005 その祈り、私を運ぶ合図です
王城の内廊下は、夜会場よりも静かだった。
扉が閉まった瞬間、貴族たちのざわめきは厚い木の向こうへ押し込められた。
けれど、安心はできない。
大司教ウルリッヒは、もう夜会場へ来ている。
そして、あの人は必ず追ってくる。
王妃マーガレット陛下は、足を止めなかった。
近衛騎士が前後を固め、帳簿を抱えた騎士が少し後ろを歩いている。
私は、その列の中央にいた。
逃げているわけではない。
保護されている。
この違いは大きい。
逃亡犯なら、捕まえられる。
罪人なら、引き渡される。
乱心者なら、隔離される。
けれど、王妃預かりなら。
私を動かすには、王妃陛下の許可がいる。
「アリシア嬢」
王妃陛下が足を止めずに言った。
「はい」
「あなたを信じたわけではありません」
「承知しております」
「ですが、教会へ渡す理由もありません」
その一言で、胸の奥がほんの少し熱くなる。
駄目だ。
まだ救われたわけではない。
この方は、私を信じたのではない。
ただ、教会に渡す理由がないと判断した。
それで十分だ。
百回の中で、その判断にすら辿り着けなかったのだから。
廊下の先で、王族用の控えの間が開かれる。
近衛騎士が左右に分かれた。
王妃陛下が先に入り、私は続いた。
ライナス様も、許可を得たうえで中へ入る。
扉が閉まる。
夜会場のざわめきが、完全に切れた。
部屋は広くない。
王妃陛下。
私。
ライナス様。
近衛騎士が四人。
帳簿を持つ騎士。
それだけだ。
目が少ない。
声も少ない。
だからこそ、次に入ってくるものが分かりやすい。
「さて」
王妃陛下は椅子には座らず、立ったまま私を見た。
「ここで聞きます」
「はい」
「教会は、次に何をしますか」
さすがだ。
この方は、私の正しさより先に、次の危険を見る。
私は扇を伏せた。
「私を、教会預かりにしようとします」
近衛騎士たちの視線が、私へ集まる。
「聖女様を怯えさせ、王太子殿下を害した令嬢には、祈りと静養が必要だと」
「保護、ですか」
「はい」
綺麗な言葉だ。
けれど、その中身を私は知っている。
教会へ渡された回は、戻れなかった。
帳簿は消えた。
証言は整えられた。
私の言葉は、混乱した令嬢の妄言にされた。
保護とは、閉じ込めることだった。
「その後は」
「祈りの間へ移されます」
「そして?」
「私は、王妃陛下の前へ戻れません」
王妃陛下の目が細くなる。
「殺されるのですか」
「回によります」
控えの間が、静かになった。
ライナス様も、何も言わない。
「毒の回もございました。病死扱いの回もございました。悔い改めたとする書面を残された回もございます」
「あなたが書いたのですか」
「いいえ」
私は首を横へ振った。
「私の筆跡で、書かれておりました」
近衛騎士の一人が息を呑む。
王妃陛下は、表情を変えなかった。
けれど、その視線はさらに冷たくなる。
「つまり、あなたを教会へ渡すことは、確認不能にすることだと」
「はい」
「では、渡しません」
早い。
迷いがない。
この方の強さは、いつもこうだった。
証拠が足りなければ信じない。
だが、危険が見えれば止める。
私が百回欲しかった判断が、今ここにある。
その時、扉の外で足音が止まった。
近衛騎士が身構える。
「王妃陛下」
扉の向こうから声がした。
夜会場に残してきた近衛の一人だ。
「大司教猊下より、申し入れがございます」
来た。
王妃陛下は、私を一瞥する。
私は小さく頷いた。
「読み上げなさい」
扉の向こうの騎士が、わずかに息を整えた。
「聖女リリス・ベル様を怯えさせ、王太子殿下を害したアリシア・ヴァルトハイム嬢には、強い動揺と霊的混乱が見られる。教会にて祈りと静養をもって保護すべきである、とのことです」
部屋の中の空気が固まった。
王妃陛下は、私を見る。
「当たりましたね」
「はい」
私は答える。
「ですが、それは入口でございます」
王妃陛下の目が鋭くなる。
「続きがあるのですね」
「はい」
言い終わる前に、扉の向こうで別の声がした。
女の声。
静かで、柔らかく、よく訓練された声。
「王妃陛下。聖女様より、アリシア様のお心を鎮めるため、祈りの香をお持ちいたしました」
近衛騎士が扉へ視線を向ける。
侍女だ。
その後ろに、神官が一人。
祈りの香。
お心を鎮める。
綺麗な言葉だ。
けれど、私は知っている。
その香は、心を鎮めるものではない。
膝を折らせるものだ。
「入れてはなりません」
私は言った。
王妃陛下が即座に手を上げる。
近衛騎士が扉の前に立つ。
「アリシア嬢」
王妃陛下が問う。
「何です」
「その祈り、私を運ぶ合図です」
控えの間が静まり返った。
扉の向こうの侍女が、一拍遅れて言う。
「何を、おっしゃって……」
「左袖に眠り香。神官の右袖に封印布。侍女の腰紐に小さな銀鈴」
