第1話 魔王の娘、呼び出される
魔王城の玉座の間は、今日もたいへん魔王城らしかった。
天井は無駄に高く、柱は無駄に太く、壁には歴代魔王の肖像画が無駄に威圧的な顔で並んでいる。
床には黒曜石が敷き詰められ、足音が一歩ごとに冷たく響く。燭台の炎は青く燃え、窓の外では雷雲が都合よく唸っていた。
我が父ながら、演出には余念がない。
玉座の上に座る父上――魔王ヴァルガ・ディアヴォルカは、いつものように世界を三つほど滅ぼせそうな顔でこちらを見下ろしていた。
ちなみに、今朝の朝食時には「ルシェラ、スープが熱い。舌を焼くな」と言ってくれたので、見た目ほど世界を滅ぼしたがっているわけではない。
私は玉座の前で片膝をつき、深く頭を垂れた。
「お呼びでしょうか、父上」
「うむ。よく来た、ルシェラ」
父上の声が玉座の間に響く。
それだけで、左右に控えていた魔族の将たちが一斉に背筋を伸ばした。
さすが父上だ。
声だけで部下の姿勢を矯正できる。私もいずれは、あのように咳払い一つで会議室を静まり返らせる魔王にならねばならない。
……ただし、今はまだ十五歳なので、咳払いをしても侍女ノノに「姫様、喉を痛めますよ」と温かいお茶を出されるだけである。
「ルシェラ」
「はい」
「お前に、重要な任務を与える」
任務。
その言葉に、私は自然と背筋を正した。
魔王の娘として生まれた以上、いつか大きな任を与えられる日が来ることは分かっていた。
国境の視察か。
反乱分子の鎮圧か。
あるいは、魔王軍第三師団の予算監査か。
個人的には三つ目が最も恐ろしい。第三師団は毎年、なぜか「威圧用巨大旗」の購入費が膨れ上がる。威圧は大切だが、旗はそんなに要らない。
私は内心の動揺を隠し、静かに父上の言葉を待った。
父上は、しばし沈黙した。
玉座の間に、雷鳴が響く。
まるで世界の運命が変わる瞬間のようだった。
そして父上は、重々しく告げた。
「お前には、人間界の勇者学校へ潜入してもらう」
「……勇者学校、ですか」
私は思わず顔を上げた。
勇者学校。
それは人間王国が誇る、次世代勇者候補の育成機関である。
剣術、魔法、戦術、対魔族学、聖剣適性、集団戦闘、救護、魔物討伐。
人間たちはそこで、我ら魔族に対抗する戦力を育てている。
つまり、敵軍の養成所。
いずれ我が魔王軍の脅威となる若者たちが、日々汗を流し、友情を育み、こちらからすれば非常に迷惑な成長を遂げている場所である。
「目的は、次世代勇者候補の弱点調査だ」
「弱点調査」
「そうだ。勇者候補たちの実力、性格、思想、連携、指揮系統。可能な限り調べてこい」
なるほど。
私はすぐに理解した。
人間たちは近年、若い勇者候補の育成に力を入れている。父上は正面から叩き潰すのではなく、その前段階で敵の実態を把握しようとしているのだ。
さすが父上。
武力だけでなく、情報戦にも長けている。
「承知しました」
私は深く頷いた。
「敵を正しく知るには、敵の制度を正しく学ぶ必要があります。授業内容、評価基準、生活環境、人間関係。すべてを内側から把握するのが最も合理的でしょう」
「……うむ」
父上が少しだけ目を細めた。
感心されたのだろうか。
私は続けた。
「つまり、私は優秀な生徒として潜入すべきですね」
「……」
「入学試験は上位で通過。授業態度は良好。教師の信頼を得つつ、生徒間の関係性を観察。必要であれば、敵組織の中枢にも接近します」
「……ルシェラ」
「はい」
「潜入とは、目立たぬことも重要だ」
「もちろんです。目立たぬよう、極めて自然に優秀な成績を収めます」
父上が片手で額を押さえた。
なぜだろう。
今の説明に不備があっただろうか。
左右に控えていた将の一人が咳き込んだ。もう一人は、なぜか遠い目をしている。
父上はしばらく沈黙した後、低く言った。
「優秀すぎれば目立つ」
「では、平均点を維持しますか?」
「いや、お前は手を抜くのが下手だ」
「訓練します」
「そこを訓練すると、おそらく別の方向に目立つ」
難しい。
人間界潜入とは、想像以上に高度な任務らしい。
私は心の中で、任務難度を二段階引き上げた。
「父上。確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「勇者学校では、敵対行動を控えるべきですか」
「当然だ」
「では、初対面の相手を威圧して服従させるのは」
「控えろ」
「決闘を申し込まれた場合は」
「可能なら避けろ」
「相手が明確にこちらを侮辱した場合は」
「耐えろ」
「毒を盛られた場合は」
「それは報告しろ」
「捕虜を得た場合は」
「捕虜を作るな」
私は小さく息を呑んだ。
「……捕虜を作らずに、敵情を探るのですか」
「そうだ」
「高度ですね」
「学校とはそういう場所だ」
