「ルシェラ、半分残ってる」
「食欲が少し」
「重いやつのせい?」
「はい」
「じゃあ、今全部食べろとは言わない。でも、残りを包む。後で食べる」
「はい」
支援が柔軟になっている。
食べろ、ではなく、後で食べる形にする。
ありがたい。
ミナが干し林檎を一枚差し出した。
「これは?」
「軽いから」
「ありがとうございます」
受け取る。
甘酸っぱい。
少し食べられる。
アレンは何も言わない。
ただ、私の鞄の方を一度だけ見た。
午後の授業が終わるまで、私はどうにか通常業務をこなした。
出欠表。
掲示板の更新。
次回訓練の役割表。
ポルカの戻り道候補を三つに戻す。
クロードの規則文を少し柔らかくする。
ティナの士気維持物資表に「食べられない時は後で食べる」を追加する。
手は動いた。
だが、意識の一部はずっと小包にあった。
放課後、女子寮三号室へ戻った。
ティナは約束通り、お茶を用意してくれた。
ミナは窓側で静かに座っている。
私は机に小包を置いた。
アレンは部屋には入れない。
当然だ。
だが、談話室で待っているらしい。
ティナが言った。
「読み終わったら、必要なら呼ぶ?」
「はい。内容は見せられませんが、必要なら相談します」
「分かった」
私は包み紐を解いた。
中には、小さな黒い石片と、短い手紙が入っていた。
石片は、魔王城の伝令石。
一度だけ魔力を流すと、記録された声が再生される。
人間界に持ち込むには危険な品だ。
だが、小型で、短時間だけなら偽装できる。
手紙を開く。
字は鋭く、硬い。
ゼルガの字だ。
――姫様へ。
その呼び方だけで、胸が重くなった。
ここでは、誰も私を姫様とは呼ばない。
ルシェラ。
ディア。
学級委員。
その名で呼ばれている。
姫様。
その役割が、小包の中から私を引き戻す。
――魔王陛下への報告書の一部を拝見しました。
――人間の学校にて、姫様が多くを学ばれていることは理解しました。
理解しました。
その文字は、まったく理解していないように見えた。
続き。
――しかし、姫様。
――あなたは敵を知るために行かれた。
――敵と笑うためではないはずです。
ゼルガの核となる言葉。
私は紙を持つ手を止めた。
ティナが、何も聞かずにお茶を置く。
ありがたい。
私は読み進めた。
――人間は、我らの里を焼きました。
――人間は、魔族の子を狩りました。
――人間は、魔王城の和平使節を殺しました。
――それらを忘れ、学級委員として人間の子らを守ることが、姫様の任務でしょうか。
胸が痛い。
ゼルガの怒りは、嘘ではない。
人間側に被害者がいるように、魔族側にも被害者がいる。
彼は戦災孤児だ。
人間を憎む理由がある。
だからこそ、厄介だ。
彼の言葉は、ただの嫉妬や嫌がらせではない。
魔族側の痛みを背負っている。
――怒りを消さない、と姫様は人間の教室で語られたそうですね。
私は息を飲んだ。
そこまで伝わっている?
