第100話「百夜目の扉」
その夜は、特別な夜だった。
【SOMA】――零。今夜でちょうど、百夜目だ。この異世界で、お前がBAR ZEROの扉を開いてから。
「ああ」俺は、カウンターの中で、静かに頷いた。「早いものですね。……もう百夜、か」
思えば、何もかもが手探りだった。異世界に転生し、前世と同じバーテンダーとして生きると決めて、この裏路地の小さな店を開いた。誰も来ないかもしれない。そう思った夜もあった。だが、気づけばこの店には、かけがえのない仲間と大切な常連たちが集うようになっていた。
「感慨深いですね」俺は、グラスを磨きながら呟いた。
その時だった。
からん、と、扉のベルが鳴った。百夜目の最初の客が、ゆっくりと姿を現した。
その顔を見て、俺は、思わず目を見張った。
「……あんたは」
長身の男だった。鋭い眼光。引き締まった身体。かつて、この店に敵として現れた男。クロウ・ファング。バルザン伯爵家の私設護衛隊長だった男だ。あの開店五日目の夜、彼はこの店を潰しに来た。だが、最後には、俺の言葉に自ら剣を置いた。
それ以来、彼とは一度も会っていなかった。
「久しぶりだな、店主」クロウは、ニヤリと笑った。その顔に、かつての剣呑さは、もうなかった。「達者にしていたか」
「クロウさん……!」俺は、驚きながらも微笑んだ。「これは驚きました。まさか、あなたが来てくれるとは」
【SOMA】――零。これは、また思いがけない客だな。百夜目にふさわしい、意外な再会だ。
クロウは、ゆっくりとカウンターに腰を下ろした。
「バルザン家は、とうに辞めた」彼は言った。「今は、各地を流れる、しがない用心棒さ」
「あの夜、あんたに剣を置かされてから」クロウは、遠くを見るように語った。「俺は考えた。……自分は、何のために剣を振るってきたのか、と」彼は、ふっと笑った。「気づけば、誰かに命じられるまま振るうだけの剣だった。……そんなものに意味はあるのか、と」
俺は、静かに聞いていた。
「それで、俺は、自分の足で歩くことにした」クロウは続けた。「各地を巡り、困っている者がいれば、この剣で守る。……誰かの命令じゃない。俺自身が守りたいと思った者を守る」彼の目は澄んでいた。「あんたの生き方に、……少し影響されたのかもしれんな」
その言葉に、俺は、胸が温かくなった。
あの夜、一杯の酒と一つの対話が、この屈強な男の生き方を変えていた。それも、俺の知らないところで。
「それは、あなた自身が選んだ道です」俺は微笑んだ。「俺は何も、していませんよ」
「それがな、店主」クロウは、身を乗り出した。「妙な話なんだが、各地を旅していると、あちこちであんたの店の噂を聞くんだ」
「俺の店の?」
「ああ」クロウは頷いた。「北の防人の街では、『鉄壁の女将軍を救った店がある』と」彼は、指を折った。「西の港町では、『傾いた酒場を立て直した恩人がいる』と。……南の村では、『旅の行商人が忘れられない一杯に出会った店の話』を聞いた」
俺は、はっとした。それは、この百夜の間に、この店を訪れた一人ひとりの物語だった。
「みんな、口々に言うのさ」クロウは微笑んだ。「『裏路地に、小さな、けれど最高のバーがある』と。『どんな客も、一人の人間として迎えてくれる、そんな店主がいる』と」彼は、俺を見た。「その噂は、今や、この国の隅々にまで届いているぞ」
【SOMA】――零。……見ろ、零。お前がこの百夜、注いできた一杯が、世界のあちこちで花を咲かせているんだ。
俺は、言葉を失った。
表に出ることなく、ただこのカウンターから、目の前の一人ひとりに一杯を注いできただけだった。だが、その一杯が救った人々は、それぞれの場所へと帰り、今度はその物語を語り継いでくれた。
俺の届かない遠くまで、この店の灯りは広がっていたのだ。
「……知りませんでした」俺は、正直に言った。「俺はただ、目の前のお客さんに、精一杯の一杯を出してきただけです」
「それでいい。それがいいんだ」クロウは、豪快に笑った。「その、まっすぐさが、人の心を動かす。……俺みたいな男の生き方まで変えちまうくらいにな」
その時、奥から、賑やかな声が響いた。
「零! 今夜は、百夜目だろ!」ノアが、腕まくりをして出てきた。「腕によりをかけて、料理を作ったぞ!」
続いて、住人たちが、次々と姿を現した。
ヴァルドが、静かに、だがどこか誇らしげに。ルナが、飛び跳ねながら。アリシアが、穏やかな笑みを浮かべて。そして、地下から、ガルダも上がってきた。皆、今夜が百夜目だと知っていたのだ。
「おにーさん!」ルナが、零に駆け寄った。「百日、おめでとう!」
「みんな……」
その時、店の扉が、再び開いた。今度は、常連たちだった。女将軍リーナ。情報省のダリウス。クレスタ侯爵。見習いのカルロ。石工のドルグ夫婦。……この百夜で縁を結んだ人々が、次々と集まってくる。まるで、誰かが示し合わせたかのように。
「聞いたぞ、店主」リーナが、豪快に笑った。「今夜で、百夜目だそうだな。……祝わせてもらうぞ」
店は、あっという間に、温かい熱気に包まれた。
【SOMA】――零。いい夜だ。……お前が百夜積み重ねてきたものが、今夜、一堂に会している。
俺は、カウンターの中で、その光景を静かに見渡した。
