第59話 帰り道こそ気を抜かない
遠征訓練は、帰るまでが訓練である。
それは、グレイン先生が言った言葉だ。
だが、実際に帰路へ入ってみると、その意味がよく分かった。
行きは、皆の目が前を向いていた。
管理林に入る緊張。
慰霊標を見る緊張。
模擬課題に挑む緊張。
新しい場所へ進む緊張。
それらが、身体を少し硬くし、意識を鋭くしていた。
だが、帰りは違う。
慰霊標を越えた。
模擬課題も終えた。
昼食も取った。
簡易野営準備も確認した。
あとは学校へ戻るだけ。
そう思った瞬間、人間の集中は緩む。
魔王城の遠征訓練でも、帰路の事故は多いと聞いたことがある。
勝った後の部隊。
任務を終えた後の偵察兵。
城門が見えた瞬間の兵士。
最も危険なのは、危険が終わったと思った時。
つまり、今である。
「第一班、帰路確認」
私は管理林の休憩地で、班員たちを見た。
「体調、足元、持ち物、戻り道を確認します」
アレンが肩をすくめる。
「帰るだけなのに」
「帰るまでが訓練です」
「先生みたいになってきたな」
「必要なことです」
「否定しないんだな」
私は頷いた。
「はい」
ティナが自分の水筒を軽く振った。
「水、まだあるよ」
「私もあります」
ミナも短く言う。
「ある」
ポルカは手帳を見ながら言った。
「僕もあります。ただ、少し足が疲れています。理由は沢と石段で緊張したからです。支援として、帰りの石段前に一度止まりたいです」
「採用します」
私は即答した。
「クロード、足元は?」
「問題ない。ただし、全体的に疲労はある。歩幅は行きより小さくすべきだ」
「同意します」
アレンは小板を開いた。
「俺は問題なし。記録は続けるけど、字はさらに汚くなると思う」
「読める範囲でお願いします」
「努力する」
努力する、という返事が増えた。
以前なら、「面倒」で終わっていただろう。
大きな成長。
言わない。
いや、少しだけ言いたい。
「何だよ」
アレンがこちらを見る。
「何も」
「顔が言ってる」
「顔面管理」
「帰ったら訓練だな」
「顔面訓練は存在しません」
「お前には必要だろ」
ティナが笑った。
ミナも少し口元を緩める。
遠征後半に笑いが残っている。
悪くない。
グレイン先生が全体へ声をかけた。
「帰路は、班ごとに少し間隔を空けて進む。途中で最後の課題を入れる。何が起きるかは言わん」
生徒たちがざわついた。
最後の課題。
やはりある。
先生は続けた。
「疲れている時ほど、基本に戻れ。名前+危険内容。できない理由。戻り道。体調申告。持ち物。以上だ」
「はい!」
返事は揃っていた。
だが、声には疲れが混じっている。
それも重要な情報だ。
第一班は、帰路の先頭から三番目に配置された。
前に別班。
後ろにも別班。
教師は左右に分かれている。
セフィナ先生は後方寄り。
グレイン先生は中央。
つまり、何か起きても、すぐ教師が来るとは限らない。
訓練として適切。
そして、少し嫌な配置である。
私たちは休憩地を出た。
まずは林の中の細い道。
行きには気づかなかった小さな傾斜が、帰りには足に来る。
ポルカの言う通り、疲労は判断力だけでなく歩幅にも出る。
クロードが先頭で速度を落とした。
「歩幅を小さく。前の班との距離を保つ」
「了解」
ティナが返す。
ミナは後方を見ながら歩く。
アレンは左右の木々を見ている。
ポルカは地面と地図を交互に見ている。
私は全体の呼吸を見る。
今のところ問題なし。
だが、林は静かすぎる。
いや、静かすぎるというより、行きより鳥の声が少ない。
私はアレンを見る。
彼も同じことに気づいていた。
「アレン」
「鳥の声が減った」
「はい」
「断定。さっきより静か。推測。上級生がどこかにいるか、小動物が逃げた」
「記録を」
「もう書いてる」
良い。
ポルカが小声で言う。
「静かすぎる場所は、静印とは違う怖さがあります」
「はい。報告として有効です」
私は前方のクロードへ伝える。
「クロード、周囲警戒。鳥の声が減っています」
「了解。速度をさらに落とす」
その時、前の班が止まった。
急停止ではない。
だが、足が止まった。
前方の道に、倒木がある。
行きにはなかった。
動く障害物。
ポルカが小さく息を飲んだ。
「倒木を信用するな……!」
