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第60話 遠征訓練の振り返り

 遠征訓練の翌朝、教室はいつもより静かだった。


 理由は簡単である。


 全員、疲れている。


 昨日は管理林を歩き、慰霊標で名前を読み、模擬課題をこなし、倒木を避け、帰路で持ち物確認までした。


 普段の演習場訓練とは、使う体力の種類が違ったのだろう。


 足に疲労が残っている者。


 肩が重そうな者。


 眠そうな者。


 遠征が終わった安心で、逆に気が抜けている者。


 私は教室に入り、まず掲示板を見た。


 遠征訓練準備表。


 持ち物一覧。


 迷った時の確認表。


 静印の説明。


 戻り道候補。


 それらは、昨日までの役割を終えて、少しだけ古くなって見えた。


 だが、無意味になったわけではない。


 昨日使ったからこそ、次に直せる。


 私は新しい紙を一枚、掲示板の下に貼った。


 ――遠征訓練 振り返り。


 その下に、三つの項目。


 一、うまくいったこと。


 二、困ったこと。


 三、次はこうすること。


 次はこうしよう会の遠征版である。


「また始まったな」


 後ろからアレンが言った。


「必要です」


「分かってる」


 彼は欠伸を噛み殺しながら席に着いた。


 顔色は悪くない。


 だが、少し眠そうだ。


「睡眠は?」


「足りない」


「なぜですか」


「記録をまとめてた」


「長文は禁止です」


「お前に言われたくない」


 もっともである。


 私は反論を控えた。


 アレンは鞄から小板を取り出した。


 昨日の観察記録が短く並んでいる。


 字は少し乱れているが、読める。


 見えた違和感。


 危険。


 判断理由。


 断定と推測。


 見えないもの。


 項目ごとに整理されていた。


「良い記録です」


「評価するな」


「感謝です」


「ならいい」


 彼は少しだけ視線を逸らした。


 ティナが教室に入ってきた。


 昨日より少しゆっくり歩いている。


「足が重い……」


「疲労申告、受理しました」


「受理された」


「今日は無理に動かない方がよいです」


「うん。あと、空袋の件、ちゃんと書いたよ」


 ティナは小さな紙を見せた。


 ――士気維持物資は、中身だけでなく袋の数も確認する。


 しっかり次に変えている。


「良い振り返りです」


「ありがとう。昨日は焦ったけど、見つかってよかった」


「はい。発見できたことが重要です」


 ミナも静かに入ってきた。


 顔色は悪くない。


 ただ、昨日の慰霊標の影響が完全に消えたわけではないだろう。


 彼女は掲示を見て、小さく頷いた。


「振り返り」


「はい」


「名前のことも話す?」


 私は少し考えた。


「全体では、慰霊標での静印の扱いについて話します。個別の感情や名前については、本人が話したい場合だけでよいと思います」


「うん」


 ミナはそれだけ言って席に着いた。


 ティナがその隣へ座る。


 いつもの位置。


 けれど、昨日の後だと少し違って見える。


 隣にいること。


 それ自体が支援になる場合がある。


 クロードは早めに来て、持ち物確認表の修正版を作っていた。


 さすがである。


「ディア」


「はい」


「士気維持物資の袋数、共有予備靴下、記録用小板の返却確認を追加した」


「ありがとうございます」


「あと、帰路確認の欄を増やした。出発前だけでなく、帰路入口と学校到着前に確認すべきだ」


「非常に有効です」


「昨日の空袋の件で分かった」


 クロードは淡々と言った。


 だが、目は真剣だった。


 失敗を責めるのではなく、仕組みに変える。


 それができている。


 ポルカは、手帳を胸に抱えて登校してきた。


 眠そうなのに、目だけは妙に輝いている。


「ルシェラさん!」


「はい」


「昨日の倒木判断について、戻り道表を改訂しました!」


 早い。


 非常に早い。


 彼は紙を広げた。


 ――戻り道候補は、使えるかどうかをその場で再確認する。

 ――一番速い道は、詰まると一番遅い道になる。

 ――待機場所も戻り道の一部として考える。


 私は目を見開いた。


「これは、とても重要です」


「本当ですか!」


「はい。特に、待機場所も戻り道の一部という点」


 昨日、右道が詰まった時、ポルカはすぐに進まず、手前の広い場所で待つ判断をした。


 あれは、ただ道を選んだのではない。


