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第34話 嫌いじゃないという言葉

 ミナに言われた言葉が、翌朝になっても胸の奥に残っていた。


 ――魔族を嫌いな気持ちは、まだある。

 ――でも、ルシェラのことは、嫌いじゃない。


 それは、ルシェラ・ディアに向けられた言葉だ。


 辺境伯家の遠縁。


 魔法研究者の養女。


 勇者学校一年二組の生徒。


 学級委員候補。


 第一班の臨時班長。


 ミナの同室の友人。


 けれど、本当の私はルシェラ・ディアヴォルカ。


 魔王の娘。


 魔族。


 ミナの家族を奪った黒角隊と同じ、魔族側に属する者。


 黒角隊は父上の命令に背いた。


 魔王軍中央は正式部隊と認めず、帰還命令も出していた。


 魔王城は、オルステッド村の死を知らなかったことにはしない。


 それでも、ミナの家族は戻らない。


 そして、私はその魔王城の娘である。


 嫌いじゃない。


 その言葉は温かいはずなのに、触れるたびに痛かった。


「ルシェラ、また朝から難しい顔してる」


 食堂で、ティナが向かいの席から言った。


「はい」


「認めるの早いね」


「難しい問題ですので」


「ミナのこと?」


 ティナの声は小さかった。


 隣でミナがスープを飲んでいる。


 聞こえているかもしれない。


 いや、聞こえているだろう。


 ミナは顔を上げずに言った。


「私のことなら、普通に話していい」


「普通に」


 私は少し身構えた。


 また普通である。


 ミナはスプーンを置き、こちらを見る。


「気を使われすぎると困るって、前にも言った」


「はい」


「でも、何もなかったみたいにされるのも困る」


「……難しいですね」


「うん。難しい」


 ミナはあっさり認めた。


「だから、間違えたら言う」


「はい」


「ルシェラも、変に固まらないで」


「努力します」


「努力じゃなくて、普通に」


 ティナが小さく笑った。


「ミナまで普通って言うようになった」


「普通は重要」


 ミナは淡々と言う。


 普通。


 難しい。


 だが、今のミナが言う普通は、無理に明るくしろという意味ではないのだろう。


 傷を特別扱いしすぎず、なかったことにもせず、同じ席で朝食を食べる。


 たぶん、それが今の普通。


 私は頷いた。


「では、普通に聞きます。朝食は足りていますか」


 ミナは少しだけ目を瞬いた。


 ティナが吹き出した。


「ルシェラの普通、食事確認から入るんだ」


「重要です」


 ミナはほんの少し口元を緩めた。


「足りてる」


「それならよかったです」


 この返答で正しかったのかは分からない。


 だが、ミナは拒まなかった。


 ならば、今日のところは成功である。


 午前の授業は、実技戦術だった。


 グレイン先生は演習場に一年二組を集め、短く言った。


「今日は班ごとの防衛訓練を行う」


 防衛。


 攻撃ではなく、防衛。


 私は意識を切り替えた。


 演習場の中央には、低い木箱が置かれている。


 その上に青い布が掛けられていた。


「この青布を拠点とする。各班は一定時間、上級生役から拠点を守れ。全員で前に出るな。全員で下がるな。守るべきもの、捨てるべきもの、任せるべき相手を判断しろ」


 任せるべき相手。


 また、そこに戻ってくる。


 第一班は、自然と集まった。


 クロードは木剣を持ち、前に出る準備をしている。


 ミナは弓を確認している。


 ティナは短杖を握り、支援位置を探している。


 ポルカは拠点周辺の逃走経路、いや退避経路を確認している。


 アレンは上級生たちの立ち位置を見ている。


 私は全体を見た。


 グレイン先生がこちらへ視線を向ける。


「ディア。今回は、お前が最初から全部指示するな」


「はい?」


「班員に判断させろ。お前は最後に足りないところをつなげ」


 試されている。


 私は一瞬、反射的に作戦を組み上げそうになった。


 前衛をクロード。


