002 乱心ではございません
「泣くのは、もう少し後の方がよろしいかと」
リリス様の声が止まった。
震えかけていた肩も。
潤みかけていた瞳も。
左手首へ伸びかけていた指も。
すべてが、途中で止まる。
会場の視線が、聖女リリス・ベルへ集まった。
私はそれ以上、追わない。
ここで責めすぎれば、私が聖女を追い詰める悪女に見える。
だから、一言でいい。
泣く前に、泣く予定を止める。
それだけで、涙は遅れる。会場の感情も遅れる。
その遅れが、私の時間になる。
赤絨毯の上では、王太子エドワード殿下がまだ失神していた。
口は半開き。
金の髪は乱れ。
顎を撃ち抜かれた王族は、しばらく起き上がれそうにない。
今は、その静けさが何よりありがたい。
「な、なんということを……!」
側近の一人が叫んだ。
来た。
リリス様の涙が止まると、必ず誰かが怒る。
「聖女様を脅すとは!」
「王太子殿下を害しただけでは飽き足らず!」
「アリシア嬢を取り押さえろ!」
騎士たちが踏み出す。
この流れは、何度も見た。
ここで逃げれば、逃亡犯。
ここで叫べば、乱心。
ここで騎士に手を出せば、反逆。
王太子の宣言を止めても、その直後にこの流れへ落ちれば意味がない。
だから今回は、動かない。
使うのは、拳ではない。
礼儀だ。
「王妃陛下の御前で」
私は静かに口を開いた。
「正式な裁定なく、反逆罪を宣言なさるのですか」
側近の口が止まった。
騎士の足も止まった。
会場に、冷たい沈黙が落ちる。
王妃マーガレット陛下が、ゆっくりと側近へ視線を向けた。
その視線だけで、彼の顔色が変わる。
当然だ。
王太子殿下は失神中。
国王陛下は病により、この夜会には出席されていない。
王宮儀礼と夜会場の裁定を預かっているのは、王妃マーガレット陛下だ。
その許しなく、側近が反逆罪を宣言する。
それは、私を裁く行為ではない。
王妃陛下の権威を踏み越える行為だ。
「わ、私は、殿下をお守りするために……!」
「でしたら、まず殿下へ医師を」
私は静かに返した。
「王太子殿下をお守りしたいのでしょう」
側近の顔が歪む。
倒れている王太子を守りたいなら、まず医師を呼ぶべきだ。
私を取り押さえるのは、そのあとでいい。
順番が違う。
そして、順番を間違える者は、この会場では疑われる。
「医師を」
王妃陛下が短く命じた。
騎士の一人が、はっとして走り出す。
側近は唇を噛んだ。
まず一つ。
乱心扱いからの即拘束は、止めた。
「アリシア嬢」
王妃陛下が言う。
「あなたは今、次に何が起きるかを見ていたのですか」
「はい」
私は隠さなかった。
この方には、隠しすぎる方が不利になる。
「聖女様が泣き、側近が怒り、騎士が私を拘束する。その流れを止めておりました」
「なぜ、その流れを知っているのです」
「経験したからです」
会場がざわめいた。
王妃陛下の目が細くなる。
「経験、ですか」
「はい」
百回、とはここでは言わない。
先ほど言った。
繰り返せば、ただの狂気に聞こえる。
今は、目の前で起きた一致だけを残せばいい。
リリス様は泣こうとした。
側近は怒った。
騎士は動いた。
私は、それを止めた。
それだけで十分だ。
「では、あなたは自分が乱心しているわけではないと?」
「少なくとも」
私は扇を伏せた。
「乱心している者は、王妃陛下の裁定権を利用して自分の拘束を遅らせたりはいたしません」
会場が静まった。
側近の顔が赤くなる。
王妃陛下は、ほんのわずかに目を伏せた。
笑ったわけではない。
けれど、考えている。
それでいい。
「アリシア様……」
リリス様が、もう一度声を出した。
今度は慎重だった。
泣き声ではない。
怯えた声でもない。
言葉を選んでいる。
予定の台詞を失った。
その時点で、彼女の演技は遅れている。
「私は、本当に……」
リリス様の左手が、また袖口へ寄る。
私は見た。
三十一回目から、ずっと気になっていた。
今ではない。
王妃陛下の視線が、リリス様の左手へ落ちた。
「リリス嬢」
王妃陛下が声をかけた。
リリス様の肩が跳ねる。
「はい、王妃陛下……」
「その左手は、どうしました」
会場の空気が、わずかに変わった。
リリス様は一瞬だけ固まる。
すぐに微笑もうとした。
けれど、少し遅い。
「いえ、少し、驚いてしまって……」
「そうですか」
王妃陛下は、それ以上追及しなかった。
違和感だけが、会場に残った。
◇
王城地下。
黒い燭台の火が、細く揺れていた。
大司教ウルリッヒは、祭壇の円陣を見下ろしている。
起動しない。
王太子の宣言は途切れた。
聖女の涙も、流れない。
会場の感情は、断罪へ傾ききっていない。
予定された順番が、崩れている。
「……乱心として処理しなさい」
大司教は低く告げた。
「罪名はあとで整えればよい。まずは、あの娘を舞台から降ろすのです」
◇
夜会場では、王妃陛下が再び私を見ていた。
「アリシア・ヴァルトハイム」
「はい」
「あなたの言葉が真実かどうか、私はまだ判断できません」
「当然です」
「あなたは王太子を殴りました」
「はい」
「その事実は消えません」
「存じております」
「ですが」
王妃陛下は、赤絨毯の上のエドワード殿下を見る。
次に、リリス様を見る。
それから、側近と騎士たちを見る。
最後に、私を見た。
「今この場で、あなたを乱心者として処理するには、不自然なことが多すぎる」
会場が息を呑んだ。
側近が慌てて声を上げる。
「王妃陛下! しかし、殿下は!」
「医師が診ています」
王妃陛下は遮った。
「命に関わる状態ではないのでしょう」
医師が額に汗を浮かべながら答える。
「は、はい。顎に強い衝撃を受けておられますが、命に別状はございません。しばらくは、お目覚めにならないかと」
殿下には、もうしばらくお休みいただきたい。
「ならば」
王妃陛下は会場を見渡した。
「この場で勝手に罪名を決めることを禁じます」
「王妃陛下!」
「私が禁じます」
それだけで、側近は黙った。
王妃の言葉は、刃物より重い。
少なくとも、この場では。
私は深く頭を下げる。
「ご裁定に感謝いたします」
「感謝は不要です」
王妃陛下の声は冷たい。
「私はまだ、あなたを信じたわけではありません」
「承知しております」
「ですが、あなたがただ乱心しただけなら、今のように場を止める必要はない」
会場の空気が、また少し変わった。
乱心ではない。
その可能性が、初めて会場に置かれた。
ほんの小さな変化だ。
けれど、百回の中で、ここまで来たことはなかった。
王妃陛下が、場を止めた。
その一点だけで、未来はずれ始めている。
百回の中で一度も届かなかった声が、初めて、同じ夜のうちに届いた。
けれど、終わったわけではない。
側近の一人が、奥歯を噛む。
騎士の手が、剣の柄へ近づく。
次は、身体で止めに来る。
私は扇を握り直した。
筋力はない。
体力もない。
騎士に勝てる身体ではない。
それでも。
倒れなければよい。
かつて舞踏教師が教えてくれた言葉を、私は思い出していた。
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