第11話 携帯兵糧ではなく、お弁当
勇者学校で迎える最初の朝は、鐘の音から始まった。
魔王城の朝は、もう少し重々しい。
遠くで魔獣が吠え、訓練場では兵士たちの掛け声が響き、廊下ではノノが無音で扉を開ける。
対して、勇者学校の女子寮は明るかった。
鐘が鳴り、誰かが廊下で「寝坊した!」と叫び、別の誰かが「リボン知らない!?」と叫び、さらに別の誰かが「朝ご飯終わっちゃう!」と叫ぶ。
敵地の朝にしては、かなり騒がしい。
私はベッドの上で身を起こし、まず窓を見る。
鍵は閉まっている。
次に扉。
昨夜確認した通り、異常なし。
ティナは窓側のベッドで毛布にくるまり、まだ眠っていた。
ミナはすでに起きており、静かに弓の弦を確認している。
朝から武器の状態確認。
よい習慣だ。
「おはようございます、ミナ」
「……おはよう」
ミナは短く返した。
彼女の視線が私の手元に移る。
私は寝る前に枕元へ置いていた小さな短杖を確認していた。
「それ、毎朝見るの?」
「はい。異常があれば困ります」
「そう」
「ミナも弓を確認していますね」
「うん」
「合理的です」
ミナは少しだけ不思議そうな顔をした。
「そういうふうに言うんだ」
「他にどう言えば?」
「別に。悪くない」
悪くない。
これは、好意的評価と見てよいのだろうか。
慎重に記録する。
ミナとの関係、わずかに改善の可能性あり。
「んん……あと五分……」
ティナが毛布の中で呻いた。
「ティナ。起床時間です」
「あと五分だけ……」
「鐘はすでに鳴りました」
「鐘が早いんだよぉ……」
「鐘に責任を転嫁しても、朝食時間は延長されません」
「言い方が厳しい……」
ティナはようやく起き上がった。
髪が跳ねている。
彼女は眠そうな目で私を見て、それからミナを見て、最後に自分の髪を触った。
「うわっ、ひどい! ルシェラ、なんでもうそんなに整ってるの!?」
「起床後すぐに身支度を済ませました」
「早すぎるよ!」
「魔王――いえ、辺境の家では、朝の準備は迅速に行うものと教わりました」
「今、何か言いかけなかった?」
「気のせいです」
ミナの視線が一瞬こちらに向いた。
危ない。
朝は注意力が落ちる。
今後、起床直後の発言管理を強化する必要がある。
三人で食堂へ向かう。
廊下は昨夜以上に騒がしかった。
新入生たちはまだ寮の構造に慣れておらず、あちこちで道を間違えている。
階段の前では、ポルカが男子寮側から走ってきていた。
なぜ女子寮側にいるのか。
「ポルカ」
「ひゃっ!? あ、ルシェラさん! 違うんです! 僕は女子寮に侵入しようとしたわけではなく、食堂へ行こうとして、気づいたらここに!」
「経路を誤ったのですね」
「はい! 地図は見たんです! 見たんですけど、廊下が僕を惑わせてきて!」
「廊下は惑わせません」
ミナが静かに言った。
ポルカはびくっとした。
「ミナさんの正論、朝から鋭い……!」
ティナが笑いながらポルカの背を押した。
「ほら、一緒に行こ。食堂はこっち」
「助かります……朝食に辿り着けないまま一日が終わるかと……」
「終わらないよ」
朝食は、昨日の夕食よりも簡素だった。
パン、スープ、卵、焼き野菜。
私は栄養配分を確認しつつ食べる。
ティナはパンにジャムを塗りすぎている。
ポルカは周囲を警戒しながら、卵を大事そうに食べている。
ミナは静か。
食堂の向こう側には、アレンがいた。
彼は一人で座り、パンをかじりながら教科書を眺めている。
勉強熱心というより、周囲と会話しない口実に見えた。
クロードは貴族生徒たちと同じ席にいる。
姿勢がよい。
朝食中でも家柄の威厳を維持している。
人間社会では、食事の席にも階層が出るらしい。
私は観察を続けようとしたが、ティナに止められた。
「ルシェラ、ご飯中に周りを分析する顔してる」
「していましたか」
「してた」
「改善します」
「改善っていうか、もっと普通に食べよ?」
「普通に食べる」
普通。
やはり難しい。
朝食後、私たちは一年二組の教室へ向かった。
今日から本格的な授業が始まる。
最初の授業は、担任グレインによる基礎戦術講義だった。
彼は黒板に大きくこう書いた。
――勇者とは何か。
教室が静かになる。
グレインは振り返り、生徒たちを見た。
「お前たちは勇者学校に入った。だが、全員が勇者になるわけではない」
その言葉に、数人が息を呑んだ。
アレンは頬杖をついたまま、少しだけ目を細める。
