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第57話 管理林へ

 遠征訓練の朝は、よく晴れていた。


 窓の外には、薄い雲が少しあるだけだった。


 風は強くない。


 地面も、寮の窓から見える範囲では乾いている。


 ただし、管理林の沢周辺や木陰は別である。


 昨日までの湿り気が残っている可能性はある。


 私は起きてすぐ、鞄の中身を再確認した。


 水筒。


 昼食。


 筆記具。


 簡易雨具。


 訓練用手袋。


 予備靴下。


 敷布。


 小型魔灯。


 応急布。


 連絡札。


 携帯食。


 お守り。


 すべてある。


 次に、部屋の戸締まり。


 異常なし。


 机の上の記録紙は、封をして鞄の奥ではなく、机の引き出しの底へ。


 今日は持っていかない。


 遠征中に落とす危険がある。


 特に、ミナの家族の名前に関する記録は、名前そのものを書いていないとはいえ、扱いに注意すべきだ。


 書かない約束。


 それを守るなら、関連する紙も不用意に持ち歩かない方がよい。


「ルシェラ、朝から鞄とにらめっこしてる」


 ティナの声がした。


 振り返ると、彼女はもう制服の上に訓練用外套を羽織っていた。


 髪も動きやすいようにまとめている。


「持ち物の最終確認です」


「全部あった?」


「はい」


「朝ご飯は?」


「まだです」


「じゃあ、次は朝ご飯」


「はい」


 完全に手順へ組み込まれている。


 悪くない。


 ミナも起きていた。


 彼女は弓袋を確認し、予備弦を小さな布袋に入れている。


 動きは静かだが、昨日より安定しているように見えた。


「ミナ」


「うん」


「体調は?」


「大丈夫」


「睡眠は?」


「眠れた」


「食事は?」


「食べる」


 短いが、明確。


 私は頷いた。


「分かりました」


 ティナが少し笑う。


「ルシェラ、完全に確認係だね」


「学級委員ですので」


「でも、自分のこともちゃんと確認してね」


「はい」


 自分のこと。


 それが一番難しい。


 私は自分の体調を確認した。


 睡眠。


 やや浅い。


 食欲。


 普通。


 緊張。


 少しあり。


 恐怖。


 慰霊標の場面、ミナの反応、そして自分が重い顔をしすぎる可能性について、ややあり。


 支援が欲しいか。


 必要なら、ティナとアレンに声をかける。


 私は心の中でそう整理した。


 怖い+理由。


 怖い+欲しい支援。


 自分に使うのはまだ難しいが、少しずつ試す。


 食堂では、いつもより多くの生徒が早く集まっていた。


 遠征訓練の日だからだ。


 食欲のある者。


 緊張で食べられない者。


 興奮して声が大きい者。


 逆に静かな者。


 それぞれ違う。


 私は第一班の席へ向かった。


 アレンはすでに座っていた。


 パン。


 卵。


 野菜。


 水。


 完璧ではないが、かなり良い。


「アレン」


「言うな」


「良い朝食です」


「言った」


「感想です」


「便利だな、感想」


 彼は文句を言いながら、卵を食べた。


 クロードは食事を終え、すでに持ち物確認表を広げていた。


「クロード」


「何だ」


「食事中ではありませんね」


「もう食べた」


「良いです」


「君に評価されると妙な気分だ」


 ポルカはスープを両手で持ち、真剣な顔で飲んでいた。


「ポルカ、体調は?」


「緊張しています。理由は管理林が広いからです。支援として、地図確認の時間を朝にもう一度ほしいです」


 完璧な報告だった。


「分かりました。正門前で全体集合前に五分取りましょう」


「ありがとうございます!」


 ティナがにこにこする。


「ポルカ、報告上手になったね」


「怖さは報告してよいので!」


 周囲の何人かが笑った。


 けれど、もう誰もそれを馬鹿にする空気ではなかった。


 ポルカの怖さは、役割になっている。


 食後、正門前に集合した。


 勇者学校の正門は、入学の日と同じように明るかった。


 あの日、私はこの門を「思ったより明るい」と思った。


 敵地の入口なのに。


 今は、同じ門が遠征訓練の集合場所になっている。


 同級生たちが班ごとに集まり、外套を整え、水筒を確認し、地図を見ている。


 敵地。


 その言葉は、もうこの光景には合わない。


 グレイン先生が正門前に立ち、声を上げた。


