第3話 人間名、ルシェラ・ディア
名前とは、思っていたより重いものらしい。
第3話 人間名、ルシェラ・ディア
名前とは、思っていたより重いものらしい。
少なくとも、机の上に置かれた一枚の身分証は、鉄塊のような重みで私の目の前にあった。
そこには、人間の文字でこう記されている。
――ルシェラ・ディア。
私はその文字をじっと見つめた。
ルシェラ。
そこまではいい。
私の名だ。
父上がつけてくれた名であり、ノノが毎朝呼ぶ名であり、魔王城の兵士たちが背筋を伸ばして口にする名である。
問題は、その後ろだ。
「ディア、ですか」
「はい。人間界での姫様のお名前は、ルシェラ・ディアとなります」
ノノが、いつものように淡々と答えた。
私の自室には、昨日に引き続き、人間界潜入用の書類が山と積まれている。
身分証。
入学許可状。
推薦状。
家系図。
学費納入記録。
辺境伯家の遠縁であることを示す偽造書類。
さらには、人間界での幼少期の経歴まで用意されていた。
徹底している。
魔王軍諜報部の仕事は優秀だ。
少々、優秀すぎて怖い。
「ディアヴォルカの前半だけを残した形ですね」
「完全に別名にすると、姫様が呼ばれた時に反応できない可能性がありますので」
「……父上にも同じことを言われました」
「陛下も私も、姫様のことをよく理解しております」
褒められているのだろうか。
たぶん違う。
私は身分証を指先でなぞった。
ルシェラ・ディア。
短い。
軽い。
まるで、私の名前から何か大きなものを削り落としたようだった。
ディアヴォルカ。
魔王の血を示す名。
魔族の長き歴史と、魔王城の玉座と、父上の背中と、私がいずれ背負うべきものが詰まった名。
それを隠す。
任務上、当然だ。
人間界で「ディアヴォルカ」などと名乗れば、初日どころか校門に辿り着く前に捕縛される。
最悪、勇者候補たちに囲まれ、実技試験どころか実戦になる。
だから隠す。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
「姫様」
ノノがこちらを見ていた。
「何かご不満が?」
「不満ではありません」
「では?」
「……少し、不思議なだけです」
私は身分証を持ち上げた。
「名前を半分にすると、自分も半分になったように見えます」
言ってから、少し驚いた。
こんな曖昧なことを口にするつもりはなかった。
任務に必要な偽装。
それで十分なはずなのに。
ノノはすぐには返事をしなかった。
ただ、いつもの無表情のまま、少しだけ目を伏せた。
「半分になったわけではありません」
「そうでしょうか」
「はい。隠しているだけです」
「隠す」
「姫様が姫様でなくなるわけではありません」
その言葉は、妙に胸に残った。
隠しているだけ。
なくしたわけではない。
私はもう一度、身分証を見た。
ルシェラ・ディア。
そこに魔王の娘とは書かれていない。
けれど、私が魔王の娘であることは消えない。
ならば、問題はない。
たぶん。
「それで、この偽装身分では、私はどういう人物なのですか」
「辺境伯家の遠縁。幼少期より魔法研究者の養女として育てられ、基礎教育を受けた後、勇者学校に推薦入学する少女です」
「情報量が多いですね」
「不自然な空白があると疑われます」
「なるほど」
私は書類を手に取った。
そこには、私の偽りの経歴が細かく記されていた。
出身地。
養父母の名前。
幼少期に学んだ魔法体系。
人間界で好きだった菓子。
得意科目。
不得意科目。
病歴。
交友関係。
読めば読むほど、ルシェラ・ディアという少女が存在していたように思えてくる。
少し怖い。
「ノノ」
「はい」
「この養父母は実在するのですか」
「書類上は」
「書類上は」
「必要であれば実在します」
「それは実在と言えるのでしょうか」
「諜報部においては、かなり実在しています」
深く考えない方がよさそうだ。
私は次の書類を見た。
「好きな菓子、蜂蜜焼き林檎」
「人間界で無難に好まれます」