アレンが嫌そうな顔をした。
「俺の雑な言葉が生きてる」
「非常に有効です」
「褒めるな」
グレイン先生の声が前方から届いた。
「各班、その場で判断。倒木を越えるか、迂回するか、戻るか。班ごとに報告しろ」
最後の課題。
倒木による経路変更。
疲労時の判断訓練。
私は地図を見る。
現在地。
帰路の主道。
前方に倒木。
右側に細い迂回路。
左側は斜面。
戻れば休憩地まで引き返せる。
主道を越えれば速いが、倒木が濡れている可能性がある。
右の細道は、一列。
負傷者がいなければ通れる。
左斜面は避けたい。
「状況確認」
私は言った。
「倒木、行きにはなし。越える場合は転倒リスク。右に迂回路。左斜面。戻ると時間がかかる」
アレンが倒木を見た。
「倒木の下、罠札っぽいものは見えない。ただ、濡れてる。越えると滑る可能性」
ポルカが地図を確認する。
「右の細道は、速い道候補です。一列ですが、足元は主道よりましなはずです。ただし、前の班も使うなら詰まります」
ミナが周囲を見る。
「右へ行くと射線は切れる。後方確認はしにくい」
ティナが言う。
「疲れてる人がいるなら、倒木越えはやめた方がいいと思う」
クロードが班員を見た。
「現時点で負傷者なし。だが疲労あり。倒木越えで怪我をするリスクを取る必要は薄い」
私は確認表を思い出す。
今取らないと失うものは何か。
倒木越えを選ばないと、少し時間を失う。
今取ると失うものは何か。
転倒、足を濡らす、負傷。
十秒待てば増える情報はあるか。
前の班の判断と、右道の混み具合。
「十秒待ちます。前班の判断を確認」
全員が頷いた。
前の班は、倒木を越えず、右の細道へ進むことを選んだ。
ただし、一列でゆっくり進んでいる。
右道は詰まり始めている。
このまま続くと、私たちも右道で待つことになる。
後ろの班も近づいてきている。
道上で滞留すると、別の危険が出る。
「右道は詰まっています」
ポルカが言う。
「倒木越えは危険。左斜面は論外。戻る?」
ティナが聞く。
私は判断しようとして、止めた。
これは戻り道判断。
ポルカが一番見えている。
「ポルカ、主導を」
「僕ですか!」
「はい。戻り道判断です」
ポルカは一瞬震えたが、すぐに地図を見た。
「えっと、右道は一番速い道ですが、今は詰まっています。倒木越えは足元危険。左斜面は使いません。戻ると安全ですが、時間がかかります。でも後ろの班もいるので、ここで止まり続けるのは危険です」
「結論は?」
アレンが短く聞く。
「戻りません。右道の入口手前で待機ではなく、少し手前の広い場所まで下がって待ちます。前の班が抜けたら右道を一列で進みます」
良い。
ただ止まらない。
戻りすぎない。
待機場所を選ぶ。
「採用します」
私は答えた。
「第一班、三歩下がって広い場所へ。右道が空くまで待機」
クロードがすぐに動く。
「後ろの班へ伝達」
「私が行く」
ラウルが後方の別班から走ってきていた。
彼は伝達役として配置されていたらしい。
「第一班、右道待機?」
「はい。右道詰まり。少し手前の広い場所で待機。後続も詰めすぎないように」
「了解!」
ラウルは走り去る。
伝達が速い。
そして内容も短い。
訓練の成果が出ている。
私たちは広い場所まで下がった。
ポルカは息を吐いた。
「怖かったです。理由は、戻るか進むかで全員が詰まりそうだったからです」
「よく判断しました」
「はい……!」
ティナが飴を一つ差し出す。
「今いる?」
「いります!」
ポルカは受け取った。
士気維持物資、適切に使用。
やがて右道が空いた。
私たちは一列で進む。
先頭はクロード。
次にポルカ。
その後にティナ。
ミナ。
私。
最後尾はアレン。
「なぜアレンが最後尾ですか」
私が聞くと、アレンは答えた。
「後ろを見るやつがいるだろ」
「なるほど」
「評価するな」
「まだしていません」
「顔がした」
右道は細かった。
だが、足元は思ったより安定していた。
木の根はあるが、湿りは少ない。
ポルカの判断は正しかった。
細道を抜けると、主道に戻る。
倒木の向こう側だ。
グレイン先生が待っていた。
「第一班、判断を報告」
ポルカが私を見る。
私は頷いた。
彼が報告すべきだ。
