第35話 学級委員選挙
勇者学校には、逃げられない行事がある。
試験。
実技訓練。
提出物。
寮の清掃当番。
そして、選挙である。
「今日は、学級委員を正式に決める」
朝の教室で、グレイン先生がそう告げた瞬間、一年二組の視線が一斉に私へ向いた。
なぜ見る。
私はまだ正式な学級委員ではない。
あくまで候補である。
候補というのは、可能性の段階であり、確定ではない。
魔王城で言えば、任命前の内示に近い。
つまり、まだ逃げ道はある。
「ルシェラ、顔が逃げ道探してる」
隣でティナが小声で言った。
「探していません」
「探してるよ。ポルカみたいな顔してる」
「それはかなり深刻ですね」
前方の席で、ポルカが振り返った。
「呼びました?」
「呼んでいません」
「逃げ道なら、教室後方の扉が最短ですが、先生が前にいるので心理的には詰んでいます」
「分析しないでください」
「すみません!」
ポルカはすぐ前を向いた。
グレイン先生は教壇に立ち、淡々と続ける。
「学級委員は、連絡、号令、提出物確認、教師との調整、行事時の班編成補助を行う。飾りではない。面倒な役だ」
面倒。
教師が明言した。
生徒たちの一部が小さくざわつく。
「だが、必要な役だ。自薦、他薦を受けつける」
教室が静まった。
私は視線を下げた。
目立たない。
ここで目立たない。
臨時班長を経験した。
学級委員候補とも呼ばれてきた。
不満の可視化、ペア決め、班行動、反省会、図書室調査。
すでに十分目立っている。
ここで正式な学級委員になれば、さらに情報収集には有利だが、偽装維持には危険である。
任務上の利点。
潜入上の危険。
クラス運営上の必要性。
個人的な負荷。
私は素早く整理した。
結論。
避けられるなら避けたい。
「ルシェラ・ディアさんを推薦します!」
ティナが手を挙げた。
早い。
非常に早い。
「ティナ」
「だって、ルシェラしかいないと思う」
「まだ検討の余地が」
「ないと思う」
即答。
ティナは笑っているが、目は本気だった。
私は周囲を見る。
クロードが静かに手を挙げた。
「僕もディアを推薦する」
「クロードまで」
「君は全体を見ている。言葉に問題はあるが、公平だ」
「言葉の問題は認識しています」
「ならよい」
よくはない。
ポルカも震えながら手を挙げた。
「僕も、ルシェラさんがいいです。生存率が上がります」
「学級運営を生存率で評価しないでください」
「でも大事です!」
ミナが短く言った。
「私も」
「ミナ」
「見てるから」
またその評価だった。
短い。
だが、重い。
私は最後にアレンを見た。
彼は頬杖をつき、面白そうにこちらを見ている。
反対してくれないだろうか。
目立つ危険を指摘してくれないだろうか。
しかし彼は、ゆっくり手を挙げた。
「俺もルシェラで」
「アレン」
「何だよ」
「あなたは、私が目立つことを危険視していたはずです」
「もう無理だろ」
「諦めが早すぎます」
「現実を見る目は大事だ」
アレンは肩をすくめた。
「それに、お前が委員じゃなかったら、委員に口出しして結局目立つ」
「……」
反論できない。
以前も同じことを言われた。
しかも、当たっている。
グレイン先生が教室を見渡す。
「他に推薦はあるか」
沈黙。
ない。
逃げ道が狭まっている。
「自薦は」
誰も手を挙げない。
いや、一人いた。
クロードが手を挙げた。
「副委員としてなら、僕が立候補します」
教室が少しざわついた。
私も驚いた。
「クロードが?」
ティナが目を丸くする。
クロードは堂々と答えた。
「ディア一人に任せると、抱え込みすぎる。事務、提出物、規則面は僕が補助できる」
私は言葉を失った。
抱え込みすぎる。
また言われた。
だが、今度はその指摘が、役割として返ってきた。
副委員。
補助。
任せる先。
クロードは、私の弱点を見て、支える役を引き受けようとしている。
アレンが小さく笑った。
「いいんじゃないか。責任好きだし」
「好きで責任を負っているわけではない」