「私は食べたことがありません」
「出されたら、おいしそうにしてください」
「味が分からない場合は?」
「甘ければだいたい大丈夫です」
「人間界の菓子は、だいたい甘いのですか」
「ものによります」
「危険ですね」
「菓子に対してそこまで警戒しないでください」
私は慎重に頷いた。
蜂蜜焼き林檎。
覚えておこう。
「不得意科目、歴史」
書類の一文に、私は眉をひそめた。
「ノノ。これは修正が必要です」
「なぜですか」
「歴史は得意です」
「魔族側の歴史は、ですね」
「人間側の歴史も学べば得意になります」
「それが困るのです」
ノノは書類を一枚取り上げた。
「姫様が人間側の歴史問題で完璧な答案を書けば、目立ちます。しかも、間違いを見つければ訂正したくなるでしょう」
「訂正は教育上必要です」
「だから不得意設定です」
「不得意であれば、多少黙っていても不自然ではない」
「その通りです」
なるほど。
不得意とは、無能の演出ではなく、沈黙の理由づけ。
高度な偽装だ。
私は少し感心した。
「では、魔法実技は?」
「平均より少し上、という設定です」
「少し上」
「少し上です」
「どの程度ですか」
「教師が褒める程度で、王子が注目しない程度です」
「難易度が高いですね」
「姫様にとっては、かなり高いです」
「普通にやればよいのでは」
「姫様の普通は、平均から外れます」
ノノは容赦がない。
しかし事実である可能性が高い。
私は唇を引き結び、書類に目を落とした。
「家族構成は、養父母のみ。実父母は早くに亡くなった設定」
私はそこで手を止めた。
「父上は」
「人間界では、存在しません」
「存在しない」
「設定上は」
分かっている。
これも必要な偽装だ。
魔王ヴァルガ・ディアヴォルカを父として登録するわけにはいかない。
そんなことをすれば、学校どころか王国軍が来る。
分かっている。
けれど、書類の中で父上が存在しないことになっているのを見ると、先ほどよりもさらに奇妙な気持ちになった。
ルシェラ・ディア。
辺境伯家の遠縁。
魔法研究者の養女。
実父母は亡くなっている。
魔王の娘ではない。
ディアヴォルカではない。
父上の娘ではない。
私は身分証を机に置いた。
「姫様?」
「少しだけ、変な気分です」
「……そうでしょうね」
ノノの声は、珍しく柔らかかった。
「ですが、陛下は存在しなくなったわけではありません」
「分かっています」
「姫様が戻られれば、いつものように玉座の間で不必要に威圧的な顔をしてお待ちです」
「不必要ではありません。魔王として必要な威厳です」
「昨日、姫様の戸締まりを心配しておられましたが」
「それも魔王としての危機管理です」
「そういうことにしておきます」
ノノは小さく頭を下げた。
私は少しだけ笑いそうになった。
ノノの言う通りだ。
父上は消えない。
名前を隠しても、書類にいなくても、私が戻ればそこにいる。
玉座の上で、世界を三つほど滅ぼせそうな顔をして。
おそらく、最初に言うのはこうだ。
無事か。
いや、その前に。
戸締まりは確認したか。
私は息を整え、書類の確認を再開した。
「勇者学校での志望理由は?」
「こちらをご覧ください」
ノノが一枚の紙を差し出した。
そこには、模範解答が書かれていた。
――幼い頃より勇者の物語に憧れ、人々を守る力を学びたいと願っておりました。貴校で学び、多くの人の役に立てる者になりたいです。
私は読み終え、沈黙した。
「ノノ」
「はい」
「これは、かなり人間寄りの思想ではありませんか」
「勇者学校を志望する人間としては自然です」
「勇者の物語に憧れたことはありません」
「偽装です」
「人々を守る力を学びたい、は嘘ではありません。魔族の民を守る力は学びたいです」
「人間界では、そこをぼかしてください」
「多くの人の役に立つ、という部分も、魔族を含めてよいのでしょうか」
「そこは姫様の中で自由に解釈してください」
なるほど。
文章は人間向け。
内心では広く解釈可能。
これは良い偽装文だ。