「班ごとに整列。持ち物確認を行え」


 私とクロードはそれぞれ確認表を持つ。


 第一班は、今日の基本班として私、アレン、ティナ、クロード、ミナ、ポルカ。


 加えて、訓練中の一部課題でセシルとラウル、ベルト、エミリオが合流する予定になっている。


 まずは第一班の確認。


「水筒」


「あります」


「ある」


「あります!」


「ある」


「あります」


「ある」


「訓練用手袋」


 全員確認。


「簡易雨具」


 全員確認。


「予備靴下」


 全員確認。


 アレンの袋も閉じている。


 よし。


「士気維持物資」


 ティナが袋を掲げた。


「あります!」


「戻り道記録」


 ポルカが手帳を胸に抱える。


「あります!」


「観察記録」


 アレンが小板を軽く上げる。


「ある」


「後衛確認」


 ミナが弓袋を軽く叩く。


「ある」


「規則確認」


 クロードが表を掲げる。


「問題なし」


 全員、準備完了。


 私は少し息を吐いた。


 そこへ、グレイン先生が来た。


「第一班」


「はい」


「準備は」


「完了しています」


 クロードが答えた。


 先生は私を見る。


「学級委員」


「はい」


「今日は全体を見すぎるな。自班を優先しろ。全体は教師が見る」


 最初から釘を刺された。


「承知しました」


「顔が全体を見ようとしている」


「……承知しました」


 アレンが横で笑っている。


 後で何か言おう。


 いや、遠征前に無駄な衝突は避ける。


 先生は全体へ向き直った。


「出発する。学校を出ても訓練中だ。列を崩すな。道中で異常があれば、近くの班員へ伝えろ」


 生徒たちが返事をする。


 そして、私たちは管理林へ向けて歩き始めた。


 勇者学校の正門を出る。


 石畳の道。


 小さな坂。


 低い草地。


 遠くに見える管理林。


 木々はまだ朝の光を受けて、葉の端を明るくしていた。


 演習場とは違う匂いがする。


 湿った土。


 草。


 木の皮。


 遠くの水の気配。


 ポルカが小声で言う。


「土の匂いがします」


「はい」


「湿っています。沢周辺は滑る可能性があります」


「記録してください」


「はい!」


 アレンも小板に短く書く。


 ――朝、土湿り。沢注意。


 記録係として、ちゃんと動いている。


 歩きながら、ティナがミナへ声をかけた。


「大丈夫?」


「うん」


「緊張は?」


「少し」


「私も少し」


「ティナも?」


「うん。遠征ってだけで、ちょっとそわそわする」


 ミナは少しだけ目を和らげた。


「そう」


 ティナは、相手の緊張を聞くだけでなく、自分の緊張も少し出す。


 それで、相手だけが見られている状態を避けている。


 支援として非常に高度。


 私は感心した。


 アレンが小声で言う。


「今、記録したそうだったな」


「はい」


「我慢してる?」


「しています」


「えらいえらい」


「子供扱いしないでください」


 アレンは笑った。


 管理林の入口には、木製の看板があった。


 ――勇者学校管理林。許可なき立ち入り禁止。


 その横に、セフィナ先生が立っていた。


 今日は歴史教師としてではなく、遠征訓練の補助教員として参加しているらしい。


 穏やかな外套姿で、手には小さな資料鞄。


「皆さん、おはようございます」


「おはようございます!」


 生徒たちが返事をする。


 セフィナ先生は微笑んだ。


「今日は林の中を歩きながら、地形、記録、そして場所の扱い方を学びます。グレイン先生の指示をよく聞いて、安全に行動してください」


 グレイン先生が続ける。


「ここからは班行動だ。ただし、最初は全員で基本経路を進む。各班、地図を出せ」


 地図。


 セシルの「静」印が入った地図。


 ポルカの戻り道候補が書かれた地図。


 私たちはそれを広げた。


 管理林の入口から、まずは広い道を進む。


 最初の観察地点。


 次に古い石段。


 沢。


 開けた休憩地。


 北側の慰霊標。


 最後に模擬課題地点。


 その順番らしい。


「第一確認」


 私は言った。


「一番安全な戻り道は入口へ戻る主道。速い道は東側の細道。ただし、雨天時は使用しない。最後の手段は沢沿いを下る道」


 ポルカが頷く。


「はい。沢沿いは滑るので最後の手段です。できれば使いたくありません」


「了解」


