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100回婚約破棄された悪役令嬢、101回目はグーパンで真ルートを開きます  作者: あゆと


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003 筋力はございません

 騎士の手が、剣の柄へ近づいた。


 反逆罪ではない。

 乱心でもない。


 王妃陛下の命に背かない形で、私をこの場から排除する。


 次の手は、それだ。


「王妃陛下」


 側近の一人が、奥歯を噛みながら言った。


「正式な裁定を待つとしても、アリシア嬢をこのまま自由にしておくのは危険です」


 よくある言い方だ。


 罪名を決めるのではない。

 保護する。安全のため。場を落ち着かせるため。

 王太子殿下の身を守るため。


 そう言って、私を会場の外へ出す。


 外へ出されたら終わりだ。


 廊下には教会側の神官がいる。

 別室には証人が用意されている。

 扉の向こうには、私の言葉が届かない場所がある。


 だから、ここで連れて行かれるわけにはいかない。


「武器を取り上げ、別室で待機させるだけでございます」


 側近が言う。


 武器。


 私は自分の手を見た。


 白い手袋。扇。ドレス。ヒール。


 この会場の誰から見ても、私は丸腰の公爵令嬢だ。

 けれど、彼らはもう知っている。


 私の拳が、王太子殿下の顎を撃ち抜いたことを。


「アリシア嬢」


 王妃マーガレット陛下が私を見る。


「抵抗しないと約束できますか」


「もちろんでございます」


 私は即答した。


 抵抗はしない。


 戦わない。

 殴らない。

 蹴らない。

 騎士を倒さない。


 そんなことをすれば、本当に反逆になる。


 けれど。


 捕まるとも、申し上げておりません。


「では、確認のために」


 騎士の一人が前に出た。


 大柄な男だった。


 近衛騎士。

 名は知らない。


 過去の周回で、私の腕を何度も取った男だ。


 覚えているのは名前ではない。


 歩幅。

 肩の上がり方。

 左手を添える癖。

 人を傷つけずに拘束する時の、優しい手つき。


 優しい拘束ほど、逃げにくい。


「お手を」


 騎士が言う。


 私は右手を出さない。

 代わりに、左手でドレスの裾をほんの少し持ち上げた。


「申し訳ございません。裾を踏みそうですので」


「……では、左手を」


 騎士が一歩踏み込む。


 来る。


 右手で私の左手首。

 左手で肘。

 そのまま体を横へ向け、背中を取る。


 何度も見た。


 最初は、なぜ動けなくなったのかも分からなかった。

 今なら分かる。


 腕を取られたからではない。


 足の逃げ場を先に潰されていたのだ。


 私は、ヒールの踵を床に鳴らした。


 こつん。


 小さな音。


 騎士の視線が、一瞬だけ足元へ落ちる。


 それだけでいい。


 私はドレスの裾を外側へ流した。

 布が、騎士の視界を半分だけ遮る。


 騎士の右手が、私の手首を探して空を切った。


「なっ」


 私は大きく動いていない。


 半歩ずれただけだ。


 でも、騎士の手は届かない。


 人の手は、見ている場所へ伸びる。

 だから、見えている場所をずらせばいい。


「失礼」


 私は静かに言った。


「足元が危のうございます」


 騎士の眉が動く。


 怒りではない。

 驚きだ。


 私が逃げたようには見えない。

 抵抗したようにも見えない。


 ただ、裾をさばいただけ。

 令嬢として、不自然ではない。


「もう一度」


 騎士が低く言う。


 今度は慎重だった。


 手首ではなく、肩へ来る。

 優しい拘束から、確実な拘束へ変わった。


 それでも遅い。


 肩を掴まれたら、終わる。

 この身体に、騎士の腕を振りほどく力はない。


 筋力はない。

 体力もない。

 魔力もない。


 この身体は今朝、断罪当日の朝に戻ったばかりの公爵令嬢の身体だ。


 だから、勝とうとしてはいけない。

 倒そうとしてもいけない。


 騎士の手が、私の肩へ伸びる。


 私は扇を開いた。


 ぱさり。


 白い扇が、彼の視界を一瞬だけ遮る。


 攻撃ではない。

 防御でもない。


 ただの目隠し。


 その間に、私は右足を引いた。

 ヒールが、絨毯と大理石の境目を踏む。


 騎士の踏み込みが、ほんの少し沈んだ。


 私は横へ抜ける。


 彼の手が、私の肩のあった場所を通り過ぎた。


