第99話「実を結ぶ日」
その日、二階の作業場から降りてきたアリシアは、いつになく思い詰めた顔をしていた。
元宮廷魔法省の、第三席術師。冤罪で追放され、今はこの店でルナに魔法を教え、薬草や魔法薬を扱っている。いつもは論理的で、落ち着いた彼女。その横顔に、珍しく影が差していた。
「零さん。……少し、相談が」彼女は、カウンターの前で、静かに切り出した。「わたしの、昔の教え子のことで」
【SOMA】――零。アリシアがこんな顔をするとはな。よほど、心に引っかかっていることがあるようだ。
「もちろん、聞きますよ」俺は、彼女に温かいお茶を淹れた。「昔の教え子、というと、宮廷にいた頃のですか」
「ええ」アリシアは、カップを両手で包んだ。「わたしが宮廷魔法省にいた頃、何人か、若い術師の育成を任されていました」彼女の声は静かだった。「その中に、特に目をかけていた、一人の少女がいたんです。ミラ、という子でした」
「筋が良くてね」アリシアは、懐かしそうに目を細めた。「まだ幼かったけれど、魔法への探究心が、誰よりも強かった」彼女は、ふっと笑った。「わたしの研究を、いつも目を輝かせて手伝ってくれていた」
だが、その笑みは、すぐに陰った。
「……わたしは、あの冤罪で突然、宮廷を追われました」アリシアの声が低くなった。「何の説明もできないまま、あの子を置いて、……いなくなってしまった」彼女は、カップを見つめた。「わたしは、あの子の師でした。導く責任があった。それなのに、途中で放り出す形になってしまった」
俺は、静かに、彼女の言葉を受け止めた。
「ずっと、気になっていたんです」アリシアは続けた。「わたしがいなくなって、あの子はどうなっただろう、と。師を突然失って、研究も中断して。……もしかしたら、わたしのせいで、あの子の人生を狂わせてしまったのでは、と」
【SOMA】――零。……そういうことか。アリシアは、ずっと自分を責めていたんだな。
「そんな時、風の噂で聞いたんです」アリシアは言った。「あの子――ミラが今、王都で魔法師として活動していると」彼女の指が、かすかに震えた。「会いに行きたい。でも、……怖いんです」
「怖い?」
「ええ」アリシアは、うつむいた。「もし、あの子が、わたしを恨んでいたら。『先生のせいで、苦労した』と言われたら。……わたしは、どう償えばいいのか」彼女は、絞り出すように言った。「あの子の今を知るのが、……怖いんです」
俺は、しばらく考えた。そして、静かに微笑んだ。
「アリシアさん。その、ミラさんのこと、少し俺に調べさせてもらえませんか」俺は続けた。「あなたが直接会う前に、まず、彼女が今どんなふうに生きているのか。……それを知っておくのも、いいかもしれません」
アリシアは、はっと顔を上げた。
「零さん……」
「大丈夫です」俺は頷いた。「こういうことを調べるのは、俺の得意分野ですから」
俺は、情報屋の伝手を辿った。
王都で活動する、ミラという名の魔法師。その足取りを、そっと調べていく。……そして、浮かび上がってきた事実に、俺は思わず笑みをこぼした。
その夜、俺はアリシアを店に呼んだ。ルナも、心配そうに、傍らに座っている。
「アリシアさん。ミラさんのこと、わかりましたよ」俺は、静かに切り出した。
アリシアの表情がこわばった。覚悟を決めるように、彼女は俺を見た。
「……聞かせてください」
「ミラさんは、今」俺は微笑んだ。「王都で、とても高名な魔法師になっています」俺は続けた。「専門は、……人を癒す魔法。傷ついた人、病んだ人を、魔法で救う。そういう研究の第一人者だそうです」
アリシアの目が、大きく見開かれた。
「人を……癒す、魔法……?」彼女の声が震えた。「それは、……わたしが宮廷で取り組んでいた、研究……」
「ええ」俺は頷いた。「ミラさんは、あなたが中断せざるを得なかったその研究を受け継いで、……完成させたんです」
俺は、調べた詳細を語った。ミラは、アリシアがいなくなった後も、師の遺した研究を諦めなかった。何年も独りでこつこつとそれを続け、ついに、人を癒す新しい魔法を確立した。今では、その魔法で、数え切れないほどの人々が救われている。
「彼女は、いろんな場所で、こう語っているそうです」俺は続けた。「『この研究は、わたしの師、アリシア先生が礎を築いてくださったものです』と」
アリシアの頬を、一筋の涙が伝った。
「『先生は、ある日突然、いなくなってしまった。でも、先生が遺してくれた教えと志は、わたしの中にちゃんと生きています』」俺は、静かに言った。「『だから、わたしは、先生の夢を継ぎました。……いつか、また会えたら、胸を張ってこう言いたい。先生、あなたの教えは、ちゃんと実を結びましたよ、と』」
アリシアは、両手で顔を覆った。その肩が震えていた。
「……ばかな子」彼女は、涙の合間に呟いた。「わたしはてっきり、あの子の人生を狂わせたと、ずっと思っていたのに」彼女の声は震えていた。「あの子は、わたしの遺したものを、……こんなにも大切に育んでくれていたなんて」
ルナが、そっと、アリシアの手を握った。