 アレンが小板に書く。


 ――戻り道三種確認。沢沿い最後。


 ミナは周囲を見て言った。


「入口付近は射線あり。でも奥に入ると木が増える」


「後衛注意ですね」


「うん」


 クロードは列を確認する。


「前衛は歩幅を合わせろ。早く歩きすぎると後ろが離れる」


 ベルトが別班の前方で、それを聞いて少し頷いている。


 彼も学んでいる。


 林の中へ入る。


 足元が少し柔らかくなった。


 木々の影が視界に入り、光がまだらに落ちる。


 空気が少し冷たい。


 ポルカが地面を見る。


「木の根があります。右側注意」


「名前+危険内容です」


 私が言うと、ポルカはすぐに言い直した。


「第一班、右足元、木の根注意!」


「了解」


 全員が足元を見る。


 良い。


 すぐ使えている。


 少し進むと、グレイン先生が手を上げた。


「停止」


 全員が止まる。


「ここが第一観察地点だ」


 そこは、少し開けた場所だった。


 木々の間から、遠くの校舎の屋根が見える。


 反対側には、管理林の奥へ続く細い道。


 セフィナ先生が前へ出る。


「この場所は、昔から見張り場として使われていました。今は訓練用ですが、以前は土砂崩れや獣の動きを見るための場所だったそうです」


 見張り場。


 観察地点。


 地図には「静」の印がある。


 危険ではないが、観察のため静かにする場所。


 私は班へ小声で言った。


「静印。声を落とします」


「了解」


 全員が声量を下げた。


 ポルカは感動したように手帳を見る。


「静印、機能しています……!」


「声が大きい」


 アレンが小声で言う。


「すみません……!」


 小声の謝罪。


 良い。


 グレイン先生が生徒たちへ問いかけた。


「ここで見るべきものは何だ」


 ラウルが手を挙げた。


「道のつながりです」


「他は」


 ミナが短く言う。


「木の切れ目」


「なぜだ」


「人や獣が通る場所になる」


「良い」


 アレンが言う。


「校舎が見える。迷った時の方向確認に使える」


「良い」


 ポルカが手を挙げる。


「戻り道の目印になります」


「それも良い」


 セフィナ先生が微笑む。


「同じ場所でも、問いが違うと見えるものが変わりますね」


 その言葉に、私は少し背筋を伸ばした。


 問いが増えると、見えるものが変わる。


 ここでも同じだ。


 見張り場。


 観察地点。


 戻り道の目印。


 静かにする場所。


 一つの場所に、複数の役割がある。


 第一観察地点を出る時、ティナが小さく言った。


「静かにしたら、また話していい、だよね」


「はい」


「じゃあ、普通に戻ろう」


「そうですね」


 私たちは声量を普通に戻した。


 重くしすぎない。


 必要な静けさの後は、普通に戻る。


 ミナは少しだけ安心したように見えた。


 次は、古い石段だった。


 苔が少しついている。


 広いが、段差が不揃い。


 グレイン先生が言う。


「ここは転倒注意。急ぐな。前後の間隔を詰めすぎるな」


 ポルカが即座に報告する。


「第一班、石段、下り注意。右端に苔があります」


「了解」


 クロードが先頭で歩幅を調整する。


「一段ずつ。手すりはない。無理に追いつこうとするな」


 アレンが小板に書く。


 ――石段、苔右。下り危険。クロード歩幅調整有効。


 私は横目でそれを見た。


 良い記録。


 短いが、必要な情報がある。


 石段を下りきったところで、後方から小さな声がした。


「きゃっ」


 別班の女生徒が足を滑らせた。


 転倒はしなかったが、少し膝をついた。


 すぐにティナが反応しそうになった。


 だが、距離がある。


 その班の支援役が近くにいる。


 私はティナを見る。


 ティナは一瞬迷って、自分で止まった。


「近くの子が見てる」


「はい」


 待てた。


 自分が助けに行くのではなく、近くの支援役に任せる。


 その班の支援役が声をかける。


「大丈夫? 立てる?」


「うん、大丈夫」


 グレイン先生が確認し、問題なしと判断。


 訓練は続行。


 ティナは小さく息を吐いた。


「行きそうになった」


「でも、待てました」


「うん」


「良い判断です」


「ありがとう」


 支援役も、待つ力を覚えている。


 次は沢だった。


 水量は少ない。


 だが、石が濡れている。


 ポルカの目が真剣になる。


