第12話 貴族と平民の教室
勇者学校の一年二組には、見えない線がある。
床に引かれているわけではない。
机の配置で決まっているわけでもない。
教師がそう指示したわけでもない。
けれど、朝の教室へ入った瞬間、私はそれを感じた。
前方右側には、クロード・レインハルトを中心とした貴族生徒たち。
姿勢がよく、制服の着こなしも整っており、会話の声量も控えめだ。
彼らは互いの家名を知っている。
誰の父がどの役職に就いているか。
どの家が王都に屋敷を持っているか。
どの家が国境防衛に関わっているか。
そうした情報を、挨拶の一部として交換している。
対して、教室の後方や窓側には平民出身の生徒が多かった。
声が少し大きく、荷物も実用的で、制服に着られているような者もいる。
彼らは貴族生徒の席に近づく時、ほんの少しだけ声を落とす。
遠慮。
警戒。
慣れ。
おそらく、そのすべて。
人間社会には身分差がある。
それは昨日の弁当の一件でも理解した。
だが、こうして教室全体を眺めると、それは一人の発言だけでなく、空気そのものに染み込んでいるのだと分かる。
私は自分の席に座り、心の中で記録した。
――一年二組、貴族・平民間に非公式な境界線あり。
――明文化されていないが、生徒の行動に影響。
――組織運営上、放置すると不満蓄積の恐れ。
「ルシェラ、また難しい顔してる」
隣の席で、ティナが苦笑した。
彼女は今朝も明るい。
だが、クロードたちの方へ視線を向ける時だけ、ほんの少し肩の力が入る。
「教室内の配置を観察していました」
「配置?」
「貴族生徒と平民生徒が、自然に分かれています」
「あー……まあ、そうだね」
ティナは少し困ったように笑う。
「でも、最初はそんなもんじゃない? 知ってる人同士で固まるし」
「それだけではないように見えます」
「……ルシェラ、よく見てるね」
「敵情――いえ、学級生活の把握は重要です」
「今ちょっと危なかったよ」
「自覚しています」
自覚しているだけでは不十分だ。
改善が必要である。
ティナは頬杖をつき、前方の貴族生徒たちをちらりと見た。
「貴族の子ってさ、別にみんな嫌な人じゃないんだよ」
「はい」
「でも、なんか緊張するんだよね。言葉遣いとか、家のこととか、知らないと失礼かなって」
「それは、ティナが相手に配慮しているということですか」
「まあ、そうかな」
「では、相手もティナに同程度の配慮を?」
ティナは答えに詰まった。
その沈黙が、答えだった。
「……ルシェラって、たまにすごく逃げ場ないこと言うよね」
「アレンにも似たことを言われました」
「たぶん、アレンの言う通り」
ティナは笑ったが、その笑顔は少し弱い。
私は、これ以上深追いしないことにした。
友人関係において、相手の傷口を確認する時は慎重に行うべきである。
おそらく。
授業前の教室では、ポルカが黒板横の掲示板を真剣に見ていた。
掲示板には、今日の授業予定、提出物、校内案内、寮の連絡、掃除当番の表が貼られている。
ポルカはそれらを一つ一つ確認し、小さな手帳に写していた。
「ポルカ」
「ひゃいっ!? あ、ルシェラさん。おはようございます。僕は不審なことをしていたわけではなく、掲示情報の把握を」
「有用です」
「えっ」
「掲示板は情報源です。確認する習慣はよいと思います」
ポルカの目が少し輝いた。
「そ、そうですか? 僕、怖いから確認してるだけなんですけど……どこで何を忘れて怒られるか分からないし……」
「恐怖を情報収集に変換しているのですね」
「なんか格好よくなった!」
ポルカは少し嬉しそうにした。
彼は臆病だ。
しかし臆病だからこそ、危険や変更に敏感である。
この教室における情報係として有用。
いや。
友人としても、放っておけない。
私は少しずつ、言葉の置き換えに慣れてきた気がする。
教室の後方では、アレンが机に突っ伏していた。
眠っているように見える。
しかし、時々片目だけ開けて周囲を見ている。
完全に寝てはいない。
彼の前の席では、何人かの男子生徒が小声で話していた。
「今日の基礎剣術、ペア組むらしいぞ」
「貴族組はもう決まってるんだろ」
「平民だけで組んだら、評価低く見られるかな」
「アレンとだけは組みたくないな。フォルク家なのに適性低いし」
アレンは動かなかった。
聞こえているはずだ。
だが、反応しない。