「さっき自分から手挙げたぞ」
「必要だと思ったからだ」
「それを好きって言うんじゃないか」
クロードは少し不満そうにしたが、強く否定しなかった。
グレイン先生が頷く。
「では、委員長候補ルシェラ・ディア。副委員候補クロード・レインハルト。他に候補がなければ、信任投票とする」
信任投票。
正式な手続き。
私は立ち上がることになった。
教室の前に出る。
視線が集まる。
潜入任務上、非常に不適切な状況である。
しかし、逃げられない。
私は教壇の横に立った。
クロードも隣に立つ。
彼は姿勢がよい。
貴族らしい落ち着き。
対して私は、魔王の娘として堂々と立つ訓練を受けている。
だが、今はそれを出しすぎてはいけない。
平均より少し上の堂々さ。
難しい。
「一言ずつ話せ」
グレイン先生が言った。
一言。
重要だ。
長く話しすぎるとノノに怒られる。
報告書ではない。
演説でもない。
私は教室を見た。
ティナ。
アレン。
ミナ。
ポルカ。
クロード。
それ以外の同級生たち。
貴族生徒も、平民生徒も、まだ話したことの少ない者たちもいる。
私は全員の名前を、まだ完全には覚えきれていない。
だが、以前よりは覚えている。
「私は」
声を出す。
「最初、このクラスを観察対象として見ていました」
アレンがわずかに目を細めた。
危険な言い方だったか。
だが、続ける。
「貴族と平民、得意な者と苦手な者、前に出る者と後ろから見る者。それぞれが分かれていて、どう動くのかを見ていました」
教室は静かだった。
「ですが、今は少し違います」
私は黒板の前で、ゆっくり言葉を選ぶ。
「このクラスには、強い者だけでなく、怖がる者、支える者、違和感を見る者、黙って考える者、責任を負う者がいます。その全員に、役割があります」
ポルカが少し顔を上げる。
アレンが頬杖を外す。
ミナがこちらを見る。
「私は、全員を動かす者ではなく、全員が動けるようにする者になりたいと思います」
グレイン先生の言葉を借りた。
だが、今の私の言葉でもある。
「ただし、私は言葉選びに問題があり、時々抱え込みすぎます。その時は、止めてください」
ティナがにこっと笑った。
アレンが小さく「任せろ」と言った気がした。
「以上です」
私は頭を下げた。
短い。
たぶん短い。
ノノにも怒られないはずだ。
次にクロードが一歩前へ出る。
「僕は、ディアを補佐する」
彼は簡潔に言った。
「彼女は公平だが、突っ走ることがある。僕は規則と手続きの面から支える。身分に関係なく、必要なことは必要だと言う。それが副委員としての役割だと思う」
クロードは少し間を置いた。
「また、貴族生徒と平民生徒の間で不満があれば、僕にも言ってほしい。責任ある立場の者は、聞く義務がある」
教室が少しざわついた。
ティナが驚いたようにクロードを見ている。
平民生徒たちも顔を上げた。
クロードが、自分からそう言った。
責任ある立場の者は、聞く義務がある。
以前の彼なら、身分は秩序だとだけ言ったかもしれない。
今は違う。
「以上だ」
クロードも頭を下げた。
グレイン先生が腕を組む。
「では、信任を取る。二人を学級委員および副委員として認める者は挙手」
手が上がった。
まずティナ。
ミナ。
ポルカ。
アレン。
次に、貴族生徒たち。
平民生徒たち。
一人、また一人。
教室のほとんどの手が上がった。
私はその光景を見て、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
これは任務上有利な結果である。
敵教育機関の中枢への接近。
クラス内情報の集約。
教師との接触増加。
そう記録できる。
だが、それだけではない。
この手の数は、私一人への評価ではない。
この数週間、皆で積み重ねたものへの信任だ。
不満を書き出した日。
処刑と言って凍らせた日。
ペアを組んだ日。
アレンを鍛えた日。
ミナの話を聞いた日。
旗を取った日。
お茶会をした日。
