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100回婚約破棄された悪役令嬢、101回目はグーパンで真ルートを開きます  作者: あゆと


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10/10

010 初見ですわ

 目を閉じるのが、怖かった。


 王城の客室は、静かだった。


 白い寝台。

 薄い天蓋。

 枕元の燭台。

 窓の外には、まだ夜が残っている。


 祈りの間から運ばれたあと、私は王妃陛下の命でこの部屋に休まされていた。


 医師は、疲労だと言った。

 外傷はない。

 魔力の乱れも、命に関わるほどではない。

 しばらく休めば戻る、と。


 正しい。


 身体は、ただの公爵令嬢なのだから。


 殴った。

 かわした。

 歩いた。

 祈りの間まで行った。

 立ち続けた。

 大司教に言わせた。


 限界が来るのは当然だった。


 でも。


 眠れない。


 眠れば、戻るかもしれない。


 次に目を開けた時、また断罪当日の朝かもしれない。


 侍女がカーテンを開ける。

 夜会用のドレスが用意される。

 王太子殿下が、夜会の中央で叫ぶ。


 アリシア・ヴァルトハイム。

 私は貴様との婚約を。


 そこから、また始まるかもしれない。


 百回、そうだった。


 死んで。

 戻って。

 失敗して。

 覚えて。

 また死んだ。


 今回だけ違うと、どうして言えるのか。


 大司教は拘束された。

 祈りの間は封鎖された。

 聖女リリス様は保護された。

 王太子殿下は王妃陛下の監視下に置かれた。

 帳簿も、銀鈴も、眠り香も、封印布も、木札も、王妃預かりになった。


 それでも。


 私は、翌朝を知らない。


 扉が静かに叩かれた。


「入ります」


 王妃マーガレット陛下の声だった。


 私は起き上がろうとした。


「そのままでよろしい」


 王妃陛下は短く告げる。


 命令だった。


 だから私は、半分だけ身を起こすに留めた。


 王妃陛下は、夜会の時とは違う深い藍の上衣をまとっていた。

 眠ってはいない顔だった。


 当然だ。


 今夜、王城の中で大司教が拘束され、聖女が証人となり、王太子は断罪未遂の当事者になった。


 眠れるわけがない。


 王妃陛下は、私の枕元へ古びた革表紙の記録を置いた。


「王家の封印記録です」


「私が拝見してよろしいものですか」


「あなたに関わるものです」


 私は、革表紙を見る。


 古い。

 けれど、大切に保管されていたものだ。


 表紙には、王家の紋章。

 その下に、小さくヴァルトハイムの名。


 胸の奥が、静かに鳴った。


「ヴァルトハイム公爵家の初代について、王家にだけ残る記録です」


 王妃陛下の声は、静かだった。


「建国時、教会は神を降ろそうとした。王家はそれを受け入れようとした。けれど、ヴァルトハイムだけは反対した」


 私は、指先で表紙に触れる。


「なぜです」


「記録には、こうあります」


 王妃陛下は、低く読んだ。


「人の国に、人でないものを王として招くべきではない」


 部屋が、しんと静まった。


 燭台の火が、小さく揺れる。


「そのため、ヴァルトハイムの血には、神降ろしへの拒絶が刻まれたとあります」


「拒絶……」


「ええ」


 王妃陛下は、私を見る。


「だから大司教は、あなたの血をそのまま使えなかった」


 私は息を止めた。


「公爵家の娘として。王太子の婚約者として。自分の意思を持つ者として。あなたの血は、神降ろしを拒む」


 王妃陛下の声が、冷える。


「だから、罪人にする必要があった」


 王太子に切り捨てられる。

 聖女に罪を示される。

 貴族に沈黙で認められる。

 教会に清められる。


 守られる公爵令嬢ではなく。