 待つ場所を選んだ。


 戻り道とは、線だけではなく、途中で息を整える場所も含む。


 非常に良い発見だ。


 ポルカは嬉しそうに手帳を抱きしめた。


「戻り道の概念が広がりました……!」


「広がりすぎて迷わないようにしてください」


「はい!」


 朝の鐘が鳴り、グレイン先生が教室に入ってきた。


 先生は掲示板を見て、少しだけ口元を動かした。


「もう貼ってあるか」


「はい」


「なら、そのまま使う。今日は遠征訓練の振り返りだ」


 先生は教壇に立ち、全員を見渡した。


「昨日の訓練は、大きな怪我なく終わった。だが、成功だけで終わらせるな。疲れている時ほど、何ができ、何ができなかったかが見える」


 教室の空気が少し引き締まる。


「学級委員、進めろ」


「はい」


 私は前に立った。


 遠征翌日の教室。


 疲労。


 記録。


 少しの達成感。


 少しの反省。


 それらが混ざった空気。


「では、遠征訓練の振り返りを始めます」


 私は黒板に三つの項目を書いた。


 一、うまくいったこと。


 二、困ったこと。


 三、次はこうすること。


「最初に、うまくいったことから確認します」


 前回と同じ。


 成功から入る。


 失敗だけを見ない。


 最初に手を挙げたのは、セシルだった。


「地図の印が役に立ちました。特に『静』印があったので、慰霊標や観察地点でどうすればいいか分かりやすかったです」


「はい」


 私は黒板に書く。


 ――地図印が有効。特に「静」。


 セシルは少し緊張しながら続けた。


「でも、『静』印の理由をもっと小さく書いておくと、さらに分かりやすいと思いました。慰霊なのか、観察なのか、待機なのか」


「次はこうすることに入れましょう」


 ――「静」印には理由を添える。


 良い改善である。


 次にポルカが手を挙げた。


「戻り道を三つに絞ったのは有効でした。でも、帰り道の倒木で、一番速い道が詰まったので、道だけでなく待機場所も決める必要があります」


 黒板に書く。


 ――戻り道+待機場所。


「一番速い道は、詰まると一番遅い道になります」


 教室が少し笑った。


 しかし、皆頷いている。


 これは昨日、実際に起きたことだ。


 次にティナ。


「士気維持物資は役に立ちました。でも、空袋を落としました。次は、中身の数だけじゃなくて、袋の数も確認します」


 彼女は少し照れくさそうに言った。


 私は黒板に書く。


 ――士気維持物資:中身と袋数を確認。


 グレイン先生が頷く。


「良い。小さな失敗だが、帰路確認の意味を全員に教えた」


 ティナはほっとしたように笑った。


 次にエミリオが手を挙げた。


「搬送補助の練習が、沢や石段で役に立ちました。怪我人じゃなくても、足場が悪い時に支えられました」


 ティナが嬉しそうに頷く。


 黒板に書く。


 ――搬送補助は、負傷時以外にも有効。


 次にラウル。


「伝達は、短く言うのが大事でした。倒木の時、後ろの班に伝える時も、長く言うと遅れそうだったので」


「どのように言いましたか」


「第一班、右道待機。後続、詰めすぎ注意。みたいな」


「良いです」


 ――伝達:結論+注意点を短く。


 次にベルトが手を挙げた。


「旗を取りに行く前に、足元と退路を見る必要があると分かりました。昨日、別班で旗手前の罠札を踏まずに済んだのは、半歩下がって後衛に確認してもらったからです」


 以前の彼なら、これを自分から言えただろうか。


 私は黒板に書く。


 ――前衛:足元・退路・後衛確認後に前へ。


 クロードが少しだけ満足そうにしている。


 ミナが手を挙げた。


 教室が静かになる。


 だが、昨日のように過剰には重くならない。


 皆、少しずつ学んでいる。


「慰霊標で、最初だけ静かにして、その後普通に戻れたのがよかった」


 黒板に書く。


 ――必要な静けさの後、普通に戻る。


 ミナは続けた。


「ずっと黙られたら、たぶん苦しかった。でも、騒がれたら嫌だった。昨日は、どちらでもなかった」


 その言葉は、教室に静かに落ちた。


 セシルが少し泣きそうな顔で頷いている。


 ティナはミナの隣で、ただ静かに座っていた。


 私は頷く。


「重要な振り返りです」


 次に、アレンが面倒そうに手を挙げた。


「観察記録は、全部書かない方がいい」


 教室が少し笑う。


「理由は?」


 私が聞くと、アレンは小板を軽く上げた。


