第63話 魔王からの返書
返事は、夕方に届いた。
朝ではなかった。
昼でもなかった。
授業を終え、遠征訓練の振り返り掲示の端が少しめくれているのを直し、ポルカがまた戻り道候補を四つに増やそうとしているのを三つへ戻し、クロードと次回班訓練の確認をして、ティナに「今日は郵便箱をまだ見てないよね?」と確認され、「夕方の確認時間までは見ていません」と答えた後だった。
寮へ戻る途中、寮母の机に小さな封筒が置かれていた。
表向きの差出人は、辺境の魔法研究者。
私の偽装上の養父にあたる人物。
だが、その封蝋の端に、普通の人間なら見落とすほど薄く、魔王城の符号が刻まれていた。
黒い角を模した、極小の印。
父上からだ。
胸が、強く鳴った。
「ルシェラ?」
ティナが隣で足を止める。
「手紙?」
「はい」
「例の返事?」
「……はい」
声が少し硬くなった。
自分でも分かった。
ミナも振り返る。
アレンは少し離れたところで、何も言わずにこちらを見ていた。
彼は、こういう時だけ妙に静かになる。
私は封筒を手に取った。
軽い。
厚みはない。
長文ではない。
それが余計に怖かった。
叱責か。
帰還命令か。
短い命令文か。
私は封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。
ティナがそっと声をかける。
「ここで読む?」
私は首を振った。
「部屋で読みます」
「一人で?」
即答できなかった。
一人で読むべきだ。
魔王城からの返書である。
中身には機密が含まれる可能性がある。
しかし、今の私は少し怖い。
怖い+理由。
怖い+欲しい支援。
私は息を吸った。
「一人で読みます。ただ、読み終えた後、重い顔になっていたら声をかけてください」
ティナは小さく頷いた。
「分かった」
ミナも短く言う。
「重かったら、重いって言って」
「はい」
アレンが少しだけ近づいた。
「倒れるなよ」
「倒れません」
「ならいい」
その言い方は雑だった。
だが、心配しているのは分かった。
私は封筒を鞄に入れ、女子寮三号室へ戻った。
部屋に入る。
ティナとミナは、何も言わずに少し距離を取った。
ティナは自分の机で荷物を整理し始め、ミナは弓袋を手入れするふりをした。
私に一人で読む空間を作ってくれている。
完全に一人にはしない。
でも、覗き込まない。
とても高度な支援である。
私は机に座った。
封筒を置く。
封蝋に触れる。
魔王城の符号が、指先にわずかな冷たさを返した。
私は封を切った。
中には、一枚だけ紙が入っていた。
父上の字だった。
力強く、整っていて、無駄がない。
私は息を止めそうになり、意識して吐いた。
そして、読み始めた。
――ルシェラへ。
まず、その一文で少し力が抜けた。
任務名ではない。
潜入者へ、でもない。
姫へ、でもない。
ルシェラへ。
父上は、続けていた。
――報告書を読んだ。
――長い。
私は紙を持つ手に力が入った。
短い。
そして、いきなり刺さる。
父上。
そこからですか。
背後でティナがこちらを見そうになった気配がした。
だが、我慢している。
私は読み進めた。
――ただし、無駄ではなかった。
――戦力の数値のみを記した報告より、よほど多くのものが見えた。
胸の奥に、温かいものが落ちた。
叱責ではない。
少なくとも、最初の反応は。
――お前は、人間を単なる敵戦力として報告しなかった。
――それを任務の逸脱と見る者もいるだろう。
――だが、私はそうは見ない。
私は、その一文で息を止めた。
父上。
紙の文字が少し滲んだように見えた。
泣いてはいない。
たぶん。
目が少し熱いだけである。
――敵を知るとは、弱点を数えることだけではない。
――その者が何を守り、何を恐れ、何を失えば折れるのか。
――そして、何を得れば立ち上がるのか。
――そこまで見なければ、敵を知ったとは言えぬ。
父上らしい言葉だった。
重い。
魔王の言葉。
しかし、そこには、ただ冷たく相手を分析するだけではないものがあった。
――お前が報告した勇者学校の強み。
――弱さを役割に変え、失敗を次へ変える仕組み。
――それは脅威である。
――同時に、学ぶべきものでもある。
学ぶべきもの。
魔王が、人間の学校から学ぶべきものがあると書いている。
私は紙を持ったまま、少し震えた。
――魔族は強さを尊ぶ。
――だが、強い者だけでは軍は残らぬ。
――恐れる者、記録する者、戻り道を見る者、傷を運ぶ者。
――そうした者たちを弱者として捨てれば、最後に残るのは声の大きい愚者ばかりだ。
ポルカ。
アレン。
