第62話 返事の来ない手紙
報告書を送った翌日から、私は少し落ち着かなかった。
返事がすぐに来るわけではない。
魔王城への連絡網は、人間界の普通の郵便とは違う。
表向きには、辺境の魔法研究者へ送る手紙。
実際には、途中で符丁を持つ連絡役に渡り、いくつかの中継を経て魔王城へ届く。
急ぎの軍報ではない。
定期報告だ。
だから、返事が来るとしても時間がかかる。
分かっている。
分かっているのに、朝、寮の郵便箱を確認してしまう。
食堂へ向かう前に、廊下の掲示板を見るふりをして、寮母の机の上に届いた封筒がないか見てしまう。
教室へ行けば、いつも通り学級委員の仕事がある。
遠征訓練の振り返り掲示。
持ち物確認表の修正。
次回班訓練の予定。
体調申告の回収。
ポルカが増やしすぎた戻り道候補を三つに戻す作業。
セシルの地図記号の整理。
やることは多い。
だが、どこかで報告書のことを考えている。
父上は、あの報告をどう読むだろう。
勇者学校の強みは、弱さを役割に変える仕組みにある。
そう書いた。
人間の強さかもしれない、とも書いた。
ミナから託された情報は書かない、と明記した。
魔王城への正式報告で、報告しない情報があると書いた。
普通なら、問題になる。
だが、父上なら。
いや、父上だからこそ、魔王として厳しく見るかもしれない。
魔王の娘が、人間の同級生に情を移している。
そう読まれたらどうなる。
任務失格か。
帰還命令か。
あるいは、監視強化か。
私は朝の教室で、出欠表を持ったまま固まっていた。
「ルシェラ」
声がした。
アレンだった。
「はい」
「出欠表、上下逆」
私は手元を見た。
本当に逆だった。
「……確認不足です」
「珍しいな」
「少し考え事をしていました」
「少し?」
「かなり」
「だろうな」
アレンは椅子の背に腕を乗せ、こちらを見る。
「例の報告書か」
「はい」
「返事が怖い?」
直球だった。
私は少し言葉に詰まる。
しかし、嘘をついても意味がない。
「はい」
「理由は?」
「報告書として適切だったか分からないからです。書くべきことを書き、書かないと決めたこともあります」
「欲しい支援は?」
私は瞬きをした。
怖い+理由。
怖い+欲しい支援。
アレンは、当然のようにその形式を使ってきた。
「……今は、出欠表が逆だったら指摘してください」
「それだけか」
「それと、私が必要以上に重い顔をしていたら、少しだけ止めてください」
「少しだけ?」
「強く言われると反発する可能性があります」
「面倒だな」
「自覚はあります」
アレンは少し笑った。
「了解。出欠表と重い顔な」
「お願いします」
「しかし、お前が怖いって言うの、少し増えたな」
私は手を止めた。
「そうでしょうか」
「前は、怖いって言う前に全部任務とか責任とかにしてた」
「……そうかもしれません」
「今もしてるけど、前よりはまし」
「前回比較では大きい」
「俺の言い方、広めるな」
アレンは嫌そうにした。
だが、声は軽かった。
そこへティナが教室へ入ってきた。
「おはよう! あ、ルシェラ、今日も難しい顔」
「重い顔ですか」
「うーん。今日は不安顔」
「分類が増えています」
「増えたね」
ティナは私の机に小さな包みを置いた。
「朝の支援」
「ありがとうございます」
「報告書の返事、まだだよね?」
私は少し驚いた。
「なぜ」
「昨日から郵便箱見てるでしょ」
見られていた。
非常に見られていた。
「見ていました」
「うん。待ってる時って落ち着かないよね」
「はい」
「じゃあ、待つ条件を決めたら?」
「待つ条件」
「今日中には来ないかもしれないんでしょ? だったら、郵便箱を見るのは朝と夕方だけ、とか」
待つ条件。
時間、情報、合図。
訓練で学んだことを、日常へ戻されている。
私は少し考えた。
「有効です。郵便箱確認は朝食前と夕方のみとします」
「お昼は見ない」
「見ません」
「授業中も考えすぎない」
「努力します」
「そこは、守ります」
「……守ります」