「全部書こうとすると、見るのが遅れる。だから、違和感、危険、判断理由、見えないものだけでいい。あと、疲れると字が汚くなる」


「最後も重要ですか」


「読めない記録はないのと同じだろ」


「その通りです」


 黒板に書く。


 ――記録:短く、読める字で。全部書かない。


 グレイン先生がこちらを見た。


 いや、見た。


 完全に見た。


「学級委員も聞いたな」


「はい」


 教室が笑った。


 私は少しだけ不満だったが、受け入れる。


 次に、困ったこと。


 ここからは空気が少し重くなる。


 だが、前よりは発言しやすそうだ。


 最初に手を挙げたのは、ポルカだった。


「帰り道で、倒木が出た時、最初に少し固まりました。理由は、行きにはなかったものが帰りにあると、地図を信用していいのか分からなくなったからです」


 私は黒板に書く。


 ――地図と現地が違う時に固まる。


「次はどうしますか」


「地図は地図、現地は現地、と言います。地図と違うものを見つけたら、それを新しい情報として扱います」


 良い。


 ――地図と違う=新情報として報告。


 次にティナ。


「支援役として、行きの石段で別班の子が足を滑らせた時、すぐ行きそうになりました。でも、近くの支援役がいたので待ちました。待つのが難しかったです」


 ――支援役:自分が行くか、近くの支援役に任せるか迷う。


「次は?」


「誰が一番近いかを見る。近くの人が動けているなら、見守る。動けていないなら行く」


 ――支援判断:近い支援役が動けるか確認。


 ミナが言う。


「慰霊標の後、訓練へ戻る時、少し変な感じがした」


「変な感じ」


「名前を見た後に旗を取りに行くのが、少し変だった。でも、動いてよかった」


 私は少し胸が詰まった。


「次は?」


 ミナは少し考えた。


「静けさの後、何をするかを短く言うといい。昨日、ルシェラが『今は動きます』って言ったから、切り替えやすかった」


 黒板に書く。


 ――静けさの後、次の行動を短く共有。


 これは私にとっても重要だった。


 悼む時間。


 動く時間。


 切り替えの言葉。


 次にクロード。


「帰路で、前班が詰まった時、後続との間隔をもっと早く確認すべきだった。自班だけでなく、後ろの班との距離も重要だ」


 ――帰路:前後班との距離確認。


 ラウルがすぐに言った。


「伝達役、そこ見ます!」


「頼む」


 クロードが素直に答える。


 以前よりずっと自然なやり取りだ。


 次にセシル。


「地図に印をつける時、危険印が多くなりすぎると、どれが本当に危ないか分かりにくくなりました」


 ポルカがはっとする。


「それは戻り道にもあります……!」


 私は書く。


 ――印が多すぎると迷う。


「次は?」


 セシルは答えた。


「危険度を分けます。すぐ止まる危険と、注意して進む危険」


 ――危険印を二段階にする。


 良い。


 最後に、私も発言することにした。


「私自身の困ったことです」


 教室がこちらを見る。


「全体を見ようとしすぎました。グレイン先生に、自班を優先するよう注意されました」


 グレイン先生は何も言わない。


 アレンは少し笑っている。


「次は?」


 ティナが聞いた。


 私は答える。


「教師が見る範囲と、学級委員が見る範囲を分けます。遠征中は、まず自班。その上で、必要な情報だけ全体へ共有する」


 黒板に書く。


 ――学級委員:まず自班。全体は教師と分担。


 アレンが小声で言う。


「書いたな」


「はい」


「守れよ」


「努力します」


「そこは断言しろ」


「……守ります」


 教室に少し笑いが起きた。


 振り返りは、思ったより多くの内容になった。


 うまくいったこと。


 困ったこと。


 次はこうすること。


 黒板が文字で埋まる。


 だが、これは昨日の遠征がただの行事で終わらなかった証拠だ。


 皆が何かを見て、困って、次に変えようとしている。


 グレイン先生が前に出た。


「よく出た」


 先生は黒板を見た。


「昨日の遠征で一番良かったのは、全員が無事に戻ったことだ。次に良かったのは、戻った後にこれだけ言葉にできたことだ」


 生徒たちが静かに聞く。


「経験は、放っておくとただの疲労になる。言葉にすれば、次の準備になる」


 私はその言葉を記録した。


 経験は、放っておくとただの疲労になる。


 言葉にすれば、次の準備になる。


 非常に重要。


「ただし、書きすぎるな」


 先生が私を見た。


 また見た。


