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第58話 静けさの後に動く

 模擬課題地点は、管理林の奥にある小さな広場だった。


 広場と言っても、演習場ほど整ってはいない。


 地面には木の根が走り、低い草が残り、ところどころに湿った土が見える。


 周囲には木々。


 右側には細い道。


 左側には倒木。


 奥には赤い布の旗が一本。


 そのさらに奥に、上級生が二人立っている。


 旗。


 上級生。


 倒木。


 湿った土。


 木の根。


 そして、慰霊標を離れたばかりの班員たち。


 状況は単純ではない。


 私は全員の顔を見た。


 クロードは前を見ている。


 ティナは支援袋の位置を確認している。


 ミナは弓袋を肩にかけ直し、木々の隙間を見ている。


 ポルカは地図と足元を交互に見ている。


 アレンは小板を持ち、上級生だけでなく、旗の周囲と左右の道を見ている。


 皆、動ける。


 だが、先ほどの慰霊標の静けさは、まだ完全には消えていない。


 空気が少しだけ重い。


 悪い重さではない。


 しかし、訓練の初動を鈍らせる可能性はある。


 私は息を吸った。


「第一班、確認」


 全員の視線がこちらへ向く。


「ここからは訓練です。先ほどの場所で見たことは忘れません。ですが、今は動きます」


 ティナが小さく頷いた。


 ミナも静かに頷く。


「静かにしたら、また話していい」


 ミナが短く言った。


「はい」


 私は答えた。


「そして、静けさの後でも動いていい」


 自分で言って、胸の中に少し残った。


 静けさの後でも動いていい。


 死者を忘れないことと、生きている者が訓練することは、同時に存在してよい。


 グレイン先生が少し離れた場所でこちらを見ている。


 何も言わない。


 任せられている。


 上級生の一人が声を上げた。


「第一班、課題説明!」


 私たちは広場の端に並んだ。


 上級生は木板を掲げる。


「目標は赤旗の回収。ただし、途中で追加条件が出る。旗を持ち帰れば成功。接触、罠札、負傷者放置は減点。制限時間あり」


 旗を持ち帰る。


 ただし、追加条件。


 いかにも迷わせる訓練だ。


 私はアレンを見る。


「初見情報を」


「旗の手前、土が少し変。罠札か、湿地。右の道は細いけど戻り道に使える。左の倒木は遮蔽物にもなるけど、足元が悪い。上級生二人は旗を守るっていうより、こっちの動きを待ってる」


