008 正当な生贄だ
「王太子をここへ」
王妃マーガレット陛下の声が、祈りの間に響いた。
「それから、聖女リリス嬢も」
大司教ウルリッヒの眉が動いた。
王太子の言葉。
聖女の涙。
その二つを使ったのなら、本人たちにも見せなければならない。
床には、赤い線が走っている。
王太子エドワード。
アリシア・ヴァルトハイム。
二枚の木札。
その下に浮かんだ文字は、罪ではなかった。
生贄。
近衛に支えられ、エドワード殿下が入ってきた。
顔色は悪い。
顎には布が当てられている。
それでも、目は開いていた。
続いて、リリス様が入る。
首飾りは外されていた。
左手首も、もう隠しきれていない。
泣いていない。
泣く役を、失った顔だった。
二人は床を見た。
王太子の名。
私の名。
赤い線。
生贄の文字。
エドワード殿下の唇が震えた。
「私は……アリシアを婚約者から外すつもりだった」
祈りの間が静まる。
私は黙っていた。
そこは否定しない。
この人は、私を捨てようとした。
それは、この人の罪だ。
「だが」
エドワード殿下の声が、かすれる。
「生贄にするつもりなど、なかった」
大司教の視線が、ほんの一瞬だけ動いた。
王妃陛下は、それを逃さない。
「夜会で宣言するよう、誰に勧められました」
「教会の者に」
神官の一人が、顔を伏せた。
「リリスを守るなら、公の場で示せと。王家の前で、貴族の前で、教会の前で、悪を切り捨てろと」
殿下は床を見たまま、低く言う。
「私は、それを正しいと思った」
「あなたの傲慢は、あなたのものです」
王妃陛下の声は冷たい。
「……分かっている」
「ですが、その傲慢を使った者は別にいます」
エドワード殿下は、何も言い返せなかった。
王妃陛下は、リリス様を見る。
「リリス嬢。あなたは、生贄の儀式だと知っていましたか」
リリス様は首を横に振った。
「知りません」
小さな声だった。
けれど、祈りの間には届いた。
「私は、罪を清めるのだと教えられました。悪い方が裁かれれば、王国は安らぐと。殿下も救われると」
リリス様は、大司教を見た。
肩は震えている。
それでも、目を逸らさなかった。
「いつ泣くか。どこで怯えるか。殿下に何を見せるか。全部、教えられました」
祈りの間が息を呑む。
「でも、生贄なんて、聞いていません」
「リリス」
大司教の声が落ちた。
優しい。
けれど、止める声だった。
リリス様は震えた。
それでも、口を閉じなかった。
「私は、何を言えばいいのか、いつも教えられていました」
大司教の微笑が消えた。
完全に。
王妃陛下が命じる。
「今の発言を残しなさい」
「はっ」
筆が走る。
大司教の視線が、筆へ動く。
この人が嫌がるのは、私が叫ぶことではない。
複数の口から、同じ方向の事実が出ることだ。
王太子は、生贄にするつもりはなかった。
聖女は、生贄だと知らなかった。
床には、生贄と出ている。
ならば。
ライナス様が、入口の近くで口を開いた。
「大司教殿」
大司教は、そちらを見る。
「王太子は知らなかった。聖女も知らなかった。床には生贄と出ている」
ライナス様は静かに問う。
「では、この生贄を知っていたのは誰だ」
祈りの間が静まり返った。
大司教は答えない。
王妃陛下が一歩前へ出る。
「答えなさい」
エドワード殿下が言う。
「私は……知らなかった」
リリス様も震えながら言う。
「私も、知りませんでした」
神官の一人が、耐えきれないように目を伏せた。
大司教の視線が、そこへ向く。
黙れ。
また、その目だった。
けれど、もう遅い。
全員が見ている。
大司教ウルリッヒは、ゆっくりと祭服の袖を下ろした。
「何も知らぬ者たちが」
声の温度が変わった。
祈りの間が凍る。
「表面だけを見て騒ぎ立てる。王国が何によって守られてきたかも知らずに」
王妃陛下の目が鋭くなる。
「それは、どういう意味です」
大司教は、もう王妃陛下を見ていなかった。
私を見ていた。
「その娘は、契約から逃れた」
背筋が冷える。
この人は、私の百回を知らない。
けれど、今夜の私が何度も手順を壊したことは見えている。
「王太子の言葉を止め、聖女の涙を乱し、祈りの手順を妨げ、王妃を巻き込み、隣国の目まで入れた」
大司教の声が、少しずつ強くなる。
「そこまでして、王国を支える契約を壊すつもりか」
私は、何も言わない。
言わせる。
今は、言わせる。
「罪人かどうかなど、些末なことです」
王妃陛下が息を呑んだ。
大司教は続ける。
「必要なのは、契約に適した血と立場。王家から切り離され、貴族に承認され、教会に清められた器」
祈りの間の赤い文字が、強く脈打つ。
生贄。
その二文字が、さらに濃くなる。
そして。
大司教ウルリッヒは、ついに言った。
「その娘は、王国を維持するための正当な生贄だ」
祈りの間が、完全に静止した。
王妃陛下が聞いた。
王太子殿下が聞いた。
聖女リリス様が聞いた。
ライナス様が聞いた。
近衛騎士が聞いた。
教会の神官たちも聞いた。
私は扇を伏せた。
震える指を、見せないように。
長かった。
百回、届かなかった言葉だ。
いつも私は、そこへ届く前に死んだ。
でも今回は、届いた。
「確認いたしました」
私が告げた瞬間。
大司教の顔が、凍った。
祈りの間の床が、大きく脈打つ。
赤い線が反転した。
私へ向かっていた線が、中央で折れる。
そして、大司教の足元へ走る。
大司教が初めて、一歩下がった。
遅い。
もう言った。
生贄は、罪人ではなかった。
断罪は、処罰ではなかった。
王国維持のための、強制だった。
契約は、その矛盾を聞いた。
床の赤い文字が、ひび割れる。
私は息を吸う。
まだ終わっていない。
でも、次の条件は揃った。
発動条件その二。
解除へ。
お読みいただきありがとうございます。
次回、断罪はさらに別の形で進みます。
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