「必要な形にまとめろ。学級委員と副委員は、今日の内容を一枚に整理して掲示すること」


「はい」


「一枚だ」


 強調された。


「はい」


 長文は禁止である。


 授業後、第一班とセシル、ラウル、ベルト、エミリオも加わり、振り返りまとめを作ることになった。


 一枚。


 この制限は厳しい。


 だが、必要だ。


「全部入れると三枚になります」


 私が言うと、アレンが即座に言った。


「減らせ」


「どれも重要です」


「全部重要なら、誰も読まない」


 正しい。


 痛い。


 クロードが言う。


「分類しよう。持ち物、地図、行動、記録、静印。この五項目なら一枚に入る」


「良いです」


 ティナが言う。


「言葉は短くしよう。読んだ時、すぐ分かるように」


 ミナが言う。


「静印は、長くしない。『静かにして、戻る』でいい」


 セシルが言う。


「印の理由を小さく添えます」


 ポルカが言う。


「戻り道は、道だけじゃなく待機場所も!」


 ラウルが言う。


「伝達は結論から」


 ベルトが言う。


「前衛は足元と退路を見る」


 エミリオが言う。


「搬送補助は、足場が悪い時にも使う」


 アレンが最後に言う。


「記録は短く、読める字」


 全員がこちらを見る。


「私が長く書く前提ですね」


「うん」


 ティナが素直に頷いた。


 私は少しだけ肩を落とした。


 しかし、皆の意見は正しい。


 最終的に、一枚の掲示はこうなった。


 ――遠征訓練 次はこうすること。


 一、持ち物は帰路前にも確認。中身だけでなく袋数も見る。

 二、戻り道は「安全・速い・最後」に加え、待機場所も決める。

 三、地図と現地が違ったら、新情報として報告する。

 四、静印では静かに確認し、その後は普通に戻る。理由も添える。

 五、支援役は、誰が一番近くで動けるかを見る。

 六、前衛は、足元・退路・後衛確認後に前へ出る。

 七、伝達は結論から短く。

 八、記録は短く、読める字で。断定と推測を分ける。


 一枚に収まった。


 奇跡である。


 いや、全員で削った結果だ。


 私一人なら、三枚になっていた可能性が高い。


「良い掲示です」


 私が言うと、アレンが言った。


「今回は本当に一枚だな」


「はい」


「成長したな」


「あなたに言われると複雑です」


「褒めてる」


「では、ありがとうございます」


 ティナが笑う。


「二人とも、褒めるの下手だよね」


「私は適切に感謝しました」


「そういうところ」


 よく分からない。


 夕方、掲示板に新しい一枚を貼った。


 遠征訓練の成果が、短い言葉になって並ぶ。


 昨日の疲労が、次の準備になった。


 そう思うと、少し嬉しかった。


 夜。


 私は個人記録を書いた。


 ――遠征訓練振り返り実施。成功から入り、困ったこと、次はこうすることへ整理。

 ――セシル「静印には理由を添える」。ポルカ「戻り道には待機場所も含める」。ティナ「物資袋数も確認」。ミナ「静けさの後、次の行動を短く共有」。アレン「記録は短く、読める字」。

 ――グレイン先生「経験は、放っておくとただの疲労になる。言葉にすれば、次の準備になる」と講評。重要。

 ――掲示は一枚に整理。長文禁止を達成。全員の協力により可能。

 ――私自身の課題。全体を見すぎる。まず自班。教師と分担。


 最後に一行。


 ――遠征は帰って終わりではない。言葉にして、次の誰かが困らない形にして、ようやく一つ終わる。


 私は羽ペンを置いた。


 管理林遠征は、本当に終わった。


 慰霊標で名前を見たこと。


 旗を捨てたこと。


 倒木を避けたこと。


 空袋を回収したこと。


 全部が、短い掲示になった。


 短い。


 けれど、そこには昨日の疲労と判断が詰まっている。


 記録は完全ではない。


 でも、何もないよりはまし。


 私は胸元のお守りに触れた。


 父上。


 遠征訓練の振り返りが終わりました。


 私は一枚にまとめることを覚えました。


 少しだけですが。


 人は、経験しただけでは変わらないのかもしれません。


 経験を言葉にして、次の行動に変えることで、ようやく少し変わる。


 このクラスは、少しずつそれを覚えています。


 そして私も、少しずつ。


 敵を調べるだけではなく。


 同級生たちと、次にどうするかを考えるようになっています。

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