第36話 名前を持つ同級生
学級委員になった翌日、私は正式な仕事を始めた。
提出物の確認。
掃除当番の調整。
次回班訓練の希望調査。
寮への連絡事項。
教師からの伝達。
人間界の学校における学級委員とは、想像以上に細かい雑務を処理する役職だった。
魔王城で言えば、下級書記官と小隊補佐官と儀礼係を少しずつ混ぜたような立場である。
しかも、権限はあまりない。
責任はある。
権限は少ない。
非常に人間社会らしい制度だ。
「ルシェラ、また難しい顔してる」
ティナが提出物の束を持ってきながら言った。
「学級委員の権限と責任の均衡について考えていました」
「うん、たぶん考えなくていいやつだね」
「重要です」
「でも、まずこれ。女子寮の提出分」
「ありがとうございます」
私は木板に印をつける。
ティナ・マール。
提出済み。
ミナ・オルステッド。
提出済み。
ポルカ・リント。
提出済み。
クロード・レインハルト。
提出済み。
アレン・フォルク。
未提出。
私は後ろの席を見た。
アレンは頬杖をつき、窓の外を見ている。
「アレン」
「何だよ」
「提出物が未提出です」
「今やろうと思ってた」
「その言葉は、未提出者がよく使う定型句です」
「学級委員っぽくなったな」
「提出してください」
「はいはい」
「返事は一回で結構です」
「クロードみたいなこと言うな」
アレンは机の中から紙を出した。
少し折れているが、内容は書かれている。
私は受け取って確認した。
班訓練希望調査。
希望役割の欄に、こう書かれていた。
――観察、伝達、撤退判断補助。
私は一瞬、手を止めた。
以前の彼なら、空欄にするか、「特になし」と書いたかもしれない。
だが、今は自分の役割を書いている。
「何だよ」
アレンが言った。
「いえ」
「変なこと書いてたか?」
「いいえ。良い内容です」
「……なら、いちいち見つめるな」
「成長を確認していました」
「だから逃げ場がなくなるって言ってるだろ」
アレンは顔を背けた。
だが、提出物は取り返さなかった。
私は印をつける。
アレン・フォルク。
提出済み。
全員分が揃った。
小さなことだ。
だが、なぜか嬉しかった。
午前の授業後、クロードが当番表を持ってきた。
「ディア、掃除当番の交代希望を整理した」
「ありがとうございます」
「平民生徒だけに食堂当番が偏っていた。貴族生徒側にも振り直してある」
私は顔を上げた。
「クロードが?」
「当然だ。責任ある立場の者は、面倒な仕事から逃げるべきではない」
以前の彼なら、そう言っただろうか。
私は木板を確認する。
確かに、当番は均等になっている。
しかも剣術訓練の負荷や寮の位置まで考慮されていた。
「良い調整です」
「そうか」
「はい」
「……なら、よかった」
クロードは少しだけ満足そうに頷いた。
その時、ポルカが走ってきた。
いや、走るというより、小動物のように素早く近づいてきた。
「ルシェラさん! 掲示板に次回訓練の班別集合場所が出ていました! 第一班は演習林南口です! あと、南口は最近ぬかるんでいるので転倒リスクがあります!」
「有用な情報です」
「ありがとうございます!」
ポルカは嬉しそうに手帳を開いた。
「ついでに、南口から保健室までの最短経路も確認しました」
「なぜ保健室まで」
「転倒リスクがあるので!」
「合理的です」
ティナが横から笑った。
「ポルカ、本当に頼りになるようになったよね」
「頼りに……!」
ポルカは胸を押さえた。
「今の言葉、記録していいですか」
「いいよ」
「やった……!」
ポルカは手帳に書き込んだ。
頼りになる。
その言葉が、彼にとってどれほど大きいか。
私は少し分かるようになっていた。
昼休み。
第一班はいつものように中庭へ集まった。
ティナの弁当。
ミナの干し林檎。
購買の焼き菓子。
アレンの硬いパン。
私はアレンの皿に野菜を置く。
「またか」
「栄養配分です」
「学級委員の権限に食事管理は含まれるのか?」
「班の生存率に関わるため、広義には含まれます」
「絶対含まれない」
アレンは文句を言いながら食べた。
よし。
ティナがにこにこする。
「ルシェラ、すっかり世話焼きだね」
「私は世話焼きではなく、戦力維持を」
「そういうところ」
ミナが短く言った。
その声は、昨日より少し柔らかい。
黒角隊の話を聞いた後も、彼女はここにいる。