「ここです。沢沿いは滑ります。最後の手段にしたい理由がここです」


「見れば分かるな」


 アレンが言う。


「はい。非常に滑りそうです」


 グレイン先生は全員を止めた。


「ここでは、一人ずつ渡る。焦るな。水は浅いが、足を濡らすと午後の動きに影響する」


 予備靴下の重要性が証明された。


 私は心の中で強く頷いた。


 ポルカも同じように頷いている。


「予備靴下……重要……」


 彼は呟いた。


「はい」


 私も答えた。


「予備靴下は重要です」


 アレンが少し笑った。


「遠征の合言葉みたいになってるな」


「悪くありません」


 沢を渡る時、エミリオが別班の小柄な生徒に手を貸していた。


 搬送補助で覚えた体の使い方が、ここでも役立っている。


 彼は大きな体を威圧ではなく支えに使っていた。


 ティナがそれを見て嬉しそうにした。


「エミリオ、頼もしいね」


「はい」


「前衛じゃなくても、ああやって前に出られるんだね」


「その通りです」


 沢を抜けると、開けた休憩地に出た。


 ここで一度休憩。


 グレイン先生の指示で、各班は水分補給と簡単な体調確認を行う。


「第一班、体調確認」


 私は言った。


「問題なし」


 クロード。


「少し緊張、でも大丈夫」


 ティナ。


「平気」


 ミナ。


「足元注意継続」


 ポルカ。


「問題ない」


 アレン。


 私は自分の状態も言う。


「やや緊張あり。理由は、この後慰霊標があるためです。支援として、重い顔が長くなったら指摘してください」


 全員が私を見た。


 言った。


 自分で報告した。


 少し恥ずかしい。


 だが、必要だった。


 アレンが最初に言った。


「了解。たぶんすぐ言う」


「加減してください」


「努力する」


 ティナは柔らかく笑った。


「言ってくれてありがとう」


 ミナも短く言った。


「分かった」


 それだけで、少し胸が軽くなった。


 怖い+理由。


 欲しい支援。


 使えた。


 完全ではないが、使えた。


 休憩中、ティナが士気維持物資の袋を開けた。


「一人一つずつ。飴か薄焼き、好きな方」


 ポルカは薄焼きを選び、アレンは飴を選びかけて、少し迷って薄焼きにした。


「なぜ迷ったのですか」


 私が聞くと、アレンは嫌そうな顔をした。


「喉が渇くから」


「学習しています」


「言うと思った」


 ミナは干し果物ではなく、ティナの用意した飴を選んだ。


 自分の干し林檎ではなく、共有物資。


 それも、少し意味があるように思えた。


 休憩後、北側へ進む。


 地図の「静」印。


 慰霊標の場所が近づいている。


 木々が少し開け、空が広く見える。


 道の先に、低い石の標が見えた。


 大きくはない。


 苔むした台座。


 その上に、磨かれた石板。


 いくつかの名前が刻まれている。


 セフィナ先生が前に出た。


「ここが管理林の慰霊標です」


 全員の声が自然と落ちた。


 ただし、昨日説明した通り、過剰に重くしすぎない。


 最初に静かにする。


 そこが何の場所か確認する。


 その後は普通に戻る。


 私は班へ小声で言った。


「静印。最初に確認します」


 皆が頷く。


 ミナは、石板を見ていた。


 顔は静か。


 ただし、指が少しだけ外套の端を握っている。


 私は見た。


 見すぎない。


 でも、忘れない。


 セフィナ先生が説明する。


「これは、二十年以上前にこの林の周辺で起きた獣害と土砂崩れの被害者を悼む慰霊標です。魔族との戦争ではありません。けれど、ここにも名前があります」


 先生は石板に刻まれた文字へ視線を向けた。


「名前が残っている人もいます。名前が分からず、『旅人一名』とだけ残っている人もいます」


 旅人一名。


 名前のない記録。


 石板にも、それがある。


 教室で見た紙とは違う。


 石に刻まれている。


 私はその文字を見つめた。


 名前がないことは、存在しなかったことではない。


 だが、ここでも名前は失われている。


 セフィナ先生は続けた。


「今から少しだけ、黙って読んでください。その後、班ごとに気づいたことを一つだけ共有します。重くしすぎる必要はありません。けれど、ふざける場所ではありません」


 全員が黙った。


 石板を読む。


 名前。


 年齢。


 一部は不明。


 村人。


 林番。


 旅人一名。


 私は声を出さずに、その名を追った。