 自らの罪で落ちた者として。


 私を、拒めない形に落とすために。


「では、私は」


 声が掠れた。


「なぜ、戻ったのでしょう」


 王妃陛下は、すぐには答えなかった。


 代わりに、革表紙の記録を私の方へ少し寄せる。


「断言はできません」


 王妃陛下は言った。


「百回戻った理由など、私にも分かりません。王家の記録にも、同じ例はない」


 それは、そうだ。


 百回死んだのは、私だ。


 誰の記録にもあるはずがない。


「ですが、一つだけ言えます」


 王妃陛下は、私の目を見る。


「あなたの血は、最後まで捧げられることを拒んだのでしょう」


 喉の奥が、詰まった。


 神が助けたのではない。

 教会が奇跡を起こしたのでもない。

 運命が私を選んだのでもない。


 私の血が。


 ヴァルトハイムの血が。


 あの儀式に捧げられることを、拒み続けた。


 だから戻った。


 死んで。

 戻って。

 また死んで。

 また戻って。


 拒み続けた。


 百回。


「では、私は」


 言葉が、震えた。


「百回、拒んでいたのですね」


「ええ」


 王妃陛下は答えた。


「そして百一回目に、あなたは拒むだけではなく、壊した」


 その言葉は、静かだった。


 慰めではない。

 称賛でもない。


 事実として、そこに置かれた。


 私は、ゆっくりと息を吸った。


 胸の奥が痛い。


 悲しいのか。

 悔しいのか。

 安堵なのか。


 まだ分からない。


「王妃陛下」


「何です」


「私は、明日へ行けるのでしょうか」


 王妃陛下は、少しだけ目を伏せた。


「それを確かめるのは、あなたです」


 厳しい答えだった。


 けれど、正しい。


「ただし」


 王妃陛下は続けた。


「あなた一人で確かめる必要はありません」


 その時、扉の外で控えめな声がした。


「入ってよろしいか」


 ライナス様の声だった。


 王妃陛下は、ほんのわずかに眉を上げる。


「隣国の王子にしては、扉の前で待つのが上手ですね」


「今夜、この城では勝手に入らない方がよいと学びました」


 扉越しの返答に、王妃陛下は何も言わなかった。


 許可、ということだろう。


「どうぞ」


 私が言うと、扉が開いた。


 ライナス様は、夜会の礼装のままだった。

 ただし、上着の前は少し緩められている。

 きちんとした人なのか、雑な人なのか、まだ判定が難しい。


「王妃陛下」


 ライナス様は礼を取る。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 王妃陛下は記録を閉じた。


「アリシア嬢は、眠るのが怖いそうです」


「当然でしょう」


 ライナス様は、即答した。


 私は思わず、彼を見る。


 当然。


 その一言だけで、胸の奥が緩む。


 怖がることを、初めて許された気がした。


「百回、朝へ戻ったのなら」


 ライナス様は、私を見る。


「眠るのが怖いのは当然だ」


 王妃陛下は、私とライナス様を交互に見た。


 何かを考えている顔だった。


 けれど、言わない。


「私は、調査へ戻ります」


「王妃陛下」


「休みなさい」


 王妃陛下は言った。


「これは命令です」


「……承知いたしました」


「明朝、生きてこの部屋で目を覚ましなさい」


 強い言葉だった。


 祈りではない。

 慰めでもない。


 王妃の命令だった。


 それが、今は少しありがたかった。


 王妃陛下は部屋を出ていく。


 扉が閉まると、部屋には私とライナス様だけが残った。


 ライナス様は、寝台から少し離れた椅子に座った。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 倒れた時には届くが、弱っている姿を覗き込む距離ではない。