 短い。


 良い。


「断定と推測は?」


「土が変なのは断定。罠札か湿地は推測。上級生が待ってるのも推測」


「了解」


 ポルカがすぐに続ける。


「戻り道は三つです。一番安全は来た道を戻る。速い道は右の細道。ただし一列。最後の手段は左の倒木裏を抜ける道ですが、足元が悪いです」


「ミナ、射線は?」


「正面は旗周辺まで見える。でも木が多い。右へ寄ると射線が切れる。左は倒木で見えない」


「ティナ、支援位置は?」


「中央少し後ろ。右に行くなら私も動く必要がある。負傷者が出たら、倒木側は運びにくい」


「クロード、前衛維持は?」


「正面一人なら十秒以上。二人同時なら五秒。湿った土の上では踏ん張りにくい」


 情報が揃う。


 私は確認表を思い出す。


 今取らないと失うものは何か。


 今取ると失うものは何か。


 十秒待てば増える情報はあるか。


 誰が一番見えているか。


 旗を急げば、罠札か湿地を踏む危険。


 待てば、上級生の動きが見える可能性。


「三秒待ちます。上級生の初動を見る」


 アレンが小さく頷いた。


 開始の合図が鳴った。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 上級生は動かない。


 ただし、右側の上級生がわずかに視線を旗の手前へ落とした。


「旗手前、何かある」


 アレンが言った。


「見たか」


「見た。確証はないけど、踏ませたい場所だと思う」


「了解。旗へ直進しません」


 私は判断した。


「クロード、正面で牽制。押し込まない。ミナ、旗手前の土を見てください。ポルカ、右道の通行確認。ティナ、中央待機。アレン、上級生の視線継続」


「了解」


 皆が動く。


 クロードは正面へ進むが、旗へは行かない。


 上級生の一人が少し反応する。


 こちらが直進しないことを見て、構えを変えた。


 ミナが弓を構えず、目で旗手前を見る。


「土の色が違う。罠札、隠してあるかも」


 ポルカが右道の入口へ行き、すぐ戻る。


「右道、通れます。ただし一列。木の根あり。急ぐと転びます」


 ティナが言う。


「右を使うなら、負傷者対応は難しくなるよ」


「分かりました」


 その瞬間、追加条件の札が掲げられた。


 ――負傷者役発生。


 広場の左側、倒木の近くで、別の上級生が膝をついた。


 負傷者役。


 旗は奥。


 負傷者は左。


 右道は戻り道。


 正面は罠疑い。


 典型的な分岐。


 旗か。


 負傷者か。


 私はすぐに決めそうになった。


 しかし、止める。


 誰が一番見えているか。


 負傷者対応ならティナ。


 私は彼女を見る。


「ティナ、主導を」


 ティナの目が少し開いた。


 だが、すぐ頷く。


「分かった。負傷者確認を優先。旗は保留。クロードは正面の上級生を止めすぎないで。ミナ、左に射線ある?」


「倒木で半分ない。私が少し右へ動けば見える」


「じゃあ、ミナは右へ。ポルカ、左の足元見て。アレン、旗周り継続。ルシェラは足元補助お願い」


「はい」


 支援主導。


 ティナの指示は明確だった。


 彼女は負傷者役へ近づく前に言う。


「みんな、見てて!」


 支援移動時の合図。


 全員が周囲を見る。


 ティナは倒木近くへ行き、負傷者役に声をかけた。


「大丈夫ですか。どこが痛いですか。動かしていいですか」


 上級生が答える。


「足を痛めた。支えがあれば歩ける」


「搬送可能! でも倒木側、足元悪い!」


 ポルカが即座に言う。


「左足元、木の根と湿りあり! ゆっくりなら通れます!」


 その時、正面の上級生二人が動いた。


 一人はクロードへ。


 もう一人は旗側から回り込み、ティナの退路を狙う。


「右から回る!」