ティナは満足そうに笑った。
ミナも教室へ入ってきた。
彼女は私たちを見て、短く言う。
「待つの?」
「はい」
「待つなら、食べた方がいい」
「皆、食事を勧めますね」
「大事だから」
ミナはそう言って、自分の席へ向かった。
正しい。
待つには体力がいる。
怖い返事を待つにも、朝食と糖分が必要。
私はティナの包みを開け、小さな焼き菓子を一つ食べた。
甘い。
少しだけ、胸のざわつきが落ち着いた。
午前の授業は、グレイン先生による座学だった。
遠征訓練後の基礎確認。
班行動における「報告の遅れ」について。
黒板には、こう書かれている。
――報告しない理由。
私は少し嫌な予感がした。
グレイン先生は生徒たちを見渡し、低い声で言った。
「遠征訓練で、お前たちは多くの報告をした。危険、戻り道、体調、持ち物、できない理由。今日は、その逆を考える」
逆。
報告しない理由。
「なぜ人は、報告すべきことを報告しないのか」
教室が少し静まった。
私の胸にも、その問いが刺さる。
報告しない情報。
ミナから聞いた名前。
私は報告しなかった。
理由はある。
だが、報告しない理由を考える授業は、今の私には少し痛い。
グレイン先生は黒板に書く。
――一、叱られたくない。
――二、重要ではないと思う。
――三、誰かを傷つけると思う。
――四、自分で何とかできると思う。
――五、報告してよい相手が分からない。
「これらは、どれも実戦で危険になる」
先生は言った。
「だが、すべてが同じではない。怠慢と配慮と判断保留を混同するな」
怠慢。
配慮。
判断保留。
私は羽ペンを握った。
これは重要だ。
「たとえば、持ち物を忘れたのに叱られたくなくて黙る。これは危険だ。怠慢に近い」
ティナが空袋の件を思い出したのか、小さく頷く。
「だが、誰かの個人的な事情を、本人の許可なく大声で報告しない。これは配慮になる場合がある」
私の手が止まった。
グレイン先生は、私を見ていない。
たぶん偶然だ。
だが、言葉はまっすぐ届いた。
「ただし、配慮と言いながら、必要な情報を隠せば危険になる。たとえば、班員が歩けないほど足を痛めているのに、本人が嫌がるからと教師に言わない。これは配慮ではない。危険隠しだ」
ミナが静かに聞いている。
ポルカは手帳を構えている。
アレンは頬杖をつきながらも、目は黒板を見ている。
「判断保留とは、今すぐ報告するには情報が足りない時に、追加確認を行うことだ。だが、保留には期限をつけろ。期限のない保留は、ただの先送りになる」
また、待つ条件。
期限。
私は深く頷いた。
グレイン先生は生徒へ問いかけた。
「では、報告しないことが許される条件は何だ」
教室が静かになった。
クロードが手を挙げた。
「本人の安全に直ちに関わらず、かつ本人の許可が必要な個人情報である場合」
「硬いが悪くない」
クロードが少しだけ悔しそうにする。
アレンが手を挙げる。
「あと、報告する相手を選ぶ必要がある時。全員に言う必要はなくても、先生には言うべきとか」
「良い」
ティナが手を挙げる。
「本人に確認できるなら、先に聞く」
「良い」
ミナも、静かに手を挙げた。
「でも、本人が言えない時もある」
教室が少し静まる。
ミナは続けた。
「その時は、近くで見てる人が、最低限だけ言う。全部じゃなくて、必要な分だけ」
グレイン先生は頷いた。
「その通りだ」
黒板に追加される。
――本人に確認する。
――報告相手を選ぶ。
――安全に必要な最低限を伝える。
――保留には期限をつける。
私はそれを書き写した。
そのまま、今の自分に突き刺さっている。
ミナの名前は、安全に直ちに関わらない。
本人の許可が必要。
父上には、ミナの存在と重要性は報告した。
だが名前そのものは記さなかった。
報告しない理由も書いた。
保留の期限は?
私はそこで止まった。
期限。
いつまで書かないのか。
ミナが許可するまで。
それでよい。
だが、もし魔王城側でその情報が必要になる状況が起きたら?
安全に関わる事態になったら?