エミリオ。
セシル。
ティナ。
皆の顔が浮かんだ。
父上は知らない。
彼らの声も、表情も。
だが、私の報告を通じて、少し見てくれたのかもしれない。
――ミナ・オルステッドについて。
――個人的に託された情報を記さなかった判断は、現時点では認める。
私は背筋を伸ばした。
現時点では。
その言葉は、優しくもあり、厳しくもある。
――ただし、守るべき秘密と、上に立つ者が把握すべき危険を混同するな。
――本人の安全、または和平の可能性に直結する場合は、必要最低限を報告せよ。
――その際も、名を扱うならば、名に相応の重さを持て。
グレイン先生の授業と同じだった。
秘密を守ることと、一人で抱えることは違う。
父上も、それを言っている。
私は小さく頷いた。
――黒角隊に関する調査は継続中である。
――お前の報告にあった被害者側の記録、名の扱い、慰霊標の件は、こちらでも照合の助けになる。
――ただし、性急に結論を出すな。
――痛みに同情して急ぐ者も、責任から逃げるために急ぐ者も、同じく真実を歪める。
痛みに同情して急ぐ者。
私のことだ。
あるいは、私になり得るものだ。
責任から逃げるために急ぐ者。
これもまた、魔王城側にあり得る。
黒角隊の独断と呼ぶことで、何が軽く扱われる危険があるか。
私が授業で作った問いとつながる。
父上は、そこを見ている。
――ゼルガが、お前の報告の一部に強い反応を示した。
私は手を止めた。
ゼルガ。
魔王軍強硬派。
私を姫様と呼び、人間を憎む幼なじみのような存在。
――彼は、お前が人間に近づきすぎていると考えている。
――今すぐ問題にするつもりはない。
――だが、今後、お前の任務に干渉しようとする者が出る可能性はある。
胸が冷える。
来た。
やはり、魔王城側に不穏が出た。
父上は認めてくれた。
しかし、全員がそうではない。
ゼルガは、きっと許せない。
私が人間の学校で学級委員をし、同級生の名前を守り、魔王城への報告に「人間の強み」を書いたことを。
――ルシェラ。
――お前は魔王の娘である。
――その事実は消えぬ。
私は息を飲んだ。
紙の上の文字が、急に重くなる。
――だが、魔王の娘であることは、人間を見てはならぬ理由にはならぬ。
――むしろ、誰よりも見よ。
――見た上で、選べ。
見た上で、選べ。
父上は命令している。
しかし、ただの命令ではない。
道を与えるのではなく、選ぶことを命じている。
最も難しい命令だ。
――人間を敵と決めつけるな。
――魔族を正しいと決めつけるな。
――お前が見たものを、都合よく削るな。
――ただし、情に溺れ、任務を忘れるな。
厳しい。
優しい。
そして、逃げ場がない。
父上は、私が揺れていることを分かっている。
分かった上で、戻ってこいとは言わない。
続けろ、と言っている。
――次回報告では、勇者学校内における対魔族感情の扱いを詳述せよ。
――特に、怒りを抑え込まず、かつ煽らずに扱う方法について。
――これは魔族側にも必要となる可能性がある。
対魔族感情。
ミナ。
クラス内の反応。
これから扱うべき主題が、はっきり示された。
巻の終盤に向けて、避けられない課題。
――最後に。
――報告書は長い。
――次は要点を先に書け。
父上。
最後もそこですか。
私は少しだけ笑ってしまった。
笑った瞬間、ティナが振り返った。
「笑った?」
「はい」
「大丈夫そう?」
私は手紙を伏せた。
中身を見せることはできない。
だが、今の状態は伝えられる。
「重いですが、悪い返事ではありませんでした」
ティナの顔が明るくなる。
「よかった!」
ミナもこちらを見る。
「叱られた?」
「長いとは言われました」
ティナが吹き出した。
「そこ?」
「重要な指摘のようです」
「アレンも言ってたね」
「父上……いえ、養父も同意見でした」
危ない。
父上と言いかけた。
ミナが少しだけ首を傾げたが、深くは聞かなかった。
「でも、悪くないならよかった」
「はい」
私は手紙を丁寧に畳んだ。
胸の中には、複数の感情があった。
安心。
緊張。
嬉しさ。
怖さ。
ゼルガへの不安。
父上に認められたことへの安堵。
そして、次の課題。
対魔族感情の扱い。
怒りを抑え込まず、煽らずに扱う方法。
それは、ミナの傷にも関わる。
クラス全体にも関わる。
そして、魔族側にも関わる。
翌朝、私は手紙の内容をすべてではなく、必要な形に変えて自分の記録へ落とした。
――魔王城より返書あり。詳細は機密。
――私の報告は任務逸脱とは見なされず。ただし、情に溺れ任務を忘れるなとの警告。