「先生」ルナは、優しく言った。「先生の教えたことは、ちゃんと、誰かの中で生きてるんだね」彼女は、にっこりと笑った。「わたしの中にも、あるよ。先生に教わったこと、いっぱい」
その言葉に、アリシアは、ルナを抱きしめた。
「……ありがとう、ルナ」彼女は、涙ながらに言った。「そうね。……そうだったのね」
【SOMA】――零。長年の後悔が、溶けていく音が、聞こえるようだな。
俺は、静かに頷いた。師が、教え子に遺すもの。それは、目には見えない。だが、確かに受け継がれ、時を超えて実を結ぶ。アリシアが蒔いた種は、彼女の知らないところで、立派な花を咲かせていたのだ。
俺は、一本の酒を取り出した。
淡い緑がかった、金色の酒。この酒は、この世界のものだ。実結び草の酒。この酒を造る草は、少し変わっている。種を蒔いても、翌年には実をつけない。芽を出し、じっと地の中に根を張り、何年もの時をかけてようやく実を結ぶ。蒔いた者が、その実を見られないこともある。それでも、時が満ちれば、必ず実る。その根気強い実を、じっくりと醸したのが、この酒だった。
俺は、それをグラスに注いだ。ひとくち含むと、最初は、ほのかな苦みがある。だが、その奥から、じんわりと滋味深い甘みが追いかけてくる。長い時をかけて育まれた者だけが持つ、深い味わい。派手さはないが、飲むほどに、心が満たされていく。そんな酒だった。
「アリシアさん。これを」俺は微笑んだ。「この酒を造る草は、蒔いてから実を結ぶまでに、何年もかかるんです」俺は続けた。「蒔いた本人が、その実を見られないこともある。……でも、時が満ちれば、必ず実る」
アリシアは、その緑金の酒を見つめた。
「あなたが宮廷で蒔いた種は」俺は言った。「あなたがいなくなった後も、ちゃんと根を張っていた。そして、……今、見事に実を結んだ」俺は、彼女を見た。「あなたの教えは、何一つ、無駄にはなっていなかったんです」
アリシアは、その酒をゆっくりと口に運んだ。
「……ああ」彼女の口から、感嘆が漏れた。「苦くて、……でも、その奥に、こんなにも深い甘みが」彼女は、しみじみと味わった。「わたしのこの長い後悔も、……この苦みだったのかしら」彼女は、ふっと微笑んだ。「そして今、ようやく、甘みにたどり着いた」
その顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「零さん。ありがとう」彼女は言った。「あなたが真実を教えてくれなかったら、わたしはずっとあの子に会えないまま、後悔を抱えて生きていくところでした」
「いいえ」俺は、首を振った。「教えたのは、あなた自身です。俺はただ、あなたが蒔いた種が、ちゃんと実っていたことをお伝えしただけ。……その種を蒔いたのは、紛れもなく魔法師アリシア、あなたです」
「先生!」
その時、ルナが明るい声を上げた。
「今度、そのミラって人に会いに行こうよ!」彼女は、弾んだ声で言った。「きっと、すごく喜ぶよ! だって、ずっと会いたかった先生に会えるんだもん!」
アリシアは、ルナのまっすぐな言葉に、優しく微笑んだ。
「……そうね」彼女は頷いた。「今度は、わたしから会いに行きましょう」その目は、もう怯えてはいなかった。「そして、胸を張って言うわ。『よく頑張ったわね』って」
その時、コハクがふわりと飛んできて、アリシアの肩にとまった。
《せんせいの、におい。かわった。おもたいのが、とれて。……いま、はなが、さいたみたいな、におい》
俺は、その言葉に微笑んだ。コハクにも、アリシアの心が晴れたのが伝わったのだろう。
その夜、店は、温かな空気に満ちていた。長年アリシアを縛っていた見えない鎖が、今、静かにほどけたのだ。
その夜。皆が帰った後。俺は、カウンターの中で、静かに水のグラスを傾けた。
思えば、この店の仲間は皆、過去に何かを抱えている。ヴァルドの冤罪。ノアの父。ガルダの五十年。そして、アリシアの後悔。……だが、彼らはその過去を抱えたまま、ここで前を向いて生きている。
俺の役目は、時々、その過去にそっと光を当てること。彼らが気づかなかった救いや実りを見つけて、伝えること。それも、このカウンターからできることの一つだった。
【SOMA】――零。いい夜だったな。
「ええ」俺は、静かに微笑んだ。「アリシアさんの長い冬が、ようやく明けました」
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、誰かの過去にそっと実りの光を灯していく。一杯の酒と、時を超えて受け継がれる想いとともに。
そして、俺は、ふと思った。この店で積み重ねてきた物語も、もうすぐ、一つの節目を迎えることを。次で、ちょうど、百夜目になる。……どんな夜になるだろうか。
≪第99話・了≫
次話――アリシアの長い後悔が、実りとともに溶けていった。仲間たちの物語を見つめてきたこの店も、いよいよ、開店からの百夜目を迎える。その特別な夜。店の扉を開けたのは、思いがけない、あの人物だった。BAR ZEROの、記念すべき一夜が、静かに幕を開ける。