 この距離の取り方を、私は少しだけ嫌いではない。


「眠らないのか」


「眠れないのです」


「痛む?」


「いいえ」


 私は天蓋を見た。


「朝が来るか、分かりませんので」


 ライナス様は黙った。


 笑わなかった。

 慰めなかった。

 そんなはずはない、とも言わなかった。


 それが、ありがたかった。


「大司教は拘束された」


 ライナス様が言う。


「王妃陛下は、教会関係者を分けて監視している。祈りの間は封鎖。王太子は医師と近衛の監視下。聖女は保護された」


「存じております」


「それでも、君は不安だ」


「はい」


「なら、朝が来たら確認しよう」


 私は目を開けた。


「確認、ですか」


「ああ」


 ライナス様は、当然のように言った。


「君が目を覚ましたら、日付を確認する。場所を確認する。王太子が叫んでいないか確認する。祈りの間が封鎖されたままか確認する」


「随分、手順が多いですわね」


「君の流儀に合わせた」


 私は、返す言葉を一瞬失った。


 ずるい。


 そういう言い方は、少しずるい。


「もし、また戻っていたら?」


「その時は、君が私を探せばいい」


「今のあなた様は、何も覚えていないかもしれません」


「だろうな」


「信じないかもしれません」


「その可能性は高い」


「では」


「だが、君が私の前で二、三手先を言い当てれば、私は黙ると思う」


 私は思わず、息を漏らした。


 笑い損ねたような音だった。


「ご自分をよくご存じですこと」


「観察力はある方だ」


「自称なさるのですね」


「今夜、君に負けたからな。せめて自称くらいはしておきたい」


 軽口だった。


 でも、軽すぎない。


 この夜をなかったことにしないまま、呼吸できるくらいの軽さだった。


 私は、天蓋から視線を外す。


「ライナス様」


「何だ」


「今回、あなた様は死にませんでした」


「それは何よりだ」


「過去のあなた様は、何度か余計なことをして死にました」


「今回も、余計なことはしたつもりだが」


「ええ」


 私は少しだけ息を吸った。


「ですが、間に合いました」


 ライナス様は黙った。


 その沈黙は、なぜか祈りの間より静かだった。


「そうか」


 彼は言った。


「なら、記録しておいてくれ」


「もうしました」


「早いな」


「習慣ですので」


 そう答えてから、少しだけ胸が痛んだ。


 記録。


 百回、私は失敗を記録した。

 死因を記録した。

 裏切りを記録した。

 毒を記録した。

 逃亡路を記録した。

 誰が、どこで、何を言ったかを記録した。


 でも。


 誰かが間に合った記録は、初めてだった。


 私は、布団の上で指を握る。


「覚えておきます」


 もう一度、そう言った。


 ライナス様は、穏やかに頷いた。


「なら、私は朝までここにいる」


「それは困ります」


「なぜ」


「未婚の令嬢の寝室に、殿方が朝までいるのは問題です」


「扉の外なら?」


「隣国の王子を廊下に立たせるのも問題です」


「では、隣の控えの間にいる」


「……それなら、ぎりぎり許容いたします」


「厳しいな」


「公爵令嬢ですので」


「知っている」


 彼は立ち上がった。


 扉へ向かう前に、一度だけ振り返る。


「アリシア」


 名前で呼ばれた。


 大司教の時とは、違う。


 生贄でも、罪人でも、器でもなく。


 ただ、私を呼ぶ声だった。


「朝が来たら、一緒に確認しよう」


 私は、少しだけ目を伏せた。


「はい」


 その返事は、怖いほど小さかった。


 けれど、届いたらしい。


 ライナス様は静かに部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋に、また静けさが戻る。


 私は燭台の火を見る。


 眠れば、戻るかもしれない。


 戻らないかもしれない。


 分からない。


 百回の記録にも、答えはない。


 だから、確かめるしかない。


 私は、初めて祈らずに目を閉じた。


 神にではない。


 契約にでもない。


 誰かに助けてほしいとも思わない。


 ただ、明日を確認するために。


 眠った。




 ◇




 鳥の声がした。


 私は目を開けた。


 白い天蓋。


 柔らかな枕。


 窓から差し込む、淡い朝の光。


 動かない。


 まず、呼吸を確認する。


 できる。


 次に、手を見る。


 白い寝間着の袖。

 夜会用の手袋ではない。


 次に、部屋を見る。


 王城の客室。

 私の公爵家の部屋ではない。

 断罪当日の朝の控え室でもない。


 扉の向こうで、控えめな声がした。


「アリシア嬢。お目覚めですか」


 ライナス様の声。


 私は、起き上がろうとして失敗した。


 身体が重い。


 でも、痛いほど生きている。


「日付を」


 私は言った。


 扉の向こうで、すぐに返事がある。


「夜会の翌朝だ」


 心臓が、強く鳴った。


「場所は」


「王城客室。祈りの間ではない」


「王太子殿下は」


「叫んでいない。監視下だ」


「大司教は」


「拘束中」


「リリス様は」


「保護。証人として扱われている」


 私は、息を吸った。


 吐いた。


 もう一度、窓を見る。


 朝だ。


 断罪当日の朝ではない。


 夜会の翌朝。


 百回、一度も辿り着けなかった朝。


 胸の奥に、何かが込み上げる。


 泣くほどではない。


 笑うほどでもない。


 ただ、身体の奥から、長い緊張がほどけていく。


 私は扇を探そうとして、手元にないことに気づいた。


 代わりに、寝台の脇に水差しが置かれている。


 ああ。


 そうか。


 今は戦場ではない。


 少なくとも、まだ。


 扉の向こうで、ライナス様が言う。


「これは、真ルートか?」


 私は少し考えた。


 真ルート。


 その言い方は、少し軽い。


 けれど、嫌いではなかった。


 百回の記録にはない朝。


 大司教の手順にもない朝。


 王太子の宣言から始まらない朝。


 私は、窓の外の光を見た。


「まだ、分かりません」


 声は掠れていた。


 でも、震えてはいなかった。


「ですが、少なくとも」


 私は息を吸う。


 初めての朝の空気が、肺に入る。


「初見ですわ」


 扉の向こうで、ライナス様が小さく笑った。


 私は、ようやく少しだけ笑った。


 百一回目の人生は、まだ終わっていない。


 けれど。


 百回死んだ夜は、確かに終わった。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

アリシアは、ようやく初めての翌朝へ辿り着きました。

これにて完結です。


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