その時は、ミナに確認し、必要最低限を伝える。
私は心の中で整理した。
書かない約束にも、条件が必要だ。
約束を破るためではない。
守るために、どこまでが約束かを明確にする。
授業後、私はグレイン先生に呼ばれた。
「ディア」
「はい」
「今日の授業、刺さった顔をしていた」
「……顔面管理が機能していません」
「そこはもう諦めろ」
先生にまで言われた。
かなり深刻である。
「何か報告しない情報があるのか」
心臓が、一拍だけ強く鳴った。
グレイン先生の目は鋭い。
嘘は危険だ。
だが、すべてを言うこともできない。
私は慎重に言葉を選んだ。
「個人的に預かっている情報があります。本人の安全に直ちに関わるものではなく、本人の許可なく広く共有すべきではないと判断しています」
「本人に確認したか」
「はい。まだ紙には残したくないと言われました」
「報告相手は」
「現時点では、私のみが覚えています」
「安全上必要になった場合は」
「本人に確認します。確認できない緊急時は、必要最低限のみ信頼できる教師へ伝えます」
グレイン先生はしばらく黙った。
そして頷いた。
「悪くない」
私は少しだけ息を吐いた。
「ただし、一人で抱えすぎるな。個人情報を守ることと、一人で抱え込むことは違う」
「はい」
「必要なら、内容ではなく重さだけでも相談しろ。『詳細は言えないが重い』とかな」
詳細は言えないが重い。
その言い方は使える。
「覚えておきます」
「それと、期限を決めろ。本人が話せる時まで待つのはいい。だが、お前がいつまでも不安で潰れるようなら、待ち方を変えろ」
「待ち方を変える」
「内容を出せという意味ではない。支援を増やせという意味だ」
「はい」
私は深く頷いた。
昼休み。
私はミナに、今日の授業のことを短く話した。
中庭ではなく、教室の隅。
ティナも近くにいたが、少し距離を取ってくれている。
「ミナ」
「うん」
「先日聞いた名前について、確認したいことがあります」
ミナの表情が少しだけ固くなる。
私はすぐに続けた。
「名前を今も記録していません。誰にも言っていません」
「うん」
「ただ、今日の授業で、報告しない情報にも条件が必要だと学びました」
「条件」
「はい。もし、あなたの安全に直ちに関わる事態が起きた場合は、まずミナに確認します。確認できない緊急時だけ、必要最低限を信頼できる教師へ伝える可能性があります」
ミナは黙って聞いていた。
「それ以外では、書きません。言いません。あなたがよいと言うまで」
しばらく沈黙。
ミナは視線を落とし、指先で机の端に触れた。
「分かった」
「はい」
「それでいい」
私は胸の奥の力が少し抜けた。
「ありがとうございます」
「ルシェラ」
「はい」
「それ、一人で考えてた?」
「はい」
ミナは少しだけ眉を寄せた。
「重かった?」
「……はい」
「じゃあ、次から、重いって言って」
私は目を瞬かせた。
「内容は?」
「言わなくていい。でも、重いって言って」
グレイン先生と同じだ。
詳細は言えないが重い。
ミナ本人も、そう言っている。
「分かりました」
「うん」
ティナが少し離れたところから、小さく親指を立てていた。
なぜその仕草なのかは分からないが、たぶん応援である。
午後の授業は、通常の剣術基礎だった。
私はあまり得意ではないふりをしながら、平均より少し上の動きを保った。
アレンは剣術では苦戦していたが、足運びの観察はうまい。
ベルトが前に出すぎる癖を修正している。
クロードは相変わらず安定している。
ティナは疲れた生徒へ声をかけ、ミナは無理をしない距離を保っていた。
普通の授業。
普通の疲れ。
それが少しありがたかった。
夕方、寮の郵便箱を確認した。
今日、二回目。
ティナとの約束通り、昼には見なかった。
郵便箱には、私宛の封筒はなかった。
返事はまだ来ない。
胸が少し沈む。
だが、昨日よりはましだった。
待つ条件を決めたから。
報告しない情報の条件を決めたから。
ミナにも確認できたから。
返事が来ないことは、何も起きていないことと同じではない。
ただ、まだ届いていないだけ。
私はそう自分に言い聞かせた。
夜、個人記録を書く。
――グレイン先生の授業「報告しない理由」。怠慢、配慮、判断保留を混同しないこと。
――報告しないことが許される条件。本人に確認する。報告相手を選ぶ。安全に必要な最低限を伝える。保留には期限をつける。
――個人的に預かる情報について、グレイン先生へ内容を伏せたまま相談。詳細は言えないが重い、という相談の形を学ぶ。
――ミナへ、名前を記録しない約束の条件を確認。安全に直ちに関わる場合のみ、本人確認を優先し、緊急時は必要最低限を信頼できる教師へ。了承あり。
――ミナより、内容は言わなくてもよいが、重い時は重いと言うよう言われる。重要。
――報告書の返事はまだなし。郵便箱確認は朝と夕方のみ。昼は見なかった。待つ条件、少し有効。
最後に一行。
――秘密を守ることは、一人で抱えることではない。中身を明かさず、重さだけを分ける方法もある。
私は羽ペンを置いた。
返事はまだ来ない。
父上がどう読むか、まだ分からない。
でも今日は、返事が来ない間にできることを少し覚えた。
待つ条件を決める。
秘密の条件を決める。
重い時は、重いと言う。
内容をすべて差し出さなくても、支援を求めていい。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
返事はまだ来ません。
私は少し怖いです。
理由は、私の報告が任務から外れているかもしれないからです。
支援として、今は待つ条件を決めています。
朝と夕方だけ、郵便箱を見ます。
それ以外の時間は、ここで学ぶべきことを学びます。
返事が来るまで、私はここで、学級委員を続けます。