反応しないことに慣れている。
私はその様子を見て、胸の奥が少し硬くなった。
弱い者を笑う。
勇者学校とは、弱い者を鍛える場所ではないのか。
昨日も思った疑問が、また浮かぶ。
その時、クロードが前方で立ち上がった。
彼の周囲にいた貴族生徒たちが、彼を見る。
「今日の基礎剣術では、できるだけ実力の近い者同士で組むべきだ。初回から無理な組み合わせをしても、互いの訓練にならない」
言葉だけ聞けば正しい。
実力差が大きすぎれば、訓練効率が落ちることはある。
しかし、教室の空気は少し違った。
貴族生徒は貴族同士。
平民生徒は平民同士。
低適性の者は余る。
そんな流れが、言葉の下に見える。
ティナも気づいたらしい。
彼女は小さく眉を寄せた。
「それって、結局いつもの組み合わせになるんじゃない?」
クロードはティナを見た。
「マール。訓練では効率も大切だ」
「でも、いろんな人と組む練習も必要って、グレイン先生が言ってたよ」
「段階があると言っている。基礎も固まっていない者と組めば、怪我の危険もある」
クロードの言い分は完全な間違いではない。
むしろ、かなり現実的だ。
だが、その現実的な言葉が、結果として誰かを外す理由にもなっている。
人間社会の問題は、完全な悪意で起こるわけではないらしい。
正しさの一部が、別の誰かを押し出す。
興味深い。
そして、厄介だ。
「怪我の危険なら、先生が見てくれるでしょ」
ティナが言う。
クロードは少し苛立ったように返した。
「教師に頼りきる前提では成長しない。そもそも、君たち平民は――」
そこで、言葉が止まった。
言いすぎたと気づいたのだろう。
だが、途中まででも十分だった。
教室の空気が硬くなる。
平民生徒たちが黙る。
貴族生徒たちも、少し気まずそうに視線を逸らす。
ティナの表情から、笑顔が消えた。
「君たち平民は、何?」
ティナの声は明るくなかった。
クロードは口を引き結ぶ。
「……言い方が悪かった」
「悪かっただけ?」
「基礎訓練の経験に差があると言いたかった」
「だったら最初からそう言えばいいじゃん」
「だから、そう言い直している」
二人の間に、見えない線が濃くなる。
これはまずい。
小さな揉め事だ。
だが、こうした小さな不満が積み重なれば、部隊は崩れる。
いや、クラスは崩れる。
私は静かに立ち上がった。
アレンが後ろで顔を上げる。
彼は「また何か言う気か」という顔をしていた。
その通りである。
「クロード」
「今度は何だ、ルシェラ・ディア」
「確認します。あなたは、実力差による怪我の危険を懸念しているのですね」
「そうだ」
「ティナは、固定された身分ごとの組み合わせによって、相互理解の機会が失われることを懸念している」
ティナが少し驚いた顔をした。
「たぶん、そう」
「両方とも、完全には間違っていません」
教室が静かになる。
私は続ける。
「ならば、問題は組み合わせの決め方です。身分ではなく、目的で分けるべきです」
「目的?」
クロードが眉をひそめる。
「はい。基礎の確認をしたい者同士。弱点を補いたい者同士。自分と違う役割を知りたい者同士。そう分ければ、実力差も身分差も理由ではなくなります」
「言うのは簡単だが、誰が決める」
「教師です」
私は即答した。
「もしくは、全員の希望と不安を書き出し、見える形にしてから調整します」
ティナが首を傾げる。
「不安を書き出す?」
「はい。各自が何を不安に思っているか、何を学びたいかを出します。そうすれば、表に出ていない不満も確認できます」
魔王軍でも、混成部隊の訓練前には不満点を集めることがある。
ただし、その後に責任者の処罰が検討される場合もある。
私はその言葉を飲み込んだ。
ここは勇者学校。
処罰ではなく、調整。
覚えている。
成長している。
しかし、クロードは少し苦い顔をした。
「全員の不満など聞いていたら、収拾がつかない」
「聞かない方が、収拾がつかなくなる可能性があります」
私は教室を見渡した。
「先ほどから、この教室には言葉にされていない不満があります。貴族は平民の経験不足を不安に思い、平民は貴族の線引きに不満を持ち、低適性者は組む相手がいなくなることを予想している」
アレンが片眉を上げた。
「おい、低適性者って俺か」
「主に」
「主にって言うな」
少しだけ空気が緩んだ。
ティナが小さく笑いかけ、ポルカもほっとした顔をする。
