009 発動条件その二、解除
「確認いたしました」
私が告げた瞬間、大司教ウルリッヒの顔が凍った。
遅い。
もう、言った。
罪など、後から整えればよい。
必要なのは、ヴァルトハイムの血。
その血を、罪人の血として神へ捧げること。
そして、聖女リリス様を神の器にすること。
王妃陛下が聞いた。
王太子殿下が聞いた。
リリス様が聞いた。
ライナス様が聞いた。
近衛騎士が聞いた。
教会の神官たちも聞いた。
ここまでは、百回の失敗から辿り着いた答えだった。
大司教に、自分の口で言わせる。
私に罪があったから裁いたのではない。
神降ろしに必要な血を使うために、私を罪人へ仕立てたのだと。
発動条件その二。
それは、私が罪人として固定されること。
王太子殿下が、私を王家の守りから切り捨てる。
聖女が涙で、私の罪を示す。
貴族たちが沈黙で、それを認める。
教会が祈りで、私を清める。
その形が揃って初めて、私は「自らの罪で落ちた者」になる。
けれど、大司教猊下は今、ご自身で壊した。
これは、罪を裁く儀式ではない。
神降ろしのために、ヴァルトハイムの血を奪う儀式だと。
ならば、私は罪人ではない。
仕立てられた、生贄だ。
「王妃陛下」
私は静かに言った。
「この儀式は、断罪ではございませんでした」
王妃マーガレット陛下の目が、床の赤い文字へ落ちる。
生贄。
その文字は、まだ祈りの間の中央に浮かんでいた。
「私に罪があったから、裁かれたのではありません」
私は大司教を見る。
「神を降ろすために、罪人へ落とされたのです」
祈りの間が、静まり返った。
リリス様が、震える声で言う。
「神の……器……」
その声は小さかった。
けれど、痛いほど届いた。
「私は……神になりたいなんて、言っていません」
大司教の目が、リリス様へ向く。
優しい目ではなかった。
「あなたは選ばれたのです」
「違う」
リリス様が、首を横に振る。
「私は、何を言えばいいのか教えられていただけです。いつ泣けばいいのか。どこで怯えればいいのか。誰を悪く見ればいいのか」
涙が落ちた。
今度の涙に、香りはない。
「神の器になりたいなんて、一度も言っていません」
大司教の顔から、慈悲が消えた。
「何も知らぬ器が、神の御心を語るな」
祈りの間が凍った。
その一言で、リリス様の肩が震える。
彼女は加害者だ。
私を陥れた。
何度も泣いた。
何度も会場を私への憎悪へ傾けた。
けれど、この人にとってリリス様もまた、人ではなかった。
器。
それだけだった。
王妃陛下の声が、低く落ちる。
「大司教。今の言葉も、記録しなさい」
「はっ」
近衛騎士が筆を走らせる。
大司教の視線が、そこへ動いた。
遅い。
もう、全部見られている。
床の赤い線が震えた。
王太子殿下の木札から、私の木札へ。
私の木札から、祈りの間の中央へ。
そして、リリス様の足元へ。
神を降ろすための道筋が、そこに見えていた。
けれど、大司教猊下の言葉を聞いた瞬間、その線が止まる。
私の名へ向かっていた赤い線が、途中でほどけた。
王太子殿下の木札と、私の木札を結んでいた線が切れる。
床に浮かんだ「罪の承認」の文字が、中央から割れた。
罪人として固定する条件は、崩れた。
「なぜ……」
大司教が、低く呻いた。
「なぜ、止まる」
「罪人ではないからでございます」
私は答えた。
「あなた様が、そう証明なさいました」
赤い線が、さらにほどける。
もう、私の名は床へ沈まない。
声も奪われない。
膝も折れない。
百回、逃れられなかった線が、初めて途切れていく。
大司教が震える指で聖印を切った。
「まだ……祈りは……」
何も起きなかった。
燭台の火は戻らない。
床の線も光らない。
神官たちの祈りも、もう儀式を動かさない。
大司教の顔から、初めて余裕が消えた。
王妃陛下が、静かに告げる。
「大司教ウルリッヒを拘束しなさい」
近衛騎士が動いた。
大司教は顔を上げる。
「王妃陛下、これは」
「王城内で、王太子と公爵令嬢を用いた強制儀式を行った疑いです」
「私は、神の」
「神の名を使って、二人の人間を道具にした疑いです」
王妃陛下の声は冷たかった。
「聖女を器と呼び、公爵令嬢を生贄と呼んだ。その言葉は、ここにいる全員が聞きました」
近衛騎士が、大司教の両腕を押さえる。
誰も止めなかった。
神官たちでさえ、動けなかった。
大司教ウルリッヒは、初めて王妃陛下より低い位置で膝をついた。
もう、聖職者の顔ではない。
ただ、自分の言葉で儀式を失った男だった。
祈りの間の赤い線は、私の木札から完全に消えていた。
残ったのは、割れた台。
砕けた木札。
沈黙した銀鈴。
黒く変色した白い灰。
そして、静まり返った証人たち。
私は息を吸う。
ここで言わなければならない。
第一条件は、王太子殿下の宣言を止めた。
第二条件は、今、崩れた。
「罪人として固定する条件は、崩れました」
私は扇を伏せる。
「発動条件その二、解除」
祈りの間の床が、音を立てて割れる。
赤い文字が、砕けて光になる。
罪の承認という文字が崩れた。
生贄という文字が、中央から裂けた。
王太子の木札が割れる。
私の木札も割れる。
白い灰が、黒く焼け落ちる。
光が弾けた。
祈りの間の窓が震える。
燭台の火が一斉に消える。
神官たちが床へ膝をつく。
リリス様が、小さく息を呑んだ。
「声が……」
彼女が喉に手を当てる。
「誰の言葉も、聞こえない……」
それは、初めてリリス様の中から、教会の言葉が消えた瞬間だった。
エドワード殿下は、割れた木札を見ている。
顔は青ざめていた。
けれど、もう私へ赤い線は伸びていない。
王妃陛下が、静かに命じる。
「大司教を連れて行きなさい。神官たちは全員、別々に監視。聖女リリス嬢は保護します。ただし、証人として扱います」
「はっ」
近衛騎士たちが動く。
大司教は最後まで、私を見ていた。
その目には、もう慈悲も余裕もなかった。
あるのは、憎悪だけだった。
「アリシア・ヴァルトハイム……!」
初めてだった。
彼が私を、生贄でも罪人でも器でもなく、名前で呼んだのは。
「はい」
私は答えた。
「それが、私の名です」
大司教の顔が歪む。
その姿が、近衛騎士に連れられて祈りの間から消えていく。
終わった。
そう思った瞬間、身体から力が抜けた。
視界が揺れる。
あ。
まずい。
倒れる。
「アリシア嬢!」
王妃陛下の声が遠くなる。
床が近づく。
でも、衝撃は来なかった。
誰かの腕が、私を支えた。
ライナス様だった。
「今回は」
彼は低く言った。
「間に合ったか」
私は息を整えようとした。
うまくいかない。
身体は、もう限界だった。
けれど、言葉だけは返せた。
「……覚えておきます」
ライナス様が、ほんの少しだけ笑った気がした。
王太子の言葉は、もう届かない。
聖女の涙も、もう私を縛らない。
大司教の祈りも、もう私を運ばない。
百回死んだ夜が、初めて終わろうとしていた。
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