 左後方にミナ。


 中央にティナ。


 ポルカを拠点裏。


 アレンを後方観察。


 私は魔法支援。


 それでよい。


 だが、それを全部私が言えば、また抱え込む。


 私は息を吸った。


「では、各自、配置案を言ってください」


 クロードがすぐに言う。


「僕は正面を受ける。ただし、二人以上来たら下がる」


 アレンが頷く。


「上級生は三人。右のやつは足が速そう。正面に見せて、右から抜く気がする」


 ミナが弓を構えながら言う。


「右を見る。抜けようとしたら牽制する」


 ポルカが手帳を開く。


「拠点の後ろに低い柵があります。押し込まれた時、そこまで下がると逃げ場がなくなります。なので、撤退するなら左後ろです」


 ティナが続く。


「私は中央より少し左。クロードとポルカの両方が見えるところにいる」


 全員が、自分で言った。


 私はほとんど何もしていない。


 だが、配置ができていく。


「ルシェラは?」


 ティナが聞く。


 私は少し考えて答えた。


「私は、足りないところに入ります」


 アレンが少し笑った。


「それでいいんじゃないか」


 開始の合図が鳴った。


 上級生三人が動く。


 一人は正面。


 一人は右。


 もう一人は遅れて後ろへ回る動き。


「右、速い!」


 アレンが言う。


「見えてる」


 ミナが矢を放つ。


 訓練矢が右の上級生の足元に刺さり、進路をずらす。


 クロードは正面の上級生と打ち合う。


 いつもなら一歩も引かない構えを取りそうなところだが、今日は違った。


 二撃受けた後、自分から半歩下がる。


 拠点から離れすぎず、相手を引き込みすぎない位置。


 前より上手い。


「後ろ、回り込み!」


 ポルカが叫ぶ。


 声が裏返っているが、情報は正確。


 ティナが中央から少し移動し、短い風の支援魔法で相手の足元を乱す。


「ポルカ、左後ろ!」


「はいっ!」


 ポルカは拠点裏から左へ動く。


 彼が動いたことで、後ろから来た上級生の進路が少し空振りする。


 アレンが叫ぶ。


「そいつ、止まらない。青布狙い!」


 私は動いた。


 今だ。


 全体の隙間。


 私は短杖を振り、小さな土壁を青布の前に立てる。


 高くない。


 厚くない。


 平均より少し上。


 ただし、上級生の足を一歩止めるには十分。


 その一拍で、クロードが正面から戻り、ミナが牽制し、ティナが拠点横へ入った。


「守り直した!」


 ティナが声を上げる。


 上級生が笑った。


「一年にしてはやるな」


 訓練は続いた。


 完璧ではない。


 クロードは一度、前に出すぎた。


 ミナは射線を確保しようとして孤立しかけた。


 ポルカは怖がって一歩下がりすぎた。


 ティナは支援に入ろうとして、拠点を見失いかけた。


 アレンは情報を出しすぎて、言葉が渋滞した。


 私は何度も口を出したくなった。


 だが、こらえた。


 必要な時だけ、つなぐ。


 全部を自分で決めない。


 それでも、班は崩れなかった。


 むしろ、少しずつ自分たちで修正していった。


 終了の合図が鳴った時、青布はまだ箱の上にあった。


 守りきった。


 ティナが息を切らしながら笑う。


「やった!」


 ポルカが地面に座り込む。


「生きてます……青布も生きてます……!」


「布は生きてない」


 アレンが言う。


「でも守りました!」


「それはそう」


 クロードは木剣を下ろし、ミナに言った。


「右の牽制、助かった」


「クロードが下がったから射線が取れた」


「……そうか」


 クロードは少しだけ嬉しそうだった。


 ミナも、ほんの少し表情が柔らかい。


 グレイン先生が近づいてきた。


「第一班。合格だ」


 全員が息を吐く。


「ただし、課題は多い。レインハルト、前に出る時は後ろの視界を考えろ。オルステッド、射線確保で孤立するな。マール、支援時に拠点を見失うな。リント、怖がって下がるなら下がる先を言え。フォルク、情報は短く。ディア」