クロードは腕を組んだ。
「君は、ずいぶん勝手に教室を分析するんだな」
「はい」
「否定しないのか」
「必要ですので」
「何のために」
「同じクラスだからです」
口にして、自分でも少し驚いた。
敵組織の混成部隊だから。
潜入先の人間関係を把握するため。
そう言うべきところだった。
だが、出た言葉は違った。
同じクラスだから。
ティナがこちらを見て、少し嬉しそうにした。
クロードは言葉に詰まったようだった。
アレンは、やれやれという顔で机に顎を乗せる。
「先生が来る前から学級会かよ」
「学級会とは何ですか」
「こういう面倒な話し合い」
「なるほど。有用そうです」
「そこは嫌がれ」
その時、教室の扉が開いた。
グレイン・バルドが入ってくる。
一瞬で教室が静まった。
グレインは教室全体を見渡し、私が立っていること、クロードとティナの空気が硬いこと、アレンが面白そうに見ていることを順番に確認した。
「何かあったか」
短い問い。
だが、隠しても意味はなさそうだった。
私は姿勢を正す。
「基礎剣術のペア分けについて、意見の相違が発生していました」
「ほう」
「実力差による怪我の危険、身分による固定化、低適性者が余る問題が議題です」
「勝手に議題を増やすな」
アレンがぼそっと言った。
グレインは少しだけ目を細めた。
怒っているのかと思ったが、どうやら違う。
「続けろ」
「全員の不満と希望を一度書き出し、訓練目的ごとに組み合わせを調整するのが合理的かと」
言い終えると、教室は静かになった。
グレインはしばらく黙った後、黒板の横に置かれていた白紙の束を取った。
「面白い」
そう言った。
「なら、やってみろ」
「はい?」
「ディア。お前が言い出した。全員に書かせろ」
教室がざわつく。
ティナが目を丸くする。
クロードも驚いた顔をした。
アレンだけは、口元を押さえて笑いを堪えていた。
「先生、それは」
私が言いかけると、グレインは淡々と言った。
「勇者学校では、思いつきを口にした者にも責任を取らせる」
なるほど。
人間界の教育機関は、発言責任を重視するらしい。
これは魔王城と似ている。
私は白紙の束を受け取った。
「承知しました」
グレインは頷く。
「授業開始まで十分ある。まとめろ」
十分。
短い。
だが不可能ではない。
私は教壇の前へ移動し、教室全体を見渡した。
新入生たちの視線が集まる。
また目立っている。
潜入任務上、よくない。
しかし、もう始めてしまった。
私は白紙を配る。
「全員、不満と不安を書き出してください」
教室が静まる。
私は続けた。
「訓練で困ること、組み合わせで不安なこと、相手に配慮してほしいこと。名前は書いても書かなくても構いません」
ティナが真剣な顔で紙を受け取る。
ポルカは震えながらも書き始めた。
クロードは少し迷った後、羽ペンを取る。
ミナも黙って書く。
アレンは頬杖をついたまま、私を見ていた。
「アレンも書いてください」
「俺も?」
「はい」
「不満が多すぎて紙が足りないかもしれないぞ」
「追加で配ります」
「真面目か」
「真面目です」
アレンは小さく笑い、渋々羽ペンを取った。
教室中に、紙へ文字を書く音が広がる。
不思議な光景だった。
貴族も平民も、得意な者も苦手な者も、同じ紙に自分の不安を書いている。
まだ何も解決していない。
だが、少なくとも見えない線の一部が、紙の上に出てくる。
私は黒板の前に立ちながら、心の中で記録した。
――一年二組、初期不満の可視化を開始。
――貴族と平民の線は深いが、対話の余地あり。
――グレイン教師、放任ではなく生徒に責任を取らせる方針。
――発言には責任が伴う。注意。
そして、もう一つ。
――同じクラスだから、という言葉が出た。理由は不明。継続観察が必要。
紙が集まり始める。
その量を見て、私は少しだけ息を呑んだ。
不満は、思ったより多い。
ならば、処理しなければならない。
魔王軍式なら、まず不満の分類、次に責任者の特定、最後に処刑――。
いや。
違う。
ここは勇者学校だ。
処刑ではない。
反省会。
調整。
話し合い。
私は自分に言い聞かせる。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
次に自分が、教室中を凍りつかせる一言を口にすることを。