私は何度か読み返し、暗記することにした。
「幼い頃より勇者の物語に憧れ……」
私は口に出してみた。
すぐに違和感があった。
勇者。
魔族にとって、勇者とは脅威である。
城壁を破り、魔族の将を倒し、時には魔王へ刃を向ける存在。
だが、人間にとっては憧れの対象なのだろう。
その違いを、私は学校で見ることになる。
「姫様」
「はい」
「勇者の話題が出た時、露骨に敵意を出さないでください」
「出しません」
「勇者像の矛盾を指摘しすぎないでください」
「程度によります」
「程度によらず、初日は控えてください」
「初日は」
「できれば卒業まで」
難しい。
私は小さく頷いた。
「努力します」
「そこは断言してください」
「努力して断言します」
「不安です」
ノノはそう言って、次に制服を広げた。
勇者学校の制服。
深紺を基調とした上着に、白い襟。胸元には小さな校章。
魔王城の衣服に比べると、装飾は少なく、動きやすそうだった。
だが、どこか明るい。
敵地潜入用装備としては、かなり可愛らしい。
「これを着るのですか」
「はい」
「防刃性能は?」
「ありません」
「耐火性能は?」
「ありません」
「魔法防御は?」
「一般生徒用なので、ほぼありません」
「危険では?」
「学校の制服です」
「防御力が低すぎます」
「人間の学生は、日常的に攻城戦へ参加しません」
「勇者学校なのに?」
「勇者学校でもです」
私は制服を手に取った。
軽い。
本当に軽い。
これで勇者候補たちは授業を受けるのか。
不安にならないのだろうか。
「姫様、鎧を下に着込むのは禁止です」
「なぜ分かったのですか」
「姫様ですので」
「薄い鎖帷子なら」
「禁止です」
「防御結界を縫い込むのは」
「最低限なら許可します。見た目を変えない範囲で」
「ノノ」
「はい」
「それはすでに縫い込んでありますね」
「少しだけ」
有能。
やはりノノは有能である。
「通信石は?」
「こちらです」
ノノは小さな黒い石を差し出した。
「緊急時のみ使用してください。普段の報告は定期便で」
「緊急時の基準は?」
「命の危険、正体露見、重大な政治問題」
「友人関係の相談は」
「緊急ではありません」
「弁当を分けられた場合の対応確認は」
「緊急ではありません」
「教師に歴史を訂正したくなった場合は」
「緊急ではありません。耐えてください」
私は通信石を制服の内ポケットにしまった。
緊急時のみ。
注意しよう。
ノノは最後に、小さな封筒を取り出した。
黒い封蝋には、ディアヴォルカ家の紋章が刻まれている。
「こちらは陛下からです」
「父上から?」
「人間界へ出発する直前に読むように、と」
私は封筒を受け取った。
少し迷ったが、今は開けなかった。
父上が直前に読むようにと言ったなら、その通りにするべきだ。
「ノノは、中身を知っていますか」
「存じません」
「珍しいですね」
「陛下がご自身で封をされましたので」
そうか。
父上が、自分で。
私は封筒を大切に書類の上へ置いた。
それから、もう一度身分証を見る。
ルシェラ・ディア。
人間界での私。
偽りの名。
けれど、完全な偽りではない。
ルシェラは私だ。
ディアも、ディアヴォルカの一部だ。
半分隠しているだけ。
なくしたわけではない。
「ノノ」
「はい」
「もし人間界で、私がルシェラ・ディアとして振る舞い続けた場合」
「はい」
「私は、ルシェラ・ディアになるのでしょうか」
ノノは少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「姫様が何を名乗っても、私にとって姫様は姫様です」
「答えになっているようで、なっていない気がします」
「侍女ですので」
「侍女とは便利ですね」
「はい」
ノノはいつもの無表情に戻っていた。
けれど私は、その答えで十分だった。
何を名乗っても、私は私。
ならば、行ける。
「分かりました」
私は身分証を手に取り、胸元にしまった。
「人間界では、ルシェラ・ディアとして振る舞います」