 知らない人たち。


 魔族とは関係ない死者。


 人間の土地で、人間が悼む名前。


 それでも、胸が重くなる。


 ミナは「旅人一名」のところを見ていた。


 ティナは、その横で静かに立っている。


 アレンは石板全体を見た後、周囲の地形も見ていた。


 クロードは姿勢を正している。


 ポルカは手帳を閉じていた。


 今は書かない。


 そう判断したらしい。


 良い。


 静かな時間が終わる。


 セフィナ先生が小さく頷いた。


「では、班ごとに一つだけ」


 第一班では、少し沈黙があった。


 誰が言うか。


 私はすぐに言いそうになった。


 だが、待つ。


 誰が一番見えているか。


 ミナかもしれない。


 だが、無理に言わせるべきではない。


 ティナが小さく聞いた。


「誰が言う?」


 ミナが口を開いた。


「私」


 私たちは頷いた。


 ミナは石板を見たまま、静かに言った。


「名前がある人と、ない人がいる。でも、同じ石に刻まれてる」


 短い。


 だが、十分だった。


 私は頷いた。


「はい」


 ティナも言う。


「うん」


 ポルカが小さく言った。


「同じ場所に、いるんですね」


 ミナは頷いた。


「うん」


 それ以上は言わなかった。


 それでよかった。


 セフィナ先生が各班の発言を聞いていく。


 ある班は、年齢が刻まれていることに触れた。


 ある班は、林番の名前があることに触れた。


 ある班は、旅人一名という記載に触れた。


 グレイン先生は静かに聞いていた。


 最後にセフィナ先生が言った。


「ありがとうございます。では、ここでの確認は終わりです。ここからは通常の訓練に戻ります。声を戻して大丈夫です」


 声を戻して大丈夫。


 その一言が、場を少し動かした。


 生徒たちは、すぐに騒ぎ出しはしない。


 だが、息を吐き、少しずつ普通の声へ戻る。


 ティナがミナに聞いた。


「大丈夫?」


「うん」


「普通に戻る?」


「うん」


 ミナはそう言って、飴の包みを開けた。


 ティナが少し笑った。


「今?」


「今」


「いいと思う」


 ミナは飴を口に入れた。


 普通に戻る。


 私は重い顔が長くなっていないか、自分で確認した。


 すると、アレンが横から言った。


「今は大丈夫」


「まだ何も聞いていません」


「聞きそうだった」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 慰霊標を離れる。


 歩き出す。


 林の空気が少し変わったように感じた。


 いや、変わったのは私の問いかもしれない。


 名前がある人。


 名前がない人。


 同じ石に刻まれている。


 ミナの言葉が残っていた。


 その後、訓練は模擬課題地点へ移った。


 ここからは通常の班行動訓練。


 上級生による模擬敵。


 罠札。


 負傷者役。


 旗。


 戻り道。


 これまでの学びを使う場面だ。


 グレイン先生が言う。


「ここからは班ごとに課題を行う。第一班、準備」


「はい」


 私は班を見る。


 ティナ。


 アレン。


 クロード。


 ミナ。


 ポルカ。


 全員、状態は悪くない。


 慰霊標の後だが、沈みすぎていない。


 普通に戻れている。


「体調確認」


 私は言った。


「問題なし」


 クロード。


「大丈夫」


 ティナ。


「平気」


 ミナ。


「緊張あり。でも動ける」


 ポルカ。


「緊張あり。理由は課題内容不明。支援として、開始前に戻り道確認をしたいです」


「採用」


 アレン。


「問題なし。観察記録準備あり」


 私は頷く。


「戻り道確認をしてから開始します」


 ポルカが地図を見る。


「一番安全は来た道を戻る。速い道は南東の細道。最後の手段は沢沿い。ただし、沢沿いは本当に使いたくありません」


「了解」


 私は皆を見る。


「では、始めます」


 遠征訓練の本番が始まる。


 慰霊標で学んだ静けさは、もう背後にある。


 だが、消えたわけではない。


 名前を見たこと。


 ミナが言ったこと。


 普通に戻ったこと。


 それらを持ったまま、私たちは訓練へ進む。


 静けさの後に、動く。


 それもまた、生きている者の役割なのだと思った。

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