「勇者の名を得る者は、ごくわずかだ。多くは騎士、魔法士、治癒士、斥候、伝令、研究員、あるいは別の道へ進む。それでもこの学校で学ぶ意味はある」
グレインの声は硬い。
だが、冷たくはない。
「勇者とは、強い者の名ではない」
黒板に、次の一文が書かれる。
――最後に逃げなかった者の名だ。
私はその文字を見た。
最後に逃げなかった者。
魔王城では、逃げることを一概に否定しない。
生きて帰ることも任務である。
ノノもそう言った。
生きて帰ることが最優先。
だが、グレインの言葉は「逃げるな」とは少し違う気がした。
最後に。
つまり、逃げるべき時を知ったうえで、それでも立つべき時に立つ者。
そういう意味かもしれない。
「先生」
クロードが手を挙げた。
「では、力のない者でも勇者になれると?」
教室の空気が少し動く。
アレンへの視線が混じった。
グレインはクロードを見る。
「力の種類による」
「種類、ですか」
「剣の力、魔法の力、治癒の力、見る力、逃がす力、耐える力。戦場で必要なものは一つではない」
アレンの指が、机の上で止まった。
私はそれを見た。
彼も聞いている。
「ただし」
グレインの声が低くなる。
「自分の弱さを言い訳にする者は、何者にもなれん」
厳しい。
だが、必要な言葉でもある。
アレンは顔を上げない。
クロードも黙った。
ティナは真剣にノートを取っている。
ポルカは「逃がす力……逃げてもいい力……?」と小さく呟いている。
ミナは黒板を静かに見ている。
私はグレインの言葉を心の中で記録した。
勇者とは、強い者の名ではない。最後に逃げなかった者の名。
これは人間側の勇者観として重要。
同時に、アレン・フォルクの今後に関わる可能性あり。
午前の授業は、基礎戦術、校則説明、魔法安全講義と続いた。
校則説明では、廊下での魔法使用禁止、無断決闘禁止、召喚獣の持ち込み制限、食堂での魔法加熱禁止などが告げられた。
私は一つ一つ確認する。
無断決闘禁止。
つまり、許可があれば決闘可能なのか。
そこを質問しようとしたが、ティナに袖を引かれた。
「聞かない方がいいよ」
「なぜですか」
「たぶん目立つ」
「……承知しました」
危なかった。
午前の授業が終わると、昼食時間になった。
この学校では、食堂へ行く者もいれば、教室や中庭で持参した弁当を食べる者もいるらしい。
弁当。
ノノから厳重に注意された言葉である。
携帯兵糧ではない。
お弁当。
かわいく言う必要あり。
「ルシェラ、お昼どうする?」
ティナが椅子をこちらへ向けた。
「食堂を利用する予定です」
「えー、せっかくだし今日は教室で食べようよ。あたし、お弁当持ってきたんだ!」
来た。
お弁当。
私は慎重に頷いた。
「お弁当ですね」
「そう、お弁当!」
「携帯兵糧ではなく」
「そう! 分かってるじゃん!」
「学習しました」
「偉い!」
褒められた。
人間は褒めると伸びる。
だが、魔王の娘も少し嬉しい。
私は自分の反応を心の中で記録する。
褒められると士気が上がる。人間に限らない可能性あり。
ティナは机の上に布包みを広げた。
中には、小さく握ったパン、焼いた肉、卵焼き、野菜の酢漬け、果物が詰められていた。
彩りがよい。
保存性と栄養配分も悪くない。
魔王軍の遠征食に比べると、かなり柔らかい。
「これが、お弁当」
「うん。家で作ってきたんだ。昨日のうちに下ごしらえして、朝に詰めて」
「手間がかかっていますね」
「まあね。でも、好きなんだ。誰かと食べるの」
ティナは照れくさそうに笑った。
誰かと食べるのが好き。
食事を単なる補給ではなく、関係構築の場として扱う傾向。
昨日の夕食でも確認した仮説だ。
私は興味深く弁当を見つめていた。
すると、ティナが卵焼きを一つ、私の前に差し出した。
「はい、ルシェラ。食べてみて」
食糧の分与。
再び。
今回は明確にお弁当のおかずである。
ノノの講義が頭の中に蘇る。
友人から食べ物を分けてもらった場合。
感謝して受け取る。
補給線の共有と言ってはいけない。
心理的負債を心配しすぎてはいけない。
私は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「どうぞどうぞ」
私は卵焼きを食べた。
甘い。
少し塩気もある。
柔らかい。
魔王城の料理人が作る卵料理より素朴だが、温かい味がする。
「おいしいです」
「ほんと?」
「はい。補給効率だけでなく、士気向上効果が高いです」
「惜しい! でも褒めてるのは分かる!」