魔族への嫌悪が消えたわけではない。
家族の死が軽くなったわけでもない。
けれど、彼女は今日も私の隣で干し林檎を分けてくれた。
私は一切れ受け取る。
「ありがとうございます」
「うん」
短い返事。
でも、今はそれで十分だった。
昼食の途中、ティナがふと聞いた。
「ねえ、ルシェラ。学級委員になって、どう?」
「業務が多いです」
「感想が事務!」
「情報が集まりやすくなりました。教師との接触も増え、クラス内の不満や希望を早期に把握できます」
「だから感想が事務!」
アレンがパンをかじりながら言う。
「楽しいかって聞いてるんだろ」
「楽しい」
私はその言葉を口の中で確認した。
提出物を集めること。
当番表を調整すること。
アレンに野菜を渡すこと。
ポルカから掲示板情報を聞くこと。
クロードと役割を分けること。
ミナの隣で干し林檎を食べること。
ティナに笑われること。
それらは、楽しいのだろうか。
楽しい、だけではない。
面倒。
危険。
難しい。
怖い。
けれど。
「悪くありません」
私が言うと、アレンがすぐに言った。
「クロード化してるぞ」
「では」
私は言い直す。
「少し、楽しいです」
ティナの顔がぱっと明るくなった。
「そっか!」
ミナも小さく頷く。
ポルカが感動したように言う。
「学級委員が楽しい……すごい境地です……」
クロードは真面目に言った。
「仕事は楽しいかどうかではなく、必要かどうかだ」
「クロード」
ティナが指を立てる。
「そこは、楽しいこともある、でいいんだよ」
「……そうか」
クロードは少し考えた後、言った。
「楽しいことも、ある」
「よし!」
ティナは満足そうだった。
午後の授業は、次回班訓練の準備だった。
グレイン先生は各班の希望役割を確認し、私とクロードにも補助を求めた。
以前なら、私は全員分の得意不得意を自分で整理しようとしただろう。
今は違う。
「クロード、貴族生徒側の剣術希望を確認してください。ポルカ、掲示板に出ていた集合場所の注意点をまとめてください。ティナ、回復役希望者に負担が偏っていないか見てください。アレン、訓練で見落としそうな危険箇所があれば教えてください。ミナ、射線が取りにくい場所を確認してください」
言ってから気づいた。
自然に任せていた。
全員が動く。
誰も驚かない。
アレンだけが少し笑った。
「何ですか」
「いや。委員長っぽい」
「目立ちますか」
「目立つ。でも、今さらだろ」
「……改善は」
「しなくていいんじゃないか、そこは」
しなくていい。
目立つことを改善しなくていい。
まだ受け入れがたい言葉だ。
だが、少しだけ分かるようになっていた。
目立つことがすべて悪いわけではない。
誰かが見つけやすい場所に立つことで、集まる情報がある。
届く声がある。
助けられる人がいる。
それは、危険と隣り合わせだ。
けれど、役割でもある。
放課後。
私は教室に一人残り、学級委員用の記録を整理していた。
提出物。
当番。
班訓練希望。
相談事項。
それとは別に、魔王城への報告下書きもあった。
私は別紙を取り出す。
父上とノノへ送る次の報告。
書き出しは決めていた。
――勇者学校一年二組において、正式に学級委員へ選出されました。
その後に続ける言葉。
敵教育機関の中枢への接近に成功。
情報収集上有利。
偽装維持には注意。
それは書ける。
だが、それだけでは足りない。
私は羽ペンを止める。
窓の外では、夕方の光が校庭を染めていた。
この景色を初めて見た日、私は勇者学校の門を「思ったより明るい」と思った。
入学式で、敵を正しく理解し、と言いかけた。
ティナに友達になろうと言われ、友好条約だと答えた。
アレンを観察対象と呼んだ。
クロードを貴族階級の標本と見た。
ミナを対魔族感情の強い警戒対象と記録した。
ポルカを情報収集能力の高い臆病個体と分類した。
グレイン先生を敵教育機関の指揮官と見た。
間違っていたわけではない。
だが、今は足りない。
ティナは、友人だ。
アレンは、私の嘘を見抜く危険な相手で、同時に誰より必要なことを見る人だ。
クロードは、責任を背負おうとする不器用な副委員だ。
ミナは、魔族を嫌いながらも、知らないまま憎むことを選ばなかった人だ。
ポルカは、怖がりながら前に出られる人だ。
グレイン先生は、怖いが、生徒を生き残らせようとする教師だ。