人間界、恐るべし。
敵を捕らえず、威圧せず、決闘も避け、それでいて情報を得る。
つまり、会話と観察を主体とした長期潜入任務。
しかも相手は勇者候補。
心身ともに未成熟でありながら、将来的に魔王軍へ甚大な被害を与える可能性を秘めた危険個体群である。
私は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
恐怖ではない。
任務への緊張だ。
魔王の娘として、これほど重要な役目を任されるのは初めてだった。
「ルシェラ」
父上の声が少しだけ低くなった。
先ほどまでの魔王としての声とは違う。
玉座の上にいるのに、少し近く聞こえる声だった。
「人間の弱点を見てこい」
「はい」
「ただし」
父上はそこで言葉を切った。
青い炎が揺れる。
壁に並んだ歴代魔王の肖像画が、父上の沈黙を見守っているようだった。
「見る前に、決めつけるな」
私は瞬きをした。
「……決めつけるな、ですか」
「そうだ」
「敵を敵と決めつけるな、という意味でしょうか」
「そこまでは言っていない」
父上はすぐに否定した。
だが、その否定は少しだけ遅かった。
「人間は我らの敵だ。多くの魔族を傷つけ、今も我らを討とうとしている」
「はい」
「だが、敵であればすべて同じというわけではない。弱点を探るなら、まず見ろ。聞け。覚えろ。己の目で判断しろ」
私は父上の言葉を胸に刻んだ。
見ろ。
聞け。
覚えろ。
魔王軍の諜報訓練でも似た言葉を習ったことがある。
だが、父上の言葉はそれよりもずっと重かった。
まるで、任務の話だけではないような。
そんな気がした。
「承知しました。人間を観察し、分類し、記録し、弱点を抽出します」
「……分類はほどほどにしろ」
「では、柔軟に分類します」
「分類から離れろ」
父上の眉間に皺が寄った。
難しい。
分類せずに理解するとは、いったいどういう状態なのだろう。
私は追加の課題として記憶した。
「それと、ルシェラ」
「はい」
「人間界では、身分を隠す必要がある」
父上が手を軽く上げると、側近が一枚の書類を差し出した。
私の新しい身分証だった。
そこには、人間文字でこう書かれている。
ルシェラ・ディア。
私はしばらく、その名を見つめた。
「ディアヴォルカではなく、ディア」
「そうだ」
「半分だけ、隠すのですね」
「完全に違う名にすると、お前が呼ばれた時に反応できんだろう」
「……父上は、私を何だと思っているのですか」
「真面目すぎる娘だ」
即答だった。
私は少しだけ不満を覚えたが、反論できなかった。
確かに、いきなりまったく別の名で呼ばれた場合、任務中であっても一拍遅れる可能性はある。
その一拍が命取りになる。
父上はやはり、戦場を知っている。
「ルシェラ・ディア。辺境伯家の遠縁として勇者学校に入学する。必要な書類は整えてある」
「承知しました」
「それから」
父上は再び重々しく言った。
「寝る前には、必ず戸締まりを確認しろ」
「父上」
「何だ」
「それは任務に関係ありますか」
「ある。生存率に関わる」
玉座の間に、妙な沈黙が落ちた。
将たちは視線を伏せている。
おそらく、魔王としての威厳と父としての心配が正面衝突している場面を見てはいけないのだろう。
私は立ち上がり、父上に向かって深く礼をした。
「必ずや任務を果たします。人間の弱点を調べ、勇者候補たちの実態を把握し、魔王軍に有益な情報を持ち帰ります」
「うむ」
「そして、目立たぬよう、自然に、優秀な生徒として振る舞います」
「そこはまだ不安だ」
「改善します」
「改善の方向を間違えるな」
父上はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
ほんの少し。
他の者なら気づかない程度の変化だった。
けれど、私は娘なので分かる。
父上は心配している。
魔王としてではなく、父として。
だから私は、もう一度だけ深く頭を下げた。
「行ってまいります、父上」
「ああ。行ってこい、ルシェラ」
顔を上げると、父上はいつもの魔王の顔に戻っていた。
世界を三つほど滅ぼせそうな顔。
けれど今の私は、その顔の奥にあるものを知っている。
心配性で、不器用で、娘の戸締まりを気にする父の顔を。
私は玉座の間を後にした。
勇者学校。
人間界。
次世代勇者候補。
未知の敵。
未知の制度。
未知の生活。
不安はある。
だが、魔王の娘として恐れるわけにはいかない。
敵を知る。
見て、聞いて、覚える。
そして弱点を見つける。
私は廊下を歩きながら、決意を新たにした。
まずは人間界で、完璧に普通の生徒として振る舞わなければならない。
……普通。
魔王城で学んだどの魔法よりも、難しい任務になりそうだった。




