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第2話 侍女ノノ、人間界の常識を教える

 魔王城には、戦場よりも恐ろしい部屋がいくつかある。


 一つは、財務官たちが集う予算審議室。


 一つは、魔王軍第三師団が「威圧用巨大旗」の追加購入を申請してくる会議室。


 そしてもう一つが、私の自室である。


 正確には、今この瞬間の私の自室だ。


 部屋そのものは恐ろしくない。


 黒檀の机、深紅の絨毯、父上が誕生日に贈ってくれた魔導ランプ、ノノが毎朝磨いてくれる鏡、魔王城地下書庫から借りている人間社会研究書。


 どれも見慣れたものだ。


 恐ろしいのは、その中央に立つ侍女ノノである。


 彼女は銀色の髪をきっちり結い、黒い侍女服を完璧に着こなし、手には分厚い書類束を抱えていた。


 いつもの無表情。


 いつもの直立姿勢。


 いつもの、主の失敗を三歩先まで予測している目。


「姫様」


「はい」


「本日より、人間界潜入に必要な常識講座を行います」


「よろしくお願いします」


 私は机に向かい、羽ペンを構えた。


 父上から命じられた勇者学校潜入任務。


 その成否は、敵地でいかに自然に振る舞えるかにかかっている。


 つまり、今から行われるノノの講義は、戦場での武器の扱いに等しい。


 私は真剣に学ばねばならない。


「では、第一項目です」


 ノノは書類を一枚めくった。


「人間界では、初対面の相手に忠誠を誓わせてはいけません」


「……初歩ですね」


「姫様は三年前、東方領の小領主に初対面で忠誠を誓わせました」


「あれは、向こうが挨拶で跪いたので」


「姫様が『よい心がけです。今後も励みなさい』とおっしゃったので、あちらは臣従を認められたと思い、三日後に誓約書を持ってきました」


「あの後、領地運営は安定しました」


「結果の話はしておりません」


 ノノは冷静だった。


 結果が良ければ過程も評価すべきではないだろうか、と思わなくもない。


 だが、ここで反論してはいけない。


 人間界では初対面の相手に忠誠を誓わせない。


 私は羊皮紙にそう記した。


「では、友人関係において忠誠を要求するのは?」


「してはいけません」


「では、相手が自発的に誓った場合は?」


「止めてください」


「それは相手の自由意思を侵害しませんか」


「その自由意思を発生させないようにしてください」


 難しい。


 人間界では、忠誠心の発生そのものを未然に防ぐ必要があるらしい。


 私は注意事項に星印をつけた。


「第二項目です」


 ノノは続ける。


「友人を、人質と呼んではいけません」


「呼びません」


「姫様は、過去に私のことを『最も信頼できる身内人質』と呼びました」


「あれは、私が誘拐された場合にノノが交渉材料として最も有効だという意味で、最大限の評価でした」


「評価が物騒です」


「では、何と呼ぶべきですか」


「友人、仲間、同級生、ルームメイトなどです」


「同級生」


 私は新しい単語を記した。


 同じ級に属する生徒。


 つまり、同じ教育部隊に配属された者たち。


 なるほど。


「同級生は、味方ですか」


「場合によります」


「敵では?」


「基本的には敵ではありません」


「では、潜在的敵性対象」


「違います」


「中立勢力」


「もう少し柔らかくしてください」


「暫定的友好対象」


「……初日としては、妥協します」


 ノノが珍しく少しだけ疲れた声を出した。


 私は手応えを感じた。


 暫定的友好対象。


 人間界における同級生の初期分類としては、おそらく悪くない。


「第三項目。食事についてです」


「食事」


「人間界では、学校へ弁当を持参することがあります」


「携帯兵糧ですね」


「お弁当です」


「携帯兵糧では?」


「お弁当です」


「戦闘や行軍中に携帯する食料ではないのですか」


「学校生活中に食べる昼食です」


「昼に携帯している食料では?」


「お弁当です」


 ノノは一歩も譲らなかった。


 ここは戦術的撤退が必要だ。


「分かりました。人間界では、携帯兵糧をお弁当と呼ぶ」


「違います。お弁当を携帯兵糧と呼ばないでください」


「同じものでは?」


「同じであっても、言い方で印象が変わります」


 なるほど。


 人間社会では、実体より呼称が重要になる場合がある。


 これは重要な知見だ。


 私は書き加えた。


 ――弁当。携帯兵糧ではない。かわいく言う必要あり。


「第四項目。友人から食べ物を分けてもらった場合」


「補給線の共有ですね」


「違います」


「食糧を分け合うのですから、補給線の共有では?」


「感謝して受け取ってください」


「対価は?」


「基本的には『ありがとう』で十分です」


「ありがとう、だけで食糧を得られるのですか」


「友人関係では、そういうこともあります」


「危険ですね」


「どこがですか」


「無償の食糧提供は、心理的負債を生みます。のちに不利な要求をされる可能性があります」


「おかずを一つもらった程度で、そこまで警戒しないでください」


「ですが、食糧は士気に直結します」


「姫様」


「はい」


「人間界でお弁当のおかずを一つ分けられた時、『これは補給線の共有……かなり高度な信頼行為ですね』などと呟かないでください」


「なぜその台詞を先回りできるのですか」


「姫様に長くお仕えしておりますので」


 ノノは淡々と言った。


 有能すぎる。


 私は、羽ペンを握る手に力を込めた。


 人間界、侮れない。


 弁当一つでこれほどの注意事項が存在するとは。


「第五項目です」


 ノノが次の書類をめくる。


「学校では、教師の指示に従ってください」


「敵教育機関の指揮官ですね」


「教師です」


「ですが、敵性戦力を育成しているのなら、教官では?」


「教師です」


「分かりました。敵教育機関の教師」


「敵を抜いてください」


「教育機関の教師」


「はい」


「つまり、教育機関の指揮官」


「戻さないでください」


 私は少し考えた。


 勇者学校の教師。


 人間側の若年戦力を育成する存在。


 戦略上、極めて重要な対象である。


「教師から課題を出された場合、どう対応すべきですか」


「提出してください」


「偽情報を?」


「普通に課題を提出してください」


「情報撹乱の機会では?」


「学業成績が下がります」


「しかし潜入任務では、情報操作も」


「姫様」


 ノノの声が少し低くなった。


「勇者学校での姫様の目的は、怪しまれずに学校生活を送ることです。課題に偽情報を混ぜたり、答案に魔族側の正史を書き加えたり、教師の思想を矯正しようとしたりしてはいけません」