「はい」
「辺境伯家の遠縁」
「はい」
「魔法研究者の養女」
「はい」
「好きな菓子は蜂蜜焼き林檎」
「はい」
「歴史は不得意」
「はい」
「魔法実技は平均より少し上」
「はい」
「友人は、友人と呼ぶ」
「大変よろしいです」
ノノが深く頷いた。
私は少し誇らしい気持ちになった。
常識講座の成果が出ている。
その時、扉の外から低い声が響いた。
「ルシェラ」
父上の声だった。
ノノがすぐに扉を開く。
そこには、玉座の間ほどではないが、十分に魔王らしい顔をした父上が立っていた。
ただし、片手には小さな布袋を持っている。
魔王らしさと布袋の相性は、あまり良くない。
「父上」
「準備は進んでいるか」
「はい。ルシェラ・ディアとしての設定も確認しました」
「そうか」
父上は部屋に入り、机の上の書類を一瞥した。
その目が、身分証の写しで一瞬止まる。
ルシェラ・ディア。
父上は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
「父上」
「何だ」
「私は、人間界でディアヴォルカの名を隠します」
「そうだ」
「ですが、忘れるわけではありません」
父上は私を見た。
私はまっすぐに言った。
「私はルシェラ・ディアとして潜入します。けれど、私はルシェラ・ディアヴォルカでもあります。魔王の娘であることを、忘れません」
父上はしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「忘れる必要はない」
「はい」
「ただし、それだけに縛られる必要もない」
私は瞬きをした。
「父上?」
「お前は魔王の娘だ。それは変わらん」
父上は、持っていた布袋を机に置いた。
「だが、人間界で見るものすべてを、魔王の娘としてだけ見るな」
「……」
「ルシェラ・ディアとして見ろ。勇者学校の生徒として見ろ。そして、お前自身の目で見ろ」
父上の声は静かだった。
命令というより、願いに近い声。
私は何も言えなかった。
父上はすぐに、いつもの重々しい声へ戻る。
「これは餞別だ」
机の上の布袋を開くと、中には小さな硬貨と、乾燥果実が入っていた。
「人間界の通貨だ。使い方はノノに聞け」
「ありがとうございます」
「それと、乾燥果実だ」
「なぜ乾燥果実を?」
「腹が減ると判断力が鈍る」
「任務に関係ありますね」
「ある」
父上は真顔だった。
ノノが横で、少しだけ肩を震わせている。
笑っているのだろうか。
珍しい。
「ルシェラ」
「はい」
「人間の弱点を見てこい」
「はい」
「ただし、弱さだけを見るな」
父上はそう言って、私の頭に大きな手を置いた。
ほんの一瞬だけ。
魔王の手は大きく、重く、温かかった。
「強さも見てこい」
私は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
弱点を探る任務。
けれど父上は、強さも見ろと言う。
それは、敵を評価しろという意味だろうか。
あるいは、それ以上の意味があるのだろうか。
まだ、分からない。
けれど、私は頷いた。
「承知しました」
父上の手が離れる。
その瞬間、私はまた魔王の娘に戻った気がした。
そして同時に、人間界へ向かうルシェラ・ディアにもなった気がした。
名前が二つある。
立場も二つある。
けれど、目は一つだ。
見るのは、私自身。
私は身分証を胸に、父上とノノへ深く礼をした。
「行ってまいります。父上、ノノ」
「行ってこい」
「お気をつけて、姫様」
顔を上げる。
窓の外には、魔王城の黒い空が広がっていた。
明日には、私はこの城を出る。
勇者学校。
人間界。
敵の養成所。
そして、ルシェラ・ディアとしての新しい生活。
不安はある。
だが、今は少しだけ楽しみでもあった。
それが任務に対する意欲なのか、それとも別の感情なのかは、まだ分類できない。
だから私は、心の中の報告書にこう記した。
――分類不能。継続観察が必要。