 アレンが叫ぶ。


「クロード、一人だけ止めて! 二人は止めなくていい!」


「了解!」


 クロードは正面の一人を受ける。


 押し込まない。


 止める。


 ベルトとの訓練で何度も確認した、防衛前衛。


 ミナが右へ動き、回り込む上級生の足元へ牽制矢を放つ。


 上級生が一拍止まる。


 私はティナと負傷者役の足元に小さな土補助を入れる。


 平均より少し上。


 滑らない程度。


 強すぎない。


「右道で戻る?」


 ポルカが聞いた。


 私は判断しかけて、ティナを見る。


 まだ彼女が主導だ。


 ティナは負傷者役を支えながら言った。


「右道は一列で遅い。負傷者がいると詰まる。来た道を戻る!」


「一番安全ですね!」


 ポルカが答える。


「クロード、五秒で下がって! ミナ、右牽制もう一回! アレン、旗は?」


「旗は捨てる。今取りに行くと退路が切れる」


 ティナが一瞬、旗を見る。


 そして言った。


「旗は捨てる。負傷者と帰る!」


 その判断は、昨日までの訓練の積み重ねだった。


 旗を捨てる判断。


 負傷者確認。


 戻り道。


 誰かを置いていく判断になっていないか。


 私は全体補助に徹した。


 ティナの判断を支える。


 クロードが後退。


 ミナが牽制。


 ポルカが来た道を示す。


 アレンが上級生の動きを短く伝える。


 私は足元を整える。


 ティナが負傷者役を支える。


 全員で戻る。


 旗は残った。


 だが、負傷者役は帰還。


 接触なし。


 罠札なし。


 全員帰還。


 グレイン先生が手を上げた。


「そこまで」


 ティナは大きく息を吐いた。


「緊張した……!」


「良い判断でした」


 私が言うと、ティナは少し困ったように笑った。


「旗、捨てちゃった」


「はい」


「でも、あれでよかったよね?」


 私はすぐに答えようとして、少し止めた。


 評価ではなく、確認。


「理由を言えますか」


「うん。負傷者役がいて、右道は一列で詰まりやすい。旗を取りに行くと退路が切れる。だから負傷者と帰る方を選んだ」


「十分です」


 アレンが言う。


「俺も同じ判断」


 クロードも頷く。


「旗回収より全員帰還を優先すべき状況だった」


 ミナが短く言う。


「旗は無理だった」


 ポルカが強く頷く。


「戻り道が狭い時の旗回収は危険です!」


 ティナはほっとしたように笑った。


「そっか。よかった」


 グレイン先生が近づいてきた。


「第一班、旗は未回収。だが判断は悪くない」


 ティナが背筋を伸ばす。


「はい」


「マール」


「はい!」


「支援役が主導する場面としては良かった。負傷者確認、支援移動時の声かけ、旗を捨てる判断。全部理由がある」


「ありがとうございます」


「ただし、負傷者を支えながら声が少し小さくなった。支援役の声が小さくなると周囲が迷う。次はもう少し大きく」


「はい!」


 先生は次に私を見た。


「ディア」


「はい」


「よく主導を渡した」


「はい」


「途中で取り返そうとした顔はしたがな」


「……はい」


 アレンが肩を震わせている。


 笑っている。


 私は顔面管理の失敗を認めるしかなかった。


「だが、行動はしなかった。今はそれでいい」


「はい」


 今はそれでいい。


 最近、その言葉に少し救われる。


 完璧ではない。


 でも、前よりはできている。


 次の課題は、今の結果を班全体で短く記録することだった。


 アレンが小板を見て言う。


「違和感。旗手前の土。上級生の視線。危険。右道一列、退路詰まり。判断理由。負傷者優先、旗放棄。断定、旗未回収。推測、旗周辺罠。見えないもの、旗手前の正体は未確認」