分類は消えない。
でも、分類だけでは足りない。
私は報告書に書いた。
――一年二組の生徒たちは、当初「敵候補」として観察していました。しかし現在、個々の名前、役割、傷、強みを持つ存在として認識を改めつつあります。
書いてから、手が止まった。
これは報告書として危険かもしれない。
だが、事実だ。
父上は、見る前に決めつけるなと言った。
ならば、見た結果を書かなければならない。
私は続ける。
――人間は、個体としての戦力だけではなく、名前を呼び合い、役割を渡し合い、分からないことを共有することで強くなります。この強さは、単純な敵戦力評価では測れません。
そこまで書いた時、扉が開いた。
アレンだった。
「まだ残ってたのか」
「はい」
「報告書?」
私は一瞬止まった。
だが、ノノの助言を思い出す。
嘘を重ねるより、言える範囲で答える。
「記録です」
「誰への?」
「今は言えません」
「便利な言葉だな」
「はい」
「でも、前よりましだ」
アレンは教室に入り、私の少し前の席に座った。
「何を書いてたんだ」
「一年二組についてです」
「敵組織の中枢に接近成功って?」
私は彼を見た。
以前なら、動揺していた。
今は、少しだけ違った。
「最初は、そう書いたかもしれません」
「今は?」
私は窓の外を見る。
「名前を持つ同級生たちのいるクラス、と書きます」
アレンは少し黙った。
そして、小さく笑った。
「変わったな」
「はい」
「自覚あるんだ」
「あります」
「そっか」
アレンは机に肘をついた。
「いいんじゃないか」
「よいのでしょうか」
「何が」
「変わることです」
アレンは少し考えた。
「変わらない方が怖いだろ。これだけ色々あって、最初と同じだったら、その方が変だ」
それもそうだ。
私は小さく頷いた。
「アレン」
「何だ」
「あなたも変わりました」
「俺?」
「はい。最初は自分を落ちこぼれと呼んでいました。今は希望役割に観察、伝達、撤退判断補助と書いています」
「見るなよ」
「提出物ですので」
「委員長権限の悪用だ」
「正当業務です」
アレンは顔を背けた。
耳が赤い。
「……まあ、少しはな」
「少し?」
「前回比較だろ」
「はい」
「なら、少し成長したってことで」
私は頷いた。
「大きな成長です」
「そこは少しにしとけ」
教室に、静かな笑いが落ちた。
夕方の光が、アレンの横顔を染めている。
敵地にしては、やはり明るい。
私はそう思った。
だが、今はその明るさを否定したくなかった。
寮へ戻る前に、私は報告書の最後に一行加えた。
――私は、人間を敵としてだけ見ることが、少し難しくなっています。
その一文は、任務報告として危険だった。
けれど、最も正直な報告だった。
夜。
女子寮三号室で、ティナとミナが寝静まった後、私は個人記録を書いた。
――学級委員業務開始。提出物確認、当番表、班訓練希望調査を実施。
――アレン、希望役割に観察・伝達・撤退判断補助と記入。自己認識の変化。
――クロード、当番表の公平化を実施。副委員として機能。
――ポルカ、掲示板情報と南口危険箇所を報告。頼りになると言われ喜ぶ。
――ミナ、干し林檎を分ける。普通に接することの難しさを共有。
――ティナ、相変わらず場を明るくし、私の食事も確認。
――私は、クラスを観察対象ではなく、名前を持つ同級生たちとして見始めている。
最後に、ゆっくり書いた。
――敵という言葉だけでは、もう足りない。
私は羽ペンを置いた。
これで一巻の最初の到達点に来たのだと思う。
魔王の娘が勇者学校に入学し、敵情視察を命じられた。
そして今、私は敵の弱点だけでなく、名前を覚えてしまった。
名前を覚えると、世界は単純ではなくなる。
そのことが、少し怖い。
でも、悪くない。
窓の外には、人間界の夜が広がっている。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
人間の弱点を見てこいと言われました。
見ています。
でも、弱点だけではありません。
ティナ。
アレン。
クロード。
ミナ。
ポルカ。
グレイン先生。
セフィナ先生。
私は、彼らの名前を覚えました。
敵を知るということは、名前を知ることでもあるのですね。
そして、名前を知った相手をただの敵に戻すのは、とても難しいのだと知りました。