扉の向こうの気配が止まった。
「香で意識を落とし、封印布で声を塞ぎ、銀鈴で神官に合図する」
私は扇を伏せる。
「前は、その鈴の音を最後に聞きました」
ライナス様の目が細くなる。
王妃陛下の声が冷えた。
「扉を開けなさい。ただし、二人を中へ入れてはなりません」
「はっ」
扉が開く。
侍女と神官が立っていた。
侍女は香炉を持っている。
神官は祈りの姿勢で両手を重ねている。
何も知らなければ、哀れな令嬢を慰めに来たように見えただろう。
けれど、もう遅い。
「調べなさい」
王妃陛下が命じた。
「お、お待ちください。これは聖女様からの」
「調べなさい」
二度目はなかった。
近衛騎士が侍女の左袖を押さえる。
中から、小さな香包が落ちた。
甘い匂いが、ほんのわずかに広がる。
私は息を止める。
ライナス様が、すぐに窓を開けた。
近衛騎士が神官の右袖を改める。
白い布が出てきた。
ただの布ではない。
教会の封印文が、端に小さく縫い込まれている。
最後に、侍女の腰紐から銀鈴が一つ落ちた。
ちりん。
小さな音が鳴った。
私の背筋が、冷たくなる。
知っている音だ。
あの音の後、何度も目覚めなかった。
王妃陛下は、その三つを見下ろした。
香包。
封印布。
銀鈴。
それから、神官を見る。
「これを、保護と呼ぶのですか」
神官の顔が青ざめた。
「違います。これは、祈りの」
「眠らせる香を持ってきて、声を塞ぐ布を隠し、合図の鈴を仕込んで」
王妃陛下の声は低かった。
「これを、祈りと呼ぶのですか」
侍女が震えた。
神官が一歩下がろうとする。
近衛騎士が即座に肩を押さえた。
「動くな」
ライナス様が、窓辺から低く言った。
「隣国の前で、ずいぶん丁寧な拉致だな」
神官の顔色が変わる。
拉致。
その言葉が、控えの間に落ちた。
もう、保護ではない。
祈りでもない。
静養でもない。
目に見える形で、正体が出た。
王妃陛下が、扉の外へ命じる。
「この二人を拘束。別々に監視しなさい。互いに話させてはなりません」
「はっ」
「香包、封印布、銀鈴は王妃預かり。帳簿と同じ扱いにします」
近衛騎士が動く。
侍女が膝をついた。
「私は、言われただけで……!」
王妃陛下の目が細くなる。
「誰に」
侍女は口を開きかけた。
だが、神官が小さく咳をした。
それだけで、侍女の口が閉じる。
王妃陛下は見た。
ライナス様も見た。
私も見た。
「今の咳も記録しなさい」
王妃陛下が言う。
「侍女は何かを言いかけ、神官の咳で止まった」
「はっ」
神官が青ざめる。
もう遅い。
動作も。
沈黙も。
止めたことも。
すべて見られた。
その時。
廊下の奥から、ゆっくりと足音が近づいた。
急がず。
乱れず。
まるで、場が自分を待っていると信じている者の歩き方。
私は、その足音を知っている。
王妃陛下が扉へ視線を向けた。
近衛騎士たちが剣の柄へ手をかける。
白と金の祭服が、廊下の明かりの下に現れた。
大司教ウルリッヒ。
穏やかな微笑。
柔らかな銀の髪。
祈りを捧げる者のような、静かな目。
彼は、拘束された侍女と神官を見た。
香包。
封印布。
銀鈴。
そして、私を見た。
ほんの一瞬だけ、微笑が止まる。
その一瞬を、私は見た。
大司教はすぐに穏やかな顔へ戻った。
「王妃陛下」
彼は深く礼を取る。
「何か、行き違いがあったようですね」
行き違い。
その言葉で済ませるつもりなのだ。
眠り香も。
封印布も。
銀鈴も。
私を運ぶ手順も。
すべて、行き違いにするつもりなのだ。
王妃陛下は、冷ややかに言った。
「大司教」
「はい」
「教会では、眠らせて運ぶことを保護と呼ぶのですか」
廊下の空気が凍った。
大司教は微笑んでいる。
けれど、もう温度はない。
「それは、誤解でございます」
「では、説明なさい」
大司教は答えない。
答えを選んでいる。
私は一歩も動かず、彼を見た。
百回の中で、この人はいつも綺麗な言葉を選んだ。
保護。
祈り。
静養。
清め。
赦し。
その言葉の下で、私は何度も消えた。
でも今回は違う。
香包は床にある。
封印布もある。
銀鈴もある。
王妃陛下が見た。
ライナス様が見た。
近衛も見た。
言葉だけでは、もう隠せない。
大司教ウルリッヒは、初めて私を正面から見た。
「アリシア嬢」
その声は、静かだった。
「あなたは、何をどこまで知っているのです」
私は扇を伏せる。
「少なくとも」
香包を見る。
「その祈りで、私が二度と王妃陛下の前に戻れなかったことは存じております」
大司教の目から、慈悲が消えた。
ほんのわずか。
けれど、確かに。
ようやく。
あなた本人が、私を見ましたね。
お読みいただきありがとうございます。
第1章はここまでです。
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