いや、報告書には「対魔族感情の扱い」を次回課題として書いた。
父上の返書にもその話があった。
だが「怒りを消さない会」という名は、まだ魔王城へ正式報告していない。
なぜ知っている。
ゼルガ独自の監視か。
魔王城側の連絡役か。
あるいは、父上の近くで報告内容を聞いた誰かか。
危険だ。
私は手紙を読み進める。
――ならば、魔族の怒りも消さないでください。
――人間の怒りだけを丁寧に扱い、魔族の怒りを危険物として遠ざけるなら、それは裏切りです。
その言葉は、正面から刺さった。
ゼルガは間違っていない部分がある。
人間の怒りだけを扱い、魔族の怒りを見ないなら、それは不公平だ。
ただし、彼の怒りは私を人間から引き離す刃でもある。
――伝令石を同封します。
――声をお聞きください。
――姫様がまだ魔族の未来を背負う方であるならば。
手紙はそこで終わっていた。
短い。
父上の手紙より、さらに短い。
だが、重さは違う。
私は黒い石片を見た。
ティナが不安そうに聞く。
「それ、危ないもの?」
「危険ではありません。ただ、重いものです」
「聞くの?」
「はい」
聞かない選択もある。
だが、聞かなければ、ゼルガの怒りを見ないことになる。
父上は言った。
見た上で、選べ。
私は石片に魔力を流した。
低い音がした。
そして、ゼルガの声が部屋に満ちた。
『姫様』
ティナとミナが身を固くする。
私は瞬時に魔力を絞り、声量を下げる。
危ない。
姫様という呼び方。
聞かれてしまった。
ティナの目がこちらを見る。
ミナも、静かにこちらを見ている。
私は、止めるべきか迷った。
しかし、もう聞こえた。
誤魔化すには遅い。
石片の声は続く。
『人間の教室は、明るいですか。人間の子らは、あなたに笑いかけますか。あなたは、その中で、我らの焼けた里を思い出されますか』
ゼルガの声は、怒っている。
だが、叫んではいない。
抑えているからこそ、重い。
『私は覚えています。人間の旗を。人間の火を。人間の兵が、泣いていた魔族の子を見逃さなかったことを』
ミナの顔が少し変わった。
人間の兵が、魔族の子を見逃さなかった。
人間側の被害だけではない。
魔族側の被害。
ここで、ミナは初めてその声を聞いたのかもしれない。
『姫様。敵を知るなら、敵が笑う顔だけを見るな。敵が剣を振るった手も見よ。敵の子に名があるなら、焼かれた魔族の子にも名があった』
私は胸が痛くなった。
名前。
また名前だ。
ゼルガも、名前を使う。
怒りの中で。
『あなたが人間を名で呼ぶなら、我らの名も忘れるな』
石片の光が弱くなる。
最後に、ゼルガは低く言った。
『姫様。あなたは敵を知るために行かれた。敵と笑うためではないはずです』
声は消えた。
部屋は静まり返った。
ティナは顔を青くしている。
ミナは、石片を見ている。
私は呼吸を整えた。
まず、危険。
姫様という呼称が聞かれた。
どうする。
誤魔化すか。
偽装設定として、辺境の魔法研究者の養女が、故郷で冗談めかして姫様と呼ばれていた、と言えるか。
だが、ゼルガの内容が重すぎる。
人間、魔族、魔族の子。
ここで雑に嘘を重ねるのは危険だ。
しかし、正体を明かすことはもっと危険だ。
私は言葉を選ぶ。
「今の声は、私の故郷側の知人からのものです」
嘘ではない。
「彼は、人間との戦いで家族や故郷を失った者です」
これも嘘ではない。
「私が人間の学校で過ごすことに、強く怒っています」
これも事実。
ティナは、少し震えた声で聞いた。
「姫様って」
来た。
私は息を吸う。
「故郷での呼び方です」
完全な説明ではない。
だが、嘘ではない。
魔王の娘とは言っていない。
ミナが静かに言った。
「魔族側にも、そういう人がいるんだ」
その声には、怒りよりも、戸惑いがあった。
「はい」
「人間に家族を殺された魔族」
「はい」
私は頷いた。
「います」
ミナは黙った。
ティナは何か言おうとして、言えない。
私は、今こそ怒りを消さない会で決めたことを使うべきだと思った。
怒りを消さない。
名前で呼ぶ。
全部と言わない。
魔族の怒りも危険物として遠ざけない。
「彼の名は、ゼルガです」
言った。
名前。
魔族側の怒りにも名前を置く。
「ゼルガは、人間を憎んでいます。理由があります。ですが、その怒りがすべて正しい行動になるわけではありません」
ミナが私を見る。
私は続けた。
「ミナの怒りを消してはいけないように、ゼルガの怒りも消してはいけないのだと思います。ですが、怒りで誰かの名前を消してはいけない。それは、同じです」
ティナが小さく言った。
「ゼルガさんも、怒ってるんだね」
「はい」
「ルシェラのことも?」