――勇者学校の「弱さを役割に変え、失敗を次へ変える仕組み」は脅威であり、学ぶべきものでもあるとの評価。
――ミナより託された情報を記さなかった判断は現時点で認められる。ただし、守るべき秘密と把握すべき危険を混同しないこと。
――黒角隊調査は継続中。性急な結論は禁止。
――ゼルガが報告の一部に強く反応。今後、魔王城側からの干渉可能性あり。重要。
――次回報告課題。勇者学校内における対魔族感情の扱い。怒りを抑え込まず、煽らずに扱う方法。
最後に、父上の言葉を一つだけ写した。
――見た上で、選べ。
私は羽ペンを置いた。
そこへ、アレンが教室で声をかけてきた。
「返事、来たんだろ」
「はい」
「顔が昨日と違う」
「どう違いますか」
「怖い顔と、ちょっと安心した顔と、また仕事が増えた顔」
「正確です」
「当たってるのかよ」
アレンは少し呆れた。
「で、どうだった」
「悪い返事ではありませんでした。ただ、次の課題ができました」
「課題?」
「対魔族感情の扱いです」
アレンの目が少し細くなった。
「それ、学校の課題か?」
「私の個人的な課題でもあります」
「重いやつだな」
「はい」
「ミナ絡み?」
私はすぐには答えなかった。
内容をどこまで言うか。
言える範囲。
「ミナだけではありません。クラス全体と、歴史授業と、今後の訓練に関わることです」
「つまりミナも絡む」
「はい」
アレンは少し黙り、それから言った。
「一人でやるなよ」
「はい」
「言うだけじゃなくて、本当に」
「……はい」
そこへティナが来た。
「何の話?」
アレンが答える。
「ルシェラの仕事がまた増えた話」
「それは大変!」
「大変です」
私は素直に頷いた。
ティナは少し考えた。
「じゃあ、お茶会?」
「なぜ」
「重い話の前には、お茶がいるでしょ」
ミナが後ろから静かに言った。
「いる」
即答だった。
私は少しだけ笑った。
「では、放課後に相談会をしましょう」
「相談会って名前が硬い」
ティナが言う。
「では、何と」
「うーん……『どう扱うか会』?」
「そのままですね」
「でも分かりやすいよ」
アレンが言う。
「対魔族感情どう扱うか会?」
「硬くて重いです」
「お前が言うな」
ミナが少しだけ考えて、言った。
「怒りを消さない会」
全員が黙った。
それは、短く、強かった。
怒りを消さない。
でも、たぶん、燃やしすぎもしない。
私は頷いた。
「それにしましょう」
ミナは少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「はい。重要です」
アレンが小さく言った。
「重いけど、逃げてない名前だな」
ティナも頷く。
「うん。いいと思う」
こうして、次の課題の名前が決まった。
怒りを消さない会。
学級委員の仕事は、また一つ難しくなる。
でも、父上からの返書を読んだ今、逃げるわけにはいかない。
見た上で、選べ。
私はその言葉を胸に置いた。
人間の怒りを見る。
魔族の痛みも忘れない。
どちらかをなかったことにしない。
そのための最初の場を、作らなければならない。
放課後、私は掲示用ではない小さな紙に、次の話し合いの目的を書いた。
――怒りを消さない会。
――目的。魔族への怒りを、なかったことにしない。
――ただし、怒りで誰かを雑に扱わない。
――話すこと、話さないこと、聞くこと、待つことを決める。
書いた瞬間、これは簡単な会ではないと分かった。
下手をすれば、ミナを傷つける。
クラスの対立を強める。
ルシェラ自身の正体にも近づく。
だが、避け続ければ、いつか爆発する。
怒りを抑え込まず、煽らずに扱う方法。
父上からの課題。
グレイン先生とセフィナ先生に相談する必要がある。
ティナ、アレン、ミナにも。
私は紙を畳んだ。
夜、個人記録に一行だけ追加した。
――父上は、私を戻せとは言わなかった。見た上で選べ、と言った。
その下に、もう一行。
――ならば私は、怒りから目を逸らさずに見る。
羽ペンを置く。
返事は来た。
怖さは消えない。
むしろ、次の怖さが生まれた。
だが、返事が来ない手紙を待っていた時より、少しだけ前へ進める気がした。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
返書、受け取りました。
長いと言われたことは、今後改善します。
たぶん。
ですが、あなたが私の報告を任務逸脱と切り捨てなかったことに、私は救われました。
次は、怒りを見ます。
人間の怒りを。
魔族の痛みを。
その両方を見た上で、私は選ばなければならないのだと思います。