「褒めています」
ティナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は少しだけ理解した。
彼女は食べ物を分けることで、何かを得ようとしているのではない。
ただ、相手が喜ぶのを見たいのだ。
無償の食糧提供。
心理的負債ではなく、友人関係の表現。
人間社会は複雑だ。
だが、すべてが危険というわけではないらしい。
「それで、ルシェラのお昼は?」
「私は食堂を利用する予定だったので、持参していません」
「じゃあ、これ半分食べていいよ」
「半分」
「うん。多めに作ってきたし」
「それは、かなり大きな補給線の――」
言いかけて止まる。
ティナがじっと私を見る。
私は言い直した。
「……お弁当の共有ですね」
「よし!」
ティナが親指を立てた。
成長している。
私は自分を少し褒めた。
ただ、弁当を半分もらうのはさすがに重い。
何か対価を考えるべきか。
いや、友人関係では「ありがとう」で十分な場合がある。
だが、継続的な一方通行は関係の不均衡を招く。
「ティナ」
「うん?」
「次回は、私も何か用意します」
「え、ほんと? 楽しみ!」
「携帯兵糧を」
「お弁当!」
「お弁当を」
「よし!」
魔王城式の保存食をそのまま出すのは危険だろう。
ノノに相談する必要がある。
通信石は緊急用なので使えない。
手紙か。
人間界のお弁当について、ノノに教えを請うべきかもしれない。
その時、教室の前方から声がした。
「平民の弁当を、辺境貴族の娘が分けてもらうのか」
クロードだった。
彼は自分の席で、きちんとした昼食の包みを広げている。
その周囲には数人の貴族生徒。
声には露骨な悪意はない。
だが、身分差を意識した響きがあった。
ティナの手が止まる。
彼女は笑おうとしたが、少し表情が硬い。
「いいじゃん、別に。友達なんだし」
「悪いとは言っていない。ただ、家の格というものもある」
「弁当のおかずに家の格が関係するのですか」
私が尋ねると、クロードは少し顔をしかめた。
「そういう単純な話ではない」
「では、どういう話でしょう」
「貴族には貴族の、平民には平民の距離感がある。無用な馴れ合いは、互いの立場を曖昧にする」
「なるほど」
私は頷いた。
「つまり、身分が上の者は、下の者から食糧提供を受けるべきではないということですか」
「まあ、簡単に言えばそうだ」
「では、身分が上の者は、下の者へより多く提供する責任があるのですね」
クロードが止まった。
教室の空気も少し止まる。
ティナが小さく「あ」と言った。
「……それは」
「身分が上なら責任も上。昨日あなたが言っていたことと一致します。であれば、平民から一方的に受け取るのが問題なら、貴族側がより多く支援すれば均衡します」
「君は、またそういう」
「合理的では?」
「正論で殴るな」
後ろからアレンの声がした。
彼は自分の席で、硬そうなパンをかじっていた。
いつの間に聞いていたのか。
「ルシェラ、それたぶん正しいけど、クロードの逃げ道も残してやれ」
「逃げ道」
「言い返せなくなるだろ」
「議論では、誤りがあれば修正すべきでは」
「お前、ほんと敵に回したくないな」
アレンは呆れたように言った。
クロードは咳払いをする。
「別に、支援を否定しているわけではない。貴族には責任がある。それは当然だ」
「では、ティナのお弁当を問題視する必要はありませんね」
「……今回に限っては、そうだな」
「承知しました」
私は頷いた。
ティナが横で小さく笑っている。
「ルシェラ、ありがと」
「私は確認しただけです」
「それでも、ありがと」
ティナの声は少し柔らかかった。
私は卵焼きの残りを見た。
平民の弁当。
貴族の距離感。
身分差。
ティナは明るく振る舞っているが、こういう場面で遠慮を求められてきたのだろう。
クロードは悪人ではない。
だが、身分という枠組みを当然のものとして話す。
人間社会にも階層がある。
魔王城の階級制度とは違うが、確かにある。
私は心の中で記録した。
人間社会における身分差は、食事や交友にも影響。
ティナは平民として遠慮を抱えている可能性。
クロードは責任という言葉に反応する。活用可能。
その時、アレンが私の机の横まで来た。
「で」
「はい」
「お前、わざとやってるのか?」
私は首を傾げる。
「何をでしょう」
「クロードを黙らせるやつ」
「黙らせる意図はありません。論点を整理しただけです」
「それが一番怖いんだよ」