「はい」
おそらく。
いや、確実に。
ミナは、少しだけ目を伏せた。
「私、今の声、嫌だった」
「はい」
「でも、嘘だとは思わなかった」
胸が重くなる。
「はい」
「人間に殺された魔族の子にも名前があった。たぶん、それは本当」
「はい」
ミナの声は震えていない。
しかし、静かすぎる。
「でも、私の家族を殺した魔族もいた」
「はい」
「両方あるんだ」
「はい」
言うしかない。
両方ある。
人間側の痛み。
魔族側の痛み。
どちらかを消せば楽かもしれない。
だが、消せない。
ティナが胸の前に手を上げた。
限界の合図。
私はすぐに反応した。
「休憩します」
ティナは小さく頷いた。
「ごめん。ちょっと、重い」
「謝らなくてよいです」
私は石片を布で包んだ。
ゼルガの声はもう出ない。
だが、部屋には残っている。
ティナがお茶を淹れようとして、手が少し震えた。
私が代わろうとすると、ミナが先に立った。
「私がやる」
ティナが驚く。
「ミナ?」
「ティナ、座って」
ミナは少しぎこちなく、でも丁寧にお茶を注いだ。
支援補助の訓練が、こんなところで出た。
ティナは杯を受け取り、少し泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう」
「うん」
私はその光景を見て、胸が痛くなった。
魔族側の怒りが部屋に落ちた後、人間の少女二人がお茶を分けている。
分類語ではなく、名前のある二人。
ティナ。
ミナ。
私は自分の役割を確認する。
進行役ではない。
今は当事者に近い。
故郷側からの怒りを持ち込んだ者。
詳細は言えない。
でも、重いと言える。
「これは、私にとっても重いものです」
私は言った。
ティナとミナがこちらを見る。
「理由は、ゼルガの怒りにも、事実が含まれているからです。そして、その怒りが私を人間から引き離そうとしているからです」
ティナは小さく頷いた。
「ルシェラは、どうしたいの?」
どうしたい。
簡単ではない。
「まだ分かりません」
私は正直に答えた。
「ですが、ゼルガの怒りも、ミナの怒りも、どちらも消したくありません。どちらか片方をなかったことにすると、たぶん間違えます」
ミナが言う。
「じゃあ、次は」
「はい」
私は頷いた。
「魔族側の怒りについても、扱う必要があります」
その時、部屋の外から小さくノックがあった。
ティナが扉を開けると、アレンが立っていた。
「大丈夫か」
彼は中の空気を見て、すぐに顔を引き締めた。
「大丈夫じゃなさそうだな」
「詳細は言えませんが、重いことが起きました」
私が言うと、彼は頷いた。
「入っていいか」
ティナとミナを見る。
二人とも頷いた。
アレンは部屋の中へ入り、石片を見た。
「それか」
「はい」
「誰から」
私は少し迷った。
だが、名前はもう出した。
「ゼルガという、故郷側の知人です」
「人間を憎んでる?」
「はい」
アレンは短く息を吐いた。
「次はそっちか」
「はい」
「人間の怒りを扱ったら、魔族側の怒りも来たわけだ」
「そうなります」
「物語みたいだな」
「現実です」
「知ってる」
アレンは椅子に座った。
「で、どうする」
私は、石片を見た。
ゼルガの声はもうない。
だが、言葉は残っている。
敵と笑うためではないはずです。
人間の子に名があるなら、焼かれた魔族の子にも名があった。
あなたが人間を名で呼ぶなら、我らの名も忘れるな。
「まず、先生に相談します」
私は言った。
「この件は、私だけで扱うには重すぎます」
ティナが頷いた。
「うん」
ミナも言う。
「それがいい」
アレンが立ち上がる。
「今行くか」
「はい」
夜にするより、今がいい。
重いものは、長く一人で抱えない。
私たちはグレイン先生とセフィナ先生のところへ向かった。
石片と手紙は布に包み、鞄に入れた。
職員室へ行く途中、私は胸元のお守りに触れた。
父上。
ゼルガから声が届きました。
彼の怒りは、私を責めました。
でも、その中には本当の痛みがあります。
人間の怒りを見たなら、魔族の怒りも見なければならない。
私はそう思います。
ただし、見た上で、選ばなければならない。
あなたの言葉が、今、重いです。
職員室の扉の前で、私は一度息を吸った。
怖い。
理由は、ゼルガの怒りが私の正体に近づく危険を持っているから。
欲しい支援は、先生たちに内容ではなく構造を一緒に見てもらうこと。
そして、友人たちに、私が一人で抱え込まないよう見ていてもらうこと。
私は扉を叩いた。
「失礼します。相談があります」
今度は、自分から言えた。
詳細は言えないが、重い。
けれど、もう一人では持たない。