「良い記録です」


「評価するな」


「感謝です」


「ならいい」


 ポルカが追加する。


「戻り道は来た道が有効でした。右道は速いですが、負傷者がいる時は使いにくいです」


 セシルが別班から見学していたため、地図へ印を追加した。


 右道に「一列・負傷者時注意」。


 旗手前に「未確認・土色違い」。


 地図が育っている。


 訓練で得た情報が、次の班の助けになる。


 まさに記録の役割だ。


 その後、他の班も課題に挑んだ。


 ベルトの班は、最初に旗へ向かいかけたが、途中で土の違いに気づき、半歩下がって後衛に確認させた。


 結果、旗手前には罠札があった。


 ベルトは悔しそうだったが、踏まなかった。


 大きな進歩だ。


 エミリオの班では、負傷者役が出た時、彼がすぐに搬送補助へ入った。


 体の大きさを使い、ゆっくり支える。


 支援役が安心して周囲を見る余裕ができた。


 ラウルの班では、伝達が遅れかけたが、彼は「止める情報が先!」と自分で言い直し、罠札の位置を先に伝えた。


 セシルの班では、光札で危険箇所と静印の場所を区別して示した。


 生徒たちは、演習場で作った言葉を林の中でも使い始めている。


 完全ではない。


 失敗もある。


 だが、使っている。


 昼近くになり、グレイン先生は全体を休憩地へ戻した。


 先ほどの開けた場所。


 水分補給。


 昼食。


 体調確認。


 ティナが士気維持物資を配る。


 ただし、勝手に配るのではなく、班員の状態を見ている。


「ミナ、飴か薄焼き、どっちがいい?」


「薄焼き」


「アレンは?」


「薄焼き」


「朝も食べてたね」


「喉渇きにくい」


「学習!」


「言うな」


 ポルカは飴を選んだ。


「糖分で心を落ち着けます」


「水も飲んでください」


「はい!」


 私は昼食を食べながら、周囲を見た。


 生徒たちは疲れている。


 しかし、ただ浮ついた遠征ではなくなっていた。


 それぞれが、自分の役割を意識している。


 地図を見る者。


 靴下を確認する者。


 負傷者対応を振り返る者。


 慰霊標の方角を一度だけ見る者。


 普通に笑う者。


 静けさの後に、動く。


 動いた後に、食べる。


 それは、とても生きている行為に見えた。


「ルシェラ」


 ミナが私を呼んだ。


「はい」


「さっき、重い顔長くなかった」


 私は少し驚いた。


「本当ですか」


「うん」


「改善しましたか」


「少し」


「少し」


「前回比較なら大きい」


 ミナがアレンの言い回しを使った。


 アレンが嫌そうに顔を上げる。


「俺の言葉、広がってないか?」


「有用なので」


 私が言うと、アレンはさらに嫌そうにした。


 ティナが笑った。


 ミナも少し笑った。


 慰霊標の後でも、笑えた。


 それが、今日の一番大きな成果かもしれない。


 午後の課題へ進む前に、セフィナ先生が短い話をした。


「今日、皆さんは慰霊標で名前を見ました。その後、訓練をしました。少し不思議に思った人もいるかもしれません」


 生徒たちは静かに聞く。


「悼むことと、動くことは、矛盾しません。忘れないことと、訓練することも、矛盾しません。大切なのは、どちらか片方で全てを塗りつぶさないことです」


 私は胸の中で、その言葉を繰り返した。


 悼むことと、動くことは矛盾しない。


 ミナが静かに聞いている。


「静かにする時間があり、普通に戻る時間があります。名前を読む時間があり、水を飲み、足元を確認し、仲間と話す時間があります。その両方が、ここで学ぶことです」


 セフィナ先生は微笑んだ。


「では、午後も安全に進めましょう」


 その声で、場は自然に訓練へ戻った。


 午後は、簡易野営準備の確認から始まった。


 敷布を広げる位置。


 水場との距離。


 木の根を避けること。


 小型魔灯の置き方。


 班員の座る配置。


 これも地味だが重要だった。


 ポルカはすぐに、座る位置と逃げ道を確認した。


 クロードは敷布の端を揃えた。


 ティナは中央に士気維持物資を置いた。


 ミナは後方が見える位置に座った。


 アレンは「ここ、見通し良すぎて逆に落ち着かない」と記録した。


 私は全体を見て、笑いそうになった。


 いや、笑ってはいない。


 たぶん。


「何ですか」


 クロードが聞いた。


「いえ。皆、自然に自分の役割で動いていると思いました」


「それは良いことだろう」


「はい」


「なら、顔に出てもいいのではないか」


 クロードにそう言われ、私は少し困った。


 顔に出てもいい。


 それは、新しい考えだった。


 潜入者としては困る。


 しかし、学級委員としては、喜びが顔に出ることが悪いとは限らないのかもしれない。


 難しい。


 午後の最後に、グレイン先生は全員を集めた。


「本日の遠征訓練、前半終了だ」


 前半。


 つまり、まだ何かある。


 生徒たちがざわつく。


「この後、帰路で最後の課題を行う。疲れている時にこそ、持ち物、戻り道、体調申告が必要になる。気を抜くな」


 やはり。


 遠征は帰るまでが訓練。


 ポルカが真剣に頷いている。


「帰路こそ危険……」


「その通りです」


 私は答えた。


 ティナが水筒を確認し、アレンが小板をしまい、ミナが弓袋を整え、クロードが人数を数え、ポルカが戻り道を再確認する。


 第一班は、まだ動ける。


 だが、疲労はある。


 私は自分にも問いを立てる。


 今、私は何を感じているか。


 疲労。


 少しの安心。


 まだ終わっていない緊張。


 慰霊標を越えた後の静かな温かさ。


 そして、この班が動けていることへの誇らしさ。


 それを、今は胸の中に置く。


 記録は後でいい。


 今は、帰る。


 全員で。


 名前を見た場所から、普通の声に戻り、訓練をし、食べ、笑い、また歩く。


 静けさの後に動く。


 それが今日、私たちが管理林で学んだことだった。

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