「はい」


「今日は少し任せられたな」


 私は少し驚いた。


「はい」


「忘れるな。班長は、全員を動かす者ではない。全員が動けるようにする者だ」


 その言葉は、深く残った。


 全員が動けるようにする者。


 魔王城で教わった指揮とは少し違う。


 だが、今の私には必要な考え方だった。


 授業後、アレンが隣に来た。


「珍しく我慢してたな」


「分かりましたか」


「顔がすごかった」


「また顔ですか」


「言いたい、でも我慢、って顔」


「改善します」


「いや、今日はそれでよかったんじゃないか」


 私は少しだけ黙った。


 褒められたのかもしれない。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 アレンは軽く言って、少し真面目な顔になる。


「ミナのことも、あんな感じでいいんじゃないか」


「どういう意味ですか」


「全部守ろうとしない。全部決めようとしない。でも、足りないところには入る」


 私は胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


 戦術訓練の話が、そのまま人間関係の話になっている。


「あなたは、時々とても重要なことを言いますね」


「時々かよ」


「頻繁に言うと逃げ場がなくなるでしょう」


 アレンは一瞬驚き、それから笑った。


「学習してるな」


「はい」


 放課後。


 談話室で、ミナはいつものようにお茶を飲んでいた。


 ティナが隣にいる。


 ポルカは今日の防衛訓練の図を描き、クロードはそれを見ながら改善点を指摘している。


 アレンは椅子に深く座り、購買の焼き菓子を食べている。


 私はミナの向かいに座った。


「ミナ」


「うん」


「今日の訓練で、少し分かったことがあります」


「何?」


「私は、ミナの傷を全部守ることはできません」


 ティナがこちらを見る。


 ミナは黙って聞いている。


「黒角隊のことも、オルステッド村のことも、私が答えを決めることはできません。ミナがどう思うかも、私が決めてはいけない」


「うん」


「ですが、必要な時に資料を探すこと、整理すること、一緒に考えることはできます」


 ミナはカップを見つめた。


「足りないところに入る?」


 私は目を見開いた。


 授業で私が言った言葉。


 ミナも聞いていたのだ。


「はい」


「じゃあ、それでいい」


 ミナは短く言った。


「全部守られるのは、少し苦しい」


「はい」


「でも、一人で全部見るのも苦しい」


「はい」


「だから、足りないところにいて」


 胸の奥が痛く、同時に温かくなった。


「分かりました」


 私は答えた。


「そこにいます」


 ティナが泣きそうな笑顔になっている。


「ティナ」


 ミナが言う。


「泣かない」


「まだ泣いてない」


「泣きそう」


「うん」


 ティナは笑いながら目元を押さえた。


 アレンは少し離れたところで、何も言わずにお茶を飲んでいる。


 だが、彼の表情はどこか安心したようだった。


 その夜。


 私は記録を書いた。


 ――防衛訓練。第一班、青布防衛成功。

 ――グレイン先生「班長は、全員を動かす者ではない。全員が動けるようにする者」と発言。重要。

 ――本日、私はすべてを指示せず、各自の判断を待つことに成功。まだ不慣れ。

 ――アレンより、ミナのことも同じでよいと指摘。全部守ろうとせず、足りないところに入る。重要。

 ――ミナより「全部守られるのは苦しい。一人で全部見るのも苦しい。だから、足りないところにいて」と言われる。


 私は羽ペンを止めた。


 最後に一行、ゆっくり書く。


 ――嫌いじゃないという言葉を、私はまだ受け取る資格があるか分からない。


 少し迷って、さらに続ける。


 ――それでも、今は足りないところにいると約束した。


 紙を見つめる。


 正体を明かす日は、いつか来るのだろう。


 その時、ミナの「嫌いじゃない」は壊れるかもしれない。


 ティナの笑顔も、アレンの信頼も、ポルカの安心も、クロードの評価も。


 全部、変わるかもしれない。


 怖い。


 私は初めて、その言葉を自分の中ではっきり認めた。


 怖い。


 だが、だからといって逃げることはできない。


 知らなかったことにはしない。


 父上の言葉のように。


 私は胸元のお守りに触れた。


 人間界での普通は難しい。


 友人は難しい。


 秘密は重い。


 でも、今日の私は一つ学んだ。


 全部を守れなくても、足りないところにいることはできる。


 今は、それを続けるしかない。

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