第101話「初舞台の夜」
お酒が飲めない俺の異世界バーが最強すぎた件
〜元情報屋、裏路地から世界を動かす〜
第四章「その一杯が、背中を押す」
百夜目の宴の熱気も、すっかり落ち着いた、ある日の夕暮れだった。
一人の客が、ギルドの紹介状を手に、店を訪れた。仕立てのいい服を着た初老の男。楽器職人のギルドの幹部だという。
「実は、折り入ってお願いがありまして」男は、丁寧に切り出した。「明日、王都で、年に一度の大きな演奏会が開かれます」
【SOMA】――零。演奏会か。それが、この店とどう関わる。
「その舞台に、一人の若い吟遊詩人が、初めて立つのです」男は続けた。「名を、リオといいます。素晴らしい才能の持ち主でしてね。ギルドが総出で後押ししている若者です」
だが、と、男の顔が曇った。
「そのリオが、今、ひどく思い詰めていましてね」彼は、ため息をついた。「明日が近づくにつれ、日に日に顔色が悪くなっていく。このままでは、舞台に立てるかどうか」
「それで、噂を聞いたのです」男は、俺を見た。「裏路地に、どんな客の心もほぐしてしまう不思議なバーがある、と」彼は、頭を下げた。「どうか今夜、あの子をもてなしてやってもらえませんか。少しでも、あの子の肩の力が抜けるように」
俺は、静かに頷いた。
「わかりました。もちろん、お引き受けします」
その夜のことだった。
店の扉が、おずおずと開いた。入ってきたのは、まだ少年のような、線の細い若者だった。歳は、十七か、八か。手には、使い込まれた竪琴を抱えている。だが、その顔は、血の気が引いたように青白かった。
「……あの」彼は、消え入りそうな声で言った。「ギルドの紹介で、来た。リオ、です」
【SOMA】――零。生体反応を確認した。心拍は速く、呼吸は浅い。指先の震え、視線の泳ぎ。過度の緊張状態だ。……いや、それだけじゃない。この反応、相当に根が深いぞ。
「ようこそ、BAR ZEROへ」俺は、穏やかに彼を迎えた。「どうぞ、おかけください」
リオは、ぎこちなくカウンターの椅子に腰を下ろした。竪琴を、まるでお守りのように、ぎゅっと抱えたまま。
俺はまず、温かい一杯を彼の前に出した。アルコールの入っていない、優しい果実の、温かいお茶のような一杯だ。強い酒は、今の彼には、かえって毒になる。そう判断した。
「まずは、これで温まってください」
リオは、両手でカップを包んだ。その手が、かすかに震えているのが見えた。ひとくち飲んで、彼は、少しだけほっと息をついた。
「……あの。ギルドの人から聞きました」リオは、ぽつりと言った。「明日の演奏会のこと。俺のこと。……その」彼は、うつむいた。「すみません。こんな、情けない姿で」
「情けなくなんて、ありませんよ」俺は微笑んだ。「大きな舞台を前にして、緊張しない人なんて、いません」
「緊張なんて、生易しいものじゃないんです」リオの声が震えた。「怖いんです。……もう、逃げ出したくてたまらない」
彼は、竪琴をさらに強く抱きしめた。
「明日、王都中の偉い人たちが集まる。……その前で、俺は弾かなきゃいけない」彼の目に、涙が滲んだ。「もし失敗したら、……ギルドの人たちの顔に泥を塗ってしまう。俺を後押ししてくれた、みんなの期待を裏切ってしまう」
【SOMA】――零。分析する。彼の恐れは、明日の舞台そのものに対するものじゃない。話す時の言葉の選び方、竪琴に触れる時の反応。……過去に、強い心的外傷を負った兆候がある。この怯えは、もっと以前から彼の中にあるものだ。
俺は、SOMAの分析を、静かに受け止めた。さすがだ。俺が漠然と感じていた違和感を、SOMAは、はっきりと言葉にしてくれた。この若者が抱えている本当の恐れは、まだ語られていない。その奥に、もっと深い傷が隠れている。
だが、と俺は思う。傷の在り処を、データで指し示すことはできても。その傷に、そっと触れて、溶かしてやれるのは。……人の、心だけだ。それが、俺の役目だった。
「リオさん」俺は、優しく問いかけた。「あなたは、竪琴を弾くのが、……好きですか」
その問いに、リオの肩が、びくりと震えた。そして、彼は、長い沈黙のあとでぽつりと答えた。
「……わからないんです」
その答えに、俺は、かすかに眉を動かした。
「わからない?」
「はい」リオは、うつむいたまま呟いた。「昔は、好きだった。……はず、なんです。でも、今は、竪琴を見るだけで胸が苦しくなる」彼の声が掠れた。「弾こうとすると、手が震えて。……音が出せない時も、ある」
俺は、息を呑んだ。
吟遊詩人が、竪琴を恐れている。それは、まるで剣士が剣を握れなくなるような、料理人が包丁を持てなくなるような、……致命的なことだった。この若者の心には、俺が思っていたよりも、ずっと深い何かが巣くっている。
「今夜は、ゆっくりしていってください」俺は、静かに言った。「無理に話さなくて、いいですから」
だが、俺の頭の中では、すでに一つの問いが渦を巻いていた。
なぜ、この才能ある若者は、愛していたはずの竪琴を恐れるようになったのか。その答えを見つけない限り、彼が明日の舞台に立つことはできないだろう。
【SOMA】――零。彼の心の傷の在り処、私が特定を進める。だが……そこから先は、お前の領分だ。私には、まだ、人の心を溶かす方法まではわからない。……その"わからない"が何なのか、少し、知りたくもあるがな。
「ええ」俺は、内心で頷いた。この震える手の奥にある、本当の痛みを解きほぐすこと。それが、今夜の俺の仕事だった。
夜は、まだ始まったばかり。若き吟遊詩人の、凍りついた心を溶かす。長い夜が、静かに幕を開けようとしていた。
≪第101話・了≫
次話――竪琴を恐れる、若き吟遊詩人リオ。その心の奥には、彼がずっと隠してきた、一つの傷があった。零は、一杯の酒とともに、その痛みにそっと触れていく。リオが再び、竪琴を愛せる日は来るのか。