「右道を使いました。ただし、前班が詰まっていたため、すぐ進まず、手前の広い場所で待機しました。理由は、倒木越えは滑る危険があり、左斜面は使いたくなく、道上で止まり続けると後続が詰まるからです」
グレイン先生は頷いた。
「良い判断だ」
ポルカの目が大きく開いた。
「良い判断……!」
「ただし、報告が少し長い。次は、結論、理由、注意点の順に短くしろ」
「はい!」
「だが、判断自体は悪くない。戻り道役が機能している」
ポルカは胸を押さえた。
感動で倒れそうである。
ティナが小声で言う。
「ポルカ、生きてる?」
「生きています……戻り道役として……」
アレンが笑った。
「よかったな」
「はい!」
帰路は続く。
次は古い石段。
行きにも注意した場所だ。
疲労がある帰りの方が危険である。
「石段前、一度停止」
私は言った。
「ポルカの希望通り、確認時間を取ります」
全員が止まる。
水分を一口。
靴紐確認。
手袋確認。
間隔確認。
クロードが言う。
「下りではなく、今度は上りだ。足を上げる分、疲労が出る。急ぐな」
石段を上る。
一段。
一段。
途中で、後方の班から声がした。
「待って、足が」
エミリオの班だ。
小柄な生徒が足を押さえている。
捻ったわけではなさそうだが、疲労で足が上がりにくいらしい。
エミリオがすぐに声をかける。
「大丈夫? 痛い? 支えようか?」
搬送補助の手順が自然に出ている。
ティナが行こうとしかけた。
私は彼女を見る。
ティナも私を見る。
どちらが近いか。
エミリオの班の支援役がすでにいる。
ティナは自分で判断した。
「見守る」
「はい」
エミリオは相手の許可を取り、腕を貸した。
その班の支援役が横につく。
問題なし。
ティナはほっと息を吐く。
「行かないのも、ちょっと疲れるね」
「はい」
「でも、あの班でできてた」
「はい」
支援は、自分が動くことだけではない。
他の支援役が動けるのを待つことも含まれる。
石段を越えると、第一観察地点に戻った。
校舎の屋根が遠くに見える。
朝に見た時より、少し輝いて見えた。
戻ってきている。
だが、まだ終わりではない。
ここは「静」印の場所でもある。
観察のため静かにする場所。
ただし、今は慰霊ではなく、方向確認。
「静印。声を落として方向確認」
私は言った。
ポルカが小声で言う。
「校舎の屋根、見えます。戻り方向、合っています」
アレンも小声で言う。
「後方、遅れあり。でも止まってない」
ミナが言う。
「木の切れ目、朝と同じ」
クロードが頷く。
「列を維持して進む」
ティナが小さく笑った。
「確認できたから、普通に戻ろう」
「はい」
声を戻す。
静けさの使い方も、だいぶ自然になってきた。
管理林の出口が見えてきた時、生徒たちの空気がまた緩んだ。
校舎が近い。
正門が見える。
終わりが近い。
最も危険な緩み。
その瞬間、グレイン先生が最後の札を掲げた。
――持ち物確認。
生徒たちから、少し悲鳴に近い声が上がった。
「今ですか!?」
誰かが言った。
グレイン先生は平然と答える。
「今だ。疲れている時、帰った気になった時こそ、物を落とす」
正しい。
非常に正しい。
第一班もその場で持ち物確認を行う。
水筒。
地図。
小板。
士気維持物資袋。
応急布。
小型魔灯。
連絡札。
予備靴下袋。
問題なし。
と思った時、ティナが声を上げた。
「あれ、薄焼きの袋がない」
「士気維持物資袋ですか」
「ううん、空袋。中身は配った後のやつ。でも、袋を落としたかも」
空袋。
重要度は低い。
だが、林にゴミを残すのはよくない。
どこで落としたか。
休憩地か。
石段か。
細道か。
戻るべきか。
アレンが小板を見た。
「休憩地で配って、石段前では見た気がする。細道ではティナ、袋開けてない。たぶん石段前か、その後」
ティナが少し焦る。
「ごめん」
「責めるためではなく、補うためです」
私は言った。
「戻る必要があるか判断します」
グレイン先生が近くに来た。
「どうした」
「士気維持物資の空袋が一つ不足。場所は石段前以降の可能性。中身はなしです」
「判断は」
私は考える。
今取らないと失うもの。
林にゴミが残る。
今取ると失うもの。
班全体を戻して疲労を増やす。
別の達成方法。
後続班や教師へ確認依頼。