「……魔族側の正史を書いてはいけないのですか」


「いけません」


「人間側の歴史に誤りがあった場合は」


「一旦、黙ってください」


「教育上の問題があります」


「潜入上の問題の方が大きいです」


 私は唇を引き結んだ。


 人間側の歴史には、おそらく誤解や誇張が多い。


 魔族が一方的に侵略したかのように語られることもあるだろう。


 それを聞き流すのは、少し難しそうだ。


 けれど、これは任務である。


 私は耐えねばならない。


「分かりました。訂正は控えます」


「本当に控えてくださいね」


「控えます」


「授業中に『異議あり』と立ち上がらないでください」


「それは状況によります」


「状況によらず座っていてください」


 厳しい。


 だが、敵地潜入とは厳しいものだ。


「第六項目。友人に遊びへ誘われた場合」


「誘われる可能性が?」


「あります」


「何のために?」


「仲良くなるためです」


「情報収集ですね」


「遊びです」


「遊びを通じた情報収集」


「……最初はそれで構いません」


 ノノが諦め始めている。


 私は慎重に尋ねた。


「遊びに誘われた場合、同行すべきですか」


「基本的には、無理のない範囲で」


「護衛は?」


「つけません」


「罠の可能性は?」


「低いです」


「低い、ということはゼロではありませんね」


「人間の同級生が放課後に喫茶店へ誘う程度の罠を疑わないでください」


「喫茶店」


 私はその単語を知っている。


 人間が茶や菓子を摂取しながら会話する場所だ。


 魔王城で言えば、作戦会議前の控え室に近い。


「喫茶店では、何をすれば?」


「お茶を飲み、菓子を食べ、会話してください」


「会話の目的は?」


「親交を深めることです」


「情報収集ですね」


「親交です」


「親交を通じた情報収集」


「もうそれでいいです」


 私は深く頷いた。


 遊びとは、親交を通じた情報収集。


 重要だ。


「第七項目。笑顔について」


「笑顔」


「人間界では、適度に笑うことが大切です」


「威嚇のためですか」


「友好のためです」


「牙を見せるのに?」


「人間はそこまで気にしません」


「魔族の中には、牙を見せることを挑発と取る者もいます」


「人間界では、自然な笑顔を心がけてください」


 自然な笑顔。


 私は試しに口角を上げてみた。


 ノノが一瞬で無表情のまま一歩下がった。


「姫様」


「はい」


「それは尋問前の顔です」


「自然に笑ったつもりですが」


「もう少し、相手を追い詰めない感じでお願いします」


 難しい。


 私は再度挑戦した。


 ノノが目を伏せた。


「今度は?」


「処刑を告げる時の慈悲深い顔です」


「笑顔とは奥深いですね」


「練習しましょう」


 それからしばらく、私は鏡の前で笑顔の訓練を行った。


 ノノの判定は厳しかった。


「それは降伏勧告です」


「これは?」


「勝利宣言です」


「では、これは」


「裏切り者に最後の機会を与える顔です」


「人間界では使えますか」


「使わないでください」


 私は少し落ち込んだ。


 魔法制御より難しい。


「姫様」


 ノノは書類を閉じ、私の正面に立った。


 常識講座は一段落したらしい。


「最後に、一番大切なことを申し上げます」


「はい」


「普通にしてください」


 私は息を止めた。


 普通。


 また出た。


 父上にも言われた、最難関概念である。


「普通とは、具体的に何を指すのですか」


「初対面で忠誠を誓わせず、友人を人質と呼ばず、お弁当を携帯兵糧と呼ばず、教師を敵指揮官扱いせず、遊びを諜報活動と断定せず、笑顔で相手を威圧しないことです」


「項目が多いですね」


「姫様の場合、多いです」


「つまり、普通とは複数の禁止事項の集合体」


「違います」


「では、最も難度の高い偽装ですね」


「……ある意味では、そうです」


 ノノは小さく息をついた。


 そして、少しだけ表情を和らげた。


「姫様」


「はい」


「人間界では、分からないことがたくさんあると思います」


「覚悟しています」


「失敗もすると思います」


「可能な限り避けます」


「避けきれないと思います」


「……努力します」


「その時は、すぐに取り繕おうとしないでください」


 ノノの声は、いつもより少し柔らかかった。


「分からなければ、分からないと言えばいいのです。間違えたら、謝ればいいのです。全部を完璧にこなそうとすると、かえって怪しまれます」