笑い合う人々。ぶつかり合うグラス。ノアの料理に、歓声が上がる。ルナとコハクが、楽しそうに、人々の間を駆け回っている。
一人ひとりに物語があった。傷を抱え、過去を背負い、それでも前を向いて生きる人々。その、すべてが、この百夜の間にこの小さな店に集った奇跡だった。
「零」クロウが、俺を呼んだ。「一つ、頼めるか」彼は微笑んだ。「あんたの店のとっておきの一杯を。……この記念すべき夜にふさわしいやつを、な」
「ええ。喜んで」俺は微笑んだ。
俺は、棚の奥から、一本の酒を取り出した。この百夜目の夜にふさわしい、特別な一本を。
深い琥珀色のラム酒だ。地の文で、俺だけが知っている。ディプロマティコ。前の世界の、南米の酒だ。この酒には、一つの物語がある。この酒は、三つの異なる蒸溜器で、三つの異なる個性の原酒を造り分ける。軽やかで華やかなもの。深く重厚なもの。そして、その二つを優しく繋ぐもの。それぞれを長い年月、樽でじっくりと熟成させ、最後に丁寧に混ぜ合わせる。異なる個性が、長い時を経て、一つの豊かで複雑な味わいへと調和する。……そういう酒だった。
俺は、その酒を、何脚ものグラスに注いでいった。クロウへ。住人たちへ。常連たちへ。この場にいる、すべての人へ。
「皆さん」俺は、グラスを片手に、静かに声を上げた。店の喧騒が、少しずつ静まる。皆の視線が、俺に集まった。
「今夜で、この店は、百夜目を迎えました」俺は微笑んだ。「ここまで来られたのは、ここにいる皆さん、一人ひとりのおかげです」
「この酒はね」俺は、グラスの琥珀色を見つめた。「三つのまったく違う個性のお酒が、長い時を経て、一つに調和して生まれるんです」俺は続けた。「軽やかなもの。重厚なもの。それらを繋ぐもの。……どれが欠けても、この深い味わいにはならない」
俺は、店に集う人々を見渡した。
「この店も、同じです」俺は言った。「元騎士も。料理人も。魔法使いも。鍛冶師も。将軍も。石工も。若者も。……生まれも、育ちも、抱えるものも、みんな違う」俺の声に、想いがこもった。「でも、その一人ひとりが、ここに集って、混ざり合って、……こんなにも温かい場所を、作り上げてくれた」
俺は、グラスを掲げた。
「百夜目に、乾杯を。……そして、これから続く、すべての夜に」俺は微笑んだ。「BAR ZEROに、ようこそ。皆さん。本当に、ありがとう」
「「「乾杯!」」」
グラスのぶつかり合う音が、幾重にも店に響いた。俺も、水のグラスを、皆と合わせた。飲めない酒の代わりに、この温かい光景を、胸に刻みながら。
宴は、夜遅くまで続いた。
クロウは、したたかに飲み、上機嫌でかつての武勇伝を語った。ノアの料理は、次々と平らげられていく。リーナとヴァルドは、酒を酌み交わし、昔の戦の話で盛り上がっている。アリシアとメイザは、穏やかに談笑している。カルロは、目を輝かせて、ドルグの昔話に聞き入っていた。
ルナが、俺のそばに、ちょこんと座った。
「おにーさん」彼女は、にっこりと笑った。「たのしいね」
「ええ」俺は、優しく頷いた。「本当に、楽しいですね」
コハクが、俺の肩で、うとうととしていた。酒の香りに包まれて、幸せそうに。
《おさけの、におい。みんなの、わらいごえ。……いちばん、すきな、においだ》
俺は、その言葉に微笑んだ。
やがて宴も終わり、一人、また一人と、客が帰っていった。
クロウは、最後に、扉の前で振り返った。
「店主」彼は言った。「いい店だ。……また、旅の途中で、ふらりと寄らせてもらう」彼は、ニヤリと笑った。「その時も、うまい一杯を頼むぜ」
「ええ」俺は微笑んだ。「いつでもお待ちしています。あなたの席を、空けて」
クロウは、片手を上げて、夜の闇へと消えていった。また、彼の守りたいものを守る旅へ。
静かになった店で、俺は一人、カウンターを片付けていた。住人たちは、もう、それぞれの部屋で眠りについている。
【SOMA】――零。百夜目。……いい夜だったな。
「ええ」俺は、静かに微笑んだ。「最高の夜でした」
俺は、カウンターの中から、静まり返った店を見渡した。
百夜。長いようで、あっという間だった。このカウンターから、俺はただ、一杯、一杯を、目の前の誰かのために注いできた。表に出ることはなかった。だが、その一杯は、人を救い、人を変えた。そして、その物語は、俺の知らない遠くまで広がっていた。
情報屋として、裏路地から世界を動かす。……そんな生き方を、俺は、この異世界でも貫いてきた。だが、今ならわかる。俺は、世界を動かしていたんじゃない。一人ひとりの心に、そっと灯りをともしてきただけだ。そして、その小さな灯りが集まって、……こんなにも大きな温かい光になっていた。
「さて」俺は呟いた。「明日からも、また一杯ずつ、ですね」
百夜目の夜が、静かに更けていく。裏路地の小さなバーは、今日も、明日も、そして、これからも、扉を開ける。誰かの心に寄り添う、一杯のために。
その灯りは、きっと、二百夜も、三百夜も、……ずっと、この裏路地で、優しくともり続けるのだろう。
≪第100話・了≫
次話――百夜目の宴は、温かな余韻を残して幕を閉じた。BAR ZEROの物語は、まだ始まったばかり。次なる夜、店を訪れるのは、どんな客だろうか。そして、仲間たちの物語も、また新たに動き出す。用心棒ヴァルドが、ふと漏らした、一つの言葉から。