誰が一番見えているか。
アレンとティナ。
アレンが言う。
「戻るなら一人か二人。でも今は列が動いてる。全員で戻るほどじゃない」
ポルカが言う。
「石段前なら、後続班がまだ通ります。伝達して探してもらう方が安全です」
ティナが申し訳なさそうに言う。
「私、戻った方が」
「待ってください」
私は止めた。
「ティナ一人で戻るのは不可。班を戻すのも負担が大きい。後続班と教師へ情報共有します」
グレイン先生が頷いた。
「妥当だ」
私はラウルを呼んだ。
「ラウル、伝達をお願いします。第一班、士気維持物資の空袋一つ不足。石段前以降の可能性。中身なし。後続班に見かけたら回収を依頼」
「了解!」
ラウルが走る。
ティナはまだ少し落ち込んでいる。
「ごめん、最後に」
「発見できたのは良いことです」
私は言った。
「未確認のまま帰るより、今報告できた方がよいです」
アレンも言う。
「中身ないなら大問題じゃない。次から袋の数を最初に数えとけばいい」
ティナが頷く。
「うん。次はそうする」
次はこうしよう。
帰路でも同じだ。
しばらくして、後続班から連絡が来た。
石段前の休憩場所近くで空袋発見。
回収済み。
ティナは大きく息を吐いた。
「よかった……」
グレイン先生が言う。
「良い失敗だ」
ティナが顔を上げる。
「良い失敗?」
「帰る直前に持ち物を確認する理由が全員に分かった。次から士気維持物資の袋も数に入れろ」
「はい!」
最後の最後で、また一つ学んだ。
学校の正門に戻った時、足はかなり疲れていた。
だが、全員戻った。
怪我人なし。
大きな忘れ物なし。
空袋回収済み。
グレイン先生が全体を前にして言った。
「遠征訓練、終了」
その瞬間、生徒たちから安堵の声が漏れた。
終わった。
本当に終わった。
ただし、先生は続けた。
「明日、振り返りを行う。今日は帰ったら休め。記録係は、必要最低限だけまとめておけ。長文は禁止だ」
また私を見た気がした。
たぶん見た。
私は視線を逸らした。
アレンが横で笑っている。
寮へ戻る道すがら、ティナが言った。
「疲れたね」
「はい」
ミナが頷く。
「でも、悪くなかった」
「うん」
ポルカが手帳を抱えながら言う。
「帰り道こそ危険でした……!」
「その通りでした」
クロードも頷く。
「訓練は帰るまで終わらない。覚えた」
アレンが小板を見ながら言った。
「記録、短くまとめるの無理かもしれない」
「長文は禁止です」
「お前が言うのか」
「先生の指示です」
「便利だな」
私たちは笑いながら寮へ向かった。
夜。
私は疲れた手で記録を書いた。
長文は禁止。
だが、個人記録は必要。
必要最低限。
努力する。
――遠征訓練帰路。倒木により主道一時封鎖。ポルカ主導で、右道が空くまで手前の広い場所で待機する判断。良好。
――帰路の石段前で停止確認。疲労時は上りでも注意。エミリオ、別班で搬送補助を自然に実施。
――第一観察地点で静印を方向確認に使用。静けさの用途が慰霊以外にもあると確認。
――管理林出口前で持ち物確認。ティナの士気維持物資空袋不足を発見。後続班へ伝達し回収。帰路終盤の確認は有効。
――グレイン先生「良い失敗」と評価。次回から物資袋数も確認項目に追加。
――全員帰還。怪我人なし。大きな忘れ物なし。
私はそこで一度止めた。
そして、最後に一行だけ書く。
――帰り道こそ、気を抜かない。終わったと思った場所に、最後の学びが残っている。
羽ペンを置いた。
疲れた。
非常に疲れた。
だが、悪い疲れではない。
管理林へ行き、慰霊標を見て、訓練をし、昼食を食べ、帰路で倒木を避け、空袋を回収し、全員で戻った。
遠征は終わった。
けれど、明日は振り返りがある。
つまり、終わった出来事を次に変える作業が残っている。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
帰ってきました。
全員で。
旗を取れなかった場面もありました。
空袋を落とした場面もありました。
でも、誰も置いてきませんでした。
名前を見た場所から、ちゃんと学校へ戻りました。
遠征訓練は、帰るまでが訓練。
そして、たぶん、帰ってから記録するまでが、本当の意味での訓練なのだと思います。