「ですが、私は魔王の娘です。失敗は」


「姫様」


 ノノが静かに私を遮った。


「魔王の娘である前に、姫様は初めて人間界へ行く十五歳の女の子です」


 私は、言葉を返せなかった。


 初めて人間界へ行く、十五歳の女の子。


 その言い方は、少し不思議だった。


 私は魔王の娘だ。


 次期魔王候補であり、魔王軍の未来を背負う者であり、人間界へ敵情視察に向かう潜入者である。


 けれど、ノノはその全部を一度横に置くような言い方をした。


「……女の子、ですか」


「はい」


「潜入任務中でも?」


「はい」


「敵地でも?」


「はい」


「勇者候補の中でも?」


「はい」


 ノノは迷わず頷いた。


「ですから、疲れたら休んでください。困ったら相談してください。危険だと思ったら逃げてください」


「逃げるのは、魔王の娘として」


「生きて帰ることが最優先です」


 ノノの声は、いつになく強かった。


「姫様が無事に帰ってこられない任務など、成功ではありません」


 私は羽ペンを置いた。


 不意に、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 父上も、ノノも、任務の話をしている。


 けれど、それだけではない。


 私に人間を見てこいと言いながら、二人とも私が傷つくことを恐れている。


 そのことが分かってしまった。


 私は小さく頷いた。


「分かりました。生存を最優先事項に設定します」


「設定ではなく、約束してください」


「……約束します」


 ノノは満足そうに頷いた。


 それから、最後の書類を私に差し出した。


「こちらが、人間界での持ち物一覧です」


「確認します」


 私は一覧に目を通した。


 制服。


 筆記具。


 身分証。


 入学許可証。


 生活費。


 簡易治療薬。


 変装用の魔導具。


 通信石。


 そして、最後に小さく書き足された項目があった。


 ――お守り。


「ノノ」


「はい」


「この、お守りとは?」


「私が作りました」


 ノノは懐から小さな黒い袋を取り出した。


 銀糸で、私の偽名である「ディア」の文字が縫われている。


 魔王城の紋章ではない。


 人間界で見ても怪しまれないよう、目立たない意匠になっていた。


「防御魔法ですか」


「少しだけ」


「毒耐性?」


「少しだけ」


「位置追跡?」


「少しだけ」


「かなり多機能ですね」


「侍女ですので」


 ノノは当然のように言った。


 私はお守りを受け取った。


 手のひらに収まるほど小さいのに、不思議と重かった。


「ありがとうございます、ノノ」


「どういたしまして」


「これは、携帯防衛装備として分類しておきます」


「お守りです」


「お守り」


「はい」


 私は言い直した。


「大切にします。お守りとして」


 ノノはようやく、ほんの少しだけ笑った。


 それは、私が練習していたどの笑顔よりも自然だった。


 悔しい。


 帰ってきたら、笑顔の訓練も続けよう。


 私はお守りを胸元にしまい、机の上の羊皮紙を見返した。


 初対面で忠誠を誓わせない。


 友人を人質と呼ばない。


 弁当は携帯兵糧ではなく、お弁当。


 教師は敵指揮官ではない。


 遊びは親交。情報収集ではない。たぶん。


 自然な笑顔は尋問前の顔ではない。


 普通にする。


 生きて帰る。


 人間界潜入任務は、想像以上に困難である。


 けれど、私は魔王の娘だ。


 父上から任された以上、必ずやり遂げてみせる。


 私は羊皮紙を丁寧に畳み、決意を込めて立ち上がった。


「ノノ」


「はい」


「人間界で友人ができた場合、報告書には何と記せばよいでしょうか」


「普通に、友人ができたと書けばよろしいかと」


「暫定的友好対象の確保、では?」


「友人です」


「重要観察対象との親交確立」


「友人です」


「敵地における感情的接触事例」


「友人です」


 ノノは一歩も譲らなかった。


 私は深く頷く。


「分かりました」


「本当ですか」


「はい。人間界では、友人を友人と呼ぶ」


「それでお願いします」


 私は羊皮紙の最後に、そう書き加えた。


 ――友人は、友人と呼ぶ。


 なぜだか、その一文だけは、ほかのどの注意事項よりも難しく見えた。

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