004 これは浮気リストではございません
夜会場の空気は、もう元には戻らなかった。
赤絨毯の上では、王太子エドワード殿下がまだ眠っている。
医師が傍らにつき、近衛騎士が周囲を固めていた。
聖女リリス様は、左手首を押さえたまま青ざめている。
側近たちは怒りを飲み込み、騎士たちは動けない。
そして王妃マーガレット陛下は、私を見ていた。
「アリシア・ヴァルトハイム」
「はい」
「この場で確認します」
会場がざわめいた。
王妃陛下は、私を別室へ隠さなかった。
逃がすのでもない。
信じるのでもない。
全員の前で、確認する。
それが、この方の判断だった。
「あなたは先ほど、経験したと言いました」
「はい」
「その経験を示せますか」
「一部ならば」
私は懐へ手を入れた。
近衛騎士が身構える。
当然だ。
私は王太子を殴った女だ。
懐へ手を入れただけで、警戒される。
けれど、取り出したのは武器ではない。
薄い革表紙の帳簿だった。
会場のあちこちから、小さな声が上がる。
「帳簿……?」
「証拠か?」
「王太子殿下と聖女様の密会記録では……」
私は扇を伏せた。
「これは浮気リストではございません」
妙な沈黙が落ちた。
私は静かに続ける。
「そちらは別冊です」
誰かが息を詰まらせた。
笑った者はいない。
けれど、空気が一瞬だけずれた。
それでいい。
断罪の熱は、こういう小さなズレで冷える。
王妃陛下の眉が、ほんのわずかに動いた。
「では、それは何です」
「断罪の記録でございます」
近衛騎士が帳簿を受け取り、王妃陛下の前へ運ぶ。
王妃陛下は表紙を見た。
次に私を見た。
「読み上げなさい。要点だけでよろしい」
「はっ」
近衛騎士が帳簿を開いた。
紙の擦れる音が、夜会場にやけに大きく響く。
「第一項。死亡時刻。婚約破棄宣言完了後、七分以内」
会場が静まり返った。
死。
その一語が出るだけで、貴族たちは息を潜める。
王妃陛下は表情を変えない。
「第二項。教会関係者の配置。毎回同一」
白い祭服の者たちが、わずかに身じろぎした。
「第三項。聖女リリス・ベル様の首飾り。宣言前後に発光反応あり」
リリス様の手が、胸元へ寄った。
首飾り。
今はまだ、それ以上見ない。
見すぎれば、逃げられる。
王妃陛下は短く問う。
「続きは」
「百項ございます」
会場がざわめいた。
王妃陛下の目が、わずかに細くなる。
「要点だけでよろしい」
「はい」
私は頭を下げる。
「これは恋愛事件ではございません」
「では何です」
待っていた問いだった。
私は顔を上げた。
「儀式です」
夜会場から、音が消えた。
誰もすぐには動かない。
王太子を殴った令嬢が、今度は婚約破棄を儀式だと言った。
狂っている。
そう思われても仕方ない。
けれど、私は叫ばない。
訴えない。
泣かない。
ただ、帳簿の三項目だけを置く。
死亡時刻。
教会の配置。
聖女の首飾り。
信じなくていい。
捨てられなければ、それでいい。
「婚約破棄の宣言が終わると、私は死にます」
私は赤絨毯を見る。
「泣いても、謝っても、弁明しても、証拠を出しても、逃げても」
エドワード殿下は眠ったままだ。
今は、それでいい。
「殿下の言葉がただの婚約破棄ならば、その後に弁明できたはずです。ですが、毎回それは間に合いませんでした」
王妃陛下は、私から目を逸らさない。
「なぜ、儀式だと考えたのです」
「同じものが、毎回揃うからでございます」
私は扇を伏せる。
「王太子殿下の宣言。聖女様の涙。教会関係者の配置。貴族の沈黙。そして、私が悪役として中央に置かれること」
会場が、じわりと冷える。
「一つなら偶然です。二つなら演出です。ですが、配置まで同じなら、手順です」
王妃陛下は帳簿へ視線を落とした。
「証明できますか」
「完全には、まだ」
私は即答した。
ここで嘘をつけば終わる。
「ですが、確認はできます」
「何を」
「次に動く者です」
リリス様の肩が跳ねた。
神官たちの列が、一瞬だけ揺れた。
王妃陛下はその揺れを見た。
ライナス様も見ていた。
会場の端。
隣国の来賓席で、銀灰色の髪の青年が静かにこちらを観察している。
彼はまだ、私を知らない。
けれど、見ている。
それだけで十分だ。
「王妃陛下」
私は声を低くした。
「このまま夜会場にいれば、次に来る者へ場を渡すことになります」
「次に来る者?」
「大司教ウルリッヒです」
王妃陛下の目が、初めてはっきりと変わった。
大司教。
王国教会の頂点。
聖女を認めた者。
王家の儀礼にも深く関わる者。