「怖いですか」
「怖いというか、面倒というか……いや、面白いけど」
アレンはそう言って、ティナの弁当をちらりと見た。
「うまそうだな」
「食べる?」
ティナがすぐに聞く。
「いや、いい。俺はこれがある」
アレンは硬そうなパンを掲げた。
それは昼食というより、非常用保存食に近い。
私は少し気になった。
「アレン、それはお弁当ですか」
「購買で買ったパン」
「栄養配分が偏っています」
「腹に入ればいいだろ」
「活動効率が下がります」
「お前は俺の食事管理係か」
「必要であれば」
「要らない」
即答。
だが、彼の食事は本当に偏っている。
落ちこぼれ勇者候補の観察継続には、栄養状態も重要かもしれない。
ティナが笑いながら、卵焼きを一つアレンに差し出した。
「はい、アレンも食べなよ」
「いらないって」
「いいから。余ってるし」
「余ってるって量じゃないだろ」
「友達だからいいの」
友達。
ティナはまた簡単に言う。
アレンは一瞬だけ困ったような顔をした。
それから、ぶっきらぼうに卵焼きを受け取る。
「……どうも」
「どういたしまして!」
アレンはそれを食べた。
表情が少しだけ変わる。
「うまいな」
「でしょ!」
ティナが嬉しそうに笑う。
私はその様子を見た。
食糧の共有。
士気向上。
関係改善。
やはり弁当には、戦略的価値がある。
ただし、そう言うとティナに訂正されるだろう。
私は言葉を選んだ。
「お弁当は、重要ですね」
「うん! お弁当は大事!」
ティナは満足そうに頷いた。
昼食後、午後の授業が始まった。
魔法安全講義。
基本詠唱の復習。
寮生活の注意。
私はノートを丁寧に取る。
人間式魔法の説明には、魔族式から見ると非効率な部分もある。
だが、今は黙っている。
訂正したくなっても黙る。
ノノの教えは偉大だ。
放課後。
教室を出ようとすると、ティナが私の隣に並んだ。
「ルシェラ、今日はありがとね」
「弁当の件ですか」
「うん。クロードに言ってくれたこと」
「私は論点を確認しただけです」
「それでも、嬉しかった」
ティナは少し照れたように笑う。
「あたし、平民だからさ。貴族の子と話す時、ちょっと気を使うんだよね。別にみんな嫌な人ってわけじゃないけど、なんか、線があるっていうか」
「線」
「うん。でもルシェラ、そういうの気にしないでしょ」
「身分差は認識しています」
「認識してても、気にし方が違うんだよ」
ティナは私を見た。
「ルシェラって変だけど、公平だよね」
公平。
その言葉は、少し意外だった。
私は公平であろうとしたのではない。
ただ、身分が上なら責任も上だと考えただけだ。
魔王城でも、上に立つ者ほど責任を負う。
父上がそうだった。
だから、当然だと思った。
「公平であることは、組織維持に必要です」
「ほら、そういうとこ」
ティナは笑う。
「でも、ありがと」
私は少しだけ目を伏せた。
「どういたしまして」
そう答えると、ティナはさらに嬉しそうにした。
ありがとう。
どういたしまして。
簡単な言葉。
だが、人間関係では重要らしい。
寮へ戻る途中、ミナが少し前を歩いていた。
彼女はこちらを振り返り、短く言った。
「ルシェラ」
「はい」
「今日の、弁当の話」
「はい」
「……悪くなかった」
それだけ言って、ミナは先に歩いていった。
ティナが小声で囁く。
「ミナがああ言うの、けっこう珍しいと思う」
「そうなのですか」
「うん。たぶん、褒めてる」
「褒めている」
私はミナの背中を見た。
対魔族感情あり。
警戒対象。
接し方に注意。
その分類の横に、新しい情報を加える。
不公平を嫌う可能性。
そして、少しだけ、会話の余地あり。
その夜。
私は寮の机で、父上への報告書の下書きをした。
正式な報告はまだ送らない。
だが、記録は必要だ。
――勇者学校初日。
――人間社会では、食事の共有が友人関係を強化する。
――弁当は携帯兵糧ではない。お弁当と呼称する必要あり。
――平民と貴族の間には見えない線が存在。
――身分が上なら責任も上、という論理は一定の効果あり。
――アレン・フォルク、栄養状態に課題あり。
――ティナ・マール、食糧共有による士気向上能力が高い。
そこまで書いて、私は羽ペンを止めた。
最後に一行、迷いながら書き足す。
――お弁当を分けてもらうと、少し嬉しい。
報告書としては不適切かもしれない。
だが、事実ではある。
私はその一文を消そうとして、しばらく迷った。
結局、消さなかった。