黒角隊の記録を見つけた日。
その全部が、この手につながっている。
点が線になる。
だが、今度は結論を急がない。
これはまだ始まりだ。
「決まりだ」
グレイン先生が言った。
「学級委員、ルシェラ・ディア。副委員、クロード・レインハルト」
正式に決まった。
逃げ道は消えた。
ポルカが小さく拍手した。
ティナも続いた。
やがて教室全体に拍手が広がる。
私はどう反応すればよいか分からず、姿勢を正したまま立っていた。
ティナが笑いながら言う。
「ルシェラ、笑って!」
笑う。
尋問前ではなく。
普通に。
私は少しだけ口元を緩めた。
教室の拍手が、少し大きくなった。
授業後、私の席に人が集まった。
提出物の確認について。
掃除当番の交代について。
寮の連絡事項について。
貴族生徒と平民生徒の班分けについて。
いきなり仕事が増えた。
人間界では役職がつくと即座に業務が発生する。
魔王城と同じだ。
「ほら、抱え込むな」
アレンが横から言った。
「まだ抱え込んでいません」
「木板三枚出してる」
「必要情報です」
「クロードに渡せ」
クロードが隣で手を差し出す。
「提出物と当番表は僕が整理する。君は生徒からの相談を聞け」
「分かりました」
私は木板の一枚を渡した。
少しだけ手が軽くなった。
任せる。
まだ慣れない。
だが、できないわけではない。
ティナがにこにこしながら言う。
「いい感じだね、委員長と副委員」
「委員長」
私はその言葉を確認した。
「正式名称は学級委員です」
「でも、委員長っぽい」
「目立ちます」
「もう正式に目立つ役だから大丈夫!」
「大丈夫ではありません」
アレンが笑った。
「まだ言うか」
「改善は継続します」
「そこも継続するんだな」
昼休み、第一班で中庭に集まった。
ティナが「学級委員就任祝い」と言って、購買の焼き菓子を買ってきた。
私は驚いた。
「これは、私が返礼すべきでは」
「今日はいいの。お祝い」
「お祝い」
「うん。ルシェラとクロード、おめでとう」
ティナは焼き菓子を配る。
ミナが小さく言う。
「おめでとう」
ポルカも続く。
「委員長がルシェラさんなら、クラスの生存率はかなり高いです!」
クロードが少し困った顔をする。
「僕への祝辞はないのか」
「副委員長がクロードさんなら、書類の生存率が高いです!」
「書類は生きていない」
「でも失われると困ります!」
アレンが焼き菓子を受け取りながら言う。
「まあ、二人ならいいんじゃないか。片方が突っ走って、片方が止める」
「私が突っ走る前提ですか」
「前提だな」
「否定しづらい」
クロードが真面目に言う。
私は少し不満だったが、焼き菓子を食べた。
甘い。
お祝いの味。
魔王城で祝いと言えば、格式ある宴や褒賞、魔族式の誓杯などがある。
だが、人間の学校では、焼き菓子を分けるだけでも祝いになるらしい。
小さく、軽く、温かい。
「ルシェラ」
ミナが私を呼んだ。
「はい」
「委員長になっても、無理しないで」
「はい」
「あと、黒角隊のことも、一人でやらないで」
「はい」
「約束」
約束。
友人との取り決め。
条約ではない。
契約でもない。
だが、守るべきもの。
「約束します」
ミナは頷いた。
アレンが横から言う。
「証人は第一班全員な」
「大げさです」
「お前、約束でも監視がないと抱え込みそうだから」
「信用が低い」
「方向による」
ティナが笑った。
「じゃあ、みんなで見てようね」
「はい!」
ポルカが手を挙げる。
「ルシェラさんが抱え込みそうな時の避難警報を作ります!」
「それは不要です」
「いえ、必要かもしれない」
クロードが真面目に言った。
「クロードまで」
「冗談だ」
クロードは少しだけ口元を緩めた。
冗談。
今のは冗談だったのか。
クロードも冗談を言うようになった。
重要な変化である。
記録したい。
だが、今はお祝い中なので我慢した。
午後の授業後、グレイン先生に呼ばれた。
私とクロードは職員室前で並んで立つ。