その名が出た瞬間、空気の重さが変わった。
「大司教が来ると?」
「はい」
「なぜ分かるのです」
「今の手順が崩れたからでございます」
私は帳簿を見た。
「王太子殿下は宣言できない。聖女様の涙は止まった。騎士の拘束も止まった。ならば、次は場そのものを取り戻しに来ます」
王妃陛下は沈黙した。
信じているわけではない。
だが、考えている。
大司教が来た時、この夜会場の全員が教会の権威に呑まれればどうなるか。
私の帳簿も、発言も、王太子を殴った罪の中に沈められる。
王妃陛下は、それを分かっている。
「アリシア嬢」
「はい」
「あなたを信じたわけではありません」
「承知しております」
「ですが、この場を教会へ渡すのは危険です」
その一言で、会場の空気が変わった。
王妃陛下が、近衛騎士へ命じる。
「帳簿は王妃預かり。写しを取る前に誰にも触れさせてはなりません」
「はっ」
「聖女リリス嬢の首飾り、左手首の香り、教会関係者の配置を記録しなさい。ただし、今は問い詰めません」
神官たちの表情が強張る。
王妃陛下は続けた。
「アリシア嬢をこの場から移します」
会場がざわめいた。
側近の一人が声を上げる。
「王妃陛下! 逃がすおつもりですか!」
「保護です」
王妃陛下の声は冷たい。
「そして確認です」
「しかし!」
「この場で騒ぐ者は、先ほどの不自然な流れに加担した者として扱います」
側近は黙った。
私は頭を下げる。
「ご裁定に感謝いたします」
「感謝は不要です」
王妃陛下は、私を見た。
「まだ、あなたを救うと決めたわけではありません」
「はい」
「ですが、あなたをこの場で失えば、確認できるものまで失います」
それで十分だった。
百回の中で、ここまで早く王妃陛下が動いたことはない。
未来は、確かにずれている。
だが、安心するには早い。
◇
王城地下。
黒い燭台の火が、低く揺れていた。
大司教ウルリッヒは、祭壇の円陣を見下ろしている。
起動しない。
王太子の宣言は止まった。
聖女の涙も遅れた。
会場の拘束も失敗した。
そして今、王妃が帳簿を預かった。
予定された悪役令嬢は、まだ舞台の中央に立っている。
大司教は、しばらく黙っていた。
神官の一人が震える声で問う。
「猊下、いかがなさいますか」
大司教は、ゆっくりと目を細める。
「私が行きましょう」
その一言で、神官たちが頭を垂れた。
「場を戻します」
大司教は穏やかに告げる。
「聖女も、王太子も、貴族も、本来の位置へ」
◇
夜会場では、王妃陛下が近衛騎士へ視線を向けていた。
「場所を変えます」
その声は、夜会場のざわめきを断ち切った。
「ここでは、場が広すぎる。目が多すぎる。言葉が多すぎる」
王妃陛下は私を見る。
「そして、次に来る者の声が大きすぎる」
私は深く礼を取った。
「承知いたしました」
会場の端で、ライナス様が静かに杯を置いた。
「王妃陛下」
「何です」
「隣国の来賓として、私も同行してよろしいでしょうか」
会場がざわついた。
王妃陛下は、ライナス様を見た。
「理由は」
「外部の目があった方が、後で揉めにくいでしょう」
軽い声だった。
けれど、目は笑っていない。
「それに」
ライナス様は、私を見た。
「彼女が何を止めようとしているのか、もう少し見ておきたい」
王妃陛下は、ほんの一瞬だけ考えた。
「許可します」
「光栄です」
今の彼は、まだ私を知らない。
けれど、来る。
百回の中で、何度か私を逃がそうとして死んだ人が。
今度は、死なせない。
そう思いかけて、私はすぐに打ち消した。
期待はしない。
期待して、失って、戻ってきた。
それを何度も繰り返した。
でも。
見ている人が一人増えた。
それだけは、覚えておく。
近衛騎士が道を開く。
王妃陛下が歩き出す。
私も続く。
夜会場の中央から、初めて盤面が動く。
その時、遠くで扉が開く音がした。
重く、静かな音。
神官たちの顔が、同時にそちらへ向いた。
遅かった。
大司教ウルリッヒが夜会場へ入ってくる。
だが、その視線の先に、私はもういない。
王妃陛下の背に守られ、近衛に囲まれ、隣国の来賓の視線を連れて、私は夜会場を出るところだった。
大司教の顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
その一瞬を、私は見た。
今回は、あなたより先に動きました。
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