 会場がざわめく。


「今のは……」


「避けた、のか?」


「いや、ただ裾をさばいただけでは……」


 騎士は私を見た。


 怒りではない。

 戦慄だった。


 彼は私の足元と、扇と、ドレスの裾を順に見て、何も言わなかった。


 私は答えない。

 答える必要もない。


 ただ、扇を伏せる。


『お嬢様。強くなる必要はございません』


 ふいに、古い声が胸の奥で蘇る。


 長期生存に成功した周回。

 隣国の小さな屋敷で、私に歩き方を教えた舞踏教師の声。


『倒れなければよいのです』


 その時、私は笑った。


 そんなことで生き延びられるなら、100回も死んでいないと。

 けれど、今なら分かる。


 倒れなければ、次の一手が残る。

 次の一手が残れば、まだ詰みではない。


「小賢しい真似を!」


 側近が叫んだ。


「取り押さえろ! 複数で行け!」


 騎士たちが、わずかに動く。


 私は王妃陛下の方へ一歩だけ下がった。


 逃げたのではない。


 裁定を待つ位置へ移っただけ。


 そう見えるように、ゆっくりと。


「王妃陛下」


 私は声を上げた。


「この場で私を複数名で拘束なさる場合、どなたの命令として記録されますか」


 騎士たちの足が止まった。


 側近の顔が赤くなる。


「なっ……」


「私が抵抗していない以上、複数の騎士による身体拘束は、正式な命令の記録が必要かと存じます」


 王妃陛下の目が、すっと細くなった。


 そう。


 私は騎士に勝てない。


 でも、騎士は命令に縛られる。

 近衛であればあるほど、手順を無視できない。


 剣より重いものがある。


 責任だ。


「誰の命令かと聞いております」


 王妃陛下が、側近へ言った。


 側近の喉が鳴る。


「そ、それは、王太子殿下をお守りするためで」


「殿下は失神中です」


 王妃陛下が遮る。


「命令は出せません」


 側近は黙った。


 騎士たちも止まる。


 私は一歩だけ、王妃陛下の視線が届く位置へ下がった。


「私は、裁定を拒んでおりません」


 私は言った。


「ただ、順番を間違えた拘束はお受けできません」


 会場が静まり返る。


 先ほどの騎士が、まだ私を見ていた。


 彼の目に、怒りはない。

 ただ、私の足元と扇とドレスの裾をもう一度だけ見ている。


 この人は気づいた。


 私は強くない。

 けれど、捕まえにくい。


 その理由が、身体能力ではないことにも。


「……アリシア嬢」


 王妃陛下が、静かに名を呼んだ。


 私は礼を取る。


「はい」


「あなたの動きは、護身術というには奇妙です」


「はい」


「騎士を倒そうとはしていない」


「倒せませんので」


 私は即答した。


「筋力はございません」


 会場が静まる。


「ですが、倒れない方法は、少しだけ存じております」


 王妃陛下は黙って私を見た。


 その目が、また変わった。


 王太子を殴った乱心者を見る目ではない。

 偶然助かった令嬢を見る目でもない。


 何度も同じ死地を歩いた者を見る目だった。


 その時。


 会場の片隅から、小さな声がした。


「面白い」


 低く、よく通る声だった。


 私は視線だけを向ける。


 隣国の来賓席。

 銀灰色の髪の青年が、片手に杯を持ったままこちらを見ていた。


 ライナス・フォン・ヴェルデ。


 百回の中で、何度か私を逃がそうとして死んだ人。

 けれど、今の彼は私を知らない。


 彼は、笑っていなかった。

 興味と警戒を半分ずつ混ぜた目で、私の足元を見ている。


「いや」


 ライナスは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「恐ろしいな」


 私は扇を握り直した。


 今の彼は、私を知らない。

 それでも、見てくれた。


 まだ、倒れるわけにはいかない。


 その時、王妃陛下が静かに立ち上がった。


「この場で、これ以上続けるべきではありません」


 その一言で、夜会場の空気が変わる。


 側近たちの顔が強張る。

 騎士たちが姿勢を正す。

 リリス様の指が、また左手首へ寄りかけて止まる。


 王妃陛下の視線が、私に戻った。


「アリシア・ヴァルトハイム」


「はい」


「別室で話を聞きます」


 ようやく。


 断罪会場の中央から、盤面が一歩だけ動いた。

お読みいただきありがとうございます。

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