先生は二人へ書類束を渡した。
「委員の仕事だ。今週は提出物確認、掃除当番の調整、次回班訓練の希望調査をやれ」
「はい」
クロードがすぐに受け取る。
私は希望調査の紙を見る。
班訓練。
また組み合わせが重要になる。
生徒の不満、得意不得意、成長、身分差。
考慮すべき要素が多い。
「ディア」
グレイン先生が言う。
「はい」
「全部うまくやろうとするな」
最初から釘を刺された。
「失敗してもいい。だが、失敗したら見直せ。委員は完璧な生徒がやる役ではない。失敗を見つけて直す役だ」
「はい」
「レインハルト」
「はい」
「規則だけで縛るな。規則は人を動かすためにあるが、人を潰すためではない」
「承知しました」
「二人で補え」
短い命令。
だが、的確だった。
二人で補う。
それが正式な役割になった。
職員室を出ると、クロードが書類を整理しながら言った。
「ディア」
「はい」
「先生の言う通り、僕は規則に寄りすぎることがある」
「自覚があるのですね」
「ある」
彼は少しだけ苦い顔をした。
「だから、君が気づいたら言ってくれ」
「分かりました」
「君が抱え込み始めたら、僕が止める」
「……分かりました」
相互補助。
明確な約束。
これは心強い。
「クロード」
「何だ」
「副委員に立候補してくれて、ありがとうございます」
クロードは少しだけ驚いた顔をした。
それから、視線を逸らす。
「必要だと思っただけだ」
「それでも、助かります」
「……そうか」
彼は小さく頷いた。
「なら、よかった」
夕方、寮に戻ると、ティナとミナが部屋で待っていた。
机の上には、またお茶が用意されている。
「就任祝い第二弾!」
ティナが言った。
「二回目のお祝いですか」
「うん。寮部屋版」
ミナも小さく頷く。
「委員長、お疲れ」
「ありがとうございます」
私は椅子に座った。
お茶を飲む。
温かい。
今日一日で、いろいろなことが決まった。
学級委員。
副委員。
クラスの信任。
クロードとの役割分担。
ミナとの約束。
ノノには報告すべきことが増えた。
また報告書が長くなる。
怒られるだろう。
だが、書くことが多いのは、どうでもいい場所ではないからだ。
ミナが以前言った言葉を思い出した。
どうでもいい場所なら、書くことも少ない。
この学校は、書くことが多すぎる。
夜。
私は記録を書いた。
――学級委員選挙実施。ルシェラ・ディア、正式に学級委員となる。クロード・レインハルト、副委員に立候補し信任。
――演説にて「全員を動かす者ではなく、全員が動けるようにする者になりたい」と発言。クラスより信任。
――クロード、貴族生徒と平民生徒の不満を聞く義務があると発言。成長。
――役職により情報収集上は有利。ただし目立つ。すでに回避困難。
――グレイン先生より、委員は完璧な生徒がやる役ではなく、失敗を見つけて直す役と指摘。重要。
――クロードと相互補助を約束。彼は規則に寄りすぎ、私は抱え込みすぎる。互いに補う。
――ミナと、黒角隊の件を一人で抱え込まないと約束。第一班全員が証人。
私は羽ペンを止めた。
最後に、一行書く。
――正式に、クラスの中に役割を持ってしまった。
しばらく見つめる。
役割。
魔王の娘。
潜入生。
学級委員。
友人。
班長。
どれも私だ。
どれか一つだけでは、もう足りない。
私はもう、勇者学校をただの敵地として見ることができなくなっている。
そのことは危険だ。
だが、知らなかったことにはできない。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
ノノ。
私は学級委員になりました。
敵組織の中枢へ接近成功。
そう報告することはできます。
でも、本当は少し違います。
私は、このクラスが動けるようにしたいと思ってしまいました。
それは任務なのか。
それとも、別の何かなのか。
まだ分かりません。
ただ、今日上がったたくさんの手を、私は忘れないと思います。




