第102話「その音は誰のために」
竪琴を恐れる、若き吟遊詩人リオ。俺は、彼の前に、静かに腰を据えた。
【SOMA】――零。彼の過去の演奏記録を照合した。興味深い事実がある。リオが竪琴を恐れ始めた時期。それはちょうど、彼がギルドに才能を見出され、後押しされ始めた時期と一致している。
俺は、内心で目を見張った。さすが、SOMAだ。膨大な記憶や噂を照らし合わせ、傷の輪郭を正確に描き出す。
【SOMA】――零。推論する。彼にとって竪琴は、元々"評価されるもの"ではなかったはずだ。何かが、途中ですり替わった。……その"何か"を突き止めれば、彼の恐れの根に届く。
俺は、静かに頷いた。ここから先は、俺の仕事だ。
「リオさん。一つ、聞かせてください」俺は、優しく問いかけた。「あなたが、いちばん最初に竪琴を弾いたのは、……誰のためでしたか」
その問いに、うつむいていたリオの顔が上がった。
「……妹、です」彼は、ぽつりと言った。「俺には、歳の離れた妹がいて。……小さい頃、体が弱くて、よく寝込んでいたんです」
彼の目に、かすかな光が宿った。
「寝込んでいる妹を、少しでも元気づけたくて、俺は竪琴を覚えました」リオは続けた。「下手くそでした。何度も音を外して。……でも、妹はいつも笑って聞いてくれた。『にいちゃんの音が、いちばん好き』って」
彼の声が震えた。
「あの頃は、ただ妹の笑顔が見たくて、夢中で弾いていた。……楽しかった。心から」
【SOMA】――零。感情の反応が変化した。彼が竪琴を"好きだった"時の記憶。これが、彼の原点だ。
「妹さんは、今はお元気なんですか」俺は尋ねた。
「はい。おかげさまで、すっかり元気に」リオは頷いた。だが、その顔は、すぐにまた曇った。「でも、俺はいつからか、……弾くのが怖くなった」
「それは、いつ頃からですか」
「ギルドの人に、才能を見出されてから、です」リオは、掠れた声で言った。「『お前には才能がある』『もっと上を目指せ』『次の演奏会で認められれば一流だ』……そう言われるうちに」彼は、竪琴を見つめた。「いつのまにか、"上手く弾かなきゃ"、"失敗できない"、……そればかりを考えるようになっていた」
俺は、静かに、その言葉を受け止めた。
【SOMA】――零。これだ。目的の、すり替わり。"妹を笑顔にするため"だった竪琴が、"評価されるため"のものに変わってしまった。彼は、弾く喜びそのものを見失っている。
そうだった。この若者の傷は、喪失じゃない。……見失い、だった。いちばん大切な弾く理由を、重圧の中で、どこかに置き忘れてしまっていたのだ。
俺は、一本の酒を取り出した。
淡い桜色の酒。この酒は、この世界のものだ。初音草の酒。この酒を造る草は、春のいちばん最初に芽吹く若草だ。まだ誰も春が来たと気づかない頃、ひっそりと、だが確かに芽を出す。その最初の芽吹きだけを摘んで醸す。飾りけのない、素朴な味。だが、ひとくち含めば、忘れていた大切なものを、そっと思い出させてくれる。……そんな酒だった。
俺は、それを、そっとリオの前に置いた。
「これをどうぞ。初めての一杯です」
リオは、おそるおそる、その桜色の酒を口に含んだ。次の瞬間、彼の目が見開かれた。
「……あ」彼の口から、小さな声が漏れた。「これ、……懐かしい。なんでだろう。すごく、優しい味」
その目に、じわり、と涙が滲んだ。
「思い出しました」リオは、震える声で言った。「妹の部屋。窓から差し込む光。俺の下手な竪琴を、笑って聞いてくれた、あの時間」
彼は、抱えていた竪琴を、そっと見つめた。今度は、恐れではなく、慈しむような目で。
「俺、忘れていました」リオは言った。「上手く弾くことばかり考えて。……いちばん大事なことを。誰かに、俺の音を届けたい。その気持ちを」
彼の指が、そっと、竪琴の弦に触れた。
「ずっと怖かったのは、竪琴じゃなかった。……"評価される"ことが怖かったんだ」リオは呟いた。「でも、俺はもともと、評価なんて求めてなかった。ただ、大切な人に喜んでほしかっただけなんだ」
【SOMA】――零。彼の生体反応が安定していく。恐れの震えが消えていく。……零。彼は、自分で答えにたどり着いたぞ。
俺は、静かに微笑んだ。そうだ。俺は、何も教えていない。ただ、彼が忘れていた原点を思い出すきっかけを、一杯の酒とともに差し出しただけ。答えは、最初から、リオ自身の中にあったのだ。
リオは、ゆっくりと竪琴を構えた。そして、そっと爪弾いた。
澄んだ音色が、店に響いた。もう、手は震えていなかった。それは、派手でも、完璧でもないかもしれない。だが、温かくてまっすぐで、……聞く者の心にしみ込むような、優しい音だった。
「弾け、ました」リオの顔が、くしゃくしゃになった。「久しぶりに。……怖くない」
「いい音です」俺は、心から言った。「あなたのその音は、きっと明日、聞く人の心にもまっすぐ届きます」
リオは、涙を拭って、力強く頷いた。
「明日、俺、舞台で弾いてきます」彼は言った。「王都の偉い人に認められるためじゃなくて、……あの客席のどこかにいる、誰か一人の心に届けるために」彼の目は、もう怯えていなかった。「妹に弾いていた頃みたいに。……心を込めて」
その時、コハクがふわりと飛んできて、リオの肩にとまった。そして、嬉しそうに鳴いた。
《おにいさんの、おと。あったかい。……だいすきな、においと、おなじ、おとだ》
翌日の夜だった。
リオが、ふたたび店を訪れた。その顔は、昨日とは別人のように晴れやかだった。
「零さん!」彼は、弾んだ声で言った。「舞台、無事に弾ききりました!」彼は笑った。「不思議と、怖くなかった。客席を見たら、……小さな女の子がいて、俺の音に目を輝かせてくれて。その子に届けるつもりで弾いたら、自然と指が動いたんです」
「よかったですね」俺は微笑んだ。
「全部、零さんのおかげです」
「いいえ」俺は、首を振った。「あなたが自分で、大切なものを思い出したんです。俺はただ、一杯を出しただけですよ」
【SOMA】――零。……なあ、零。一つ、記録しておきたいことがある。あの一杯が、彼の中の"忘れていた記憶"を呼び起こした。データ上、酒は、ただの液体だ。だが……人の心には、そうではないらしい。この現象を、私はまだ、うまく説明できない。
俺は、内心で微笑んだ。SOMA。お前も、少しずつ、人の心の不思議に触れ始めているな。それは、データには、決して表せない。……だが、確かにそこにある、温かい何かだった。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、誰かが見失った大切なものを、一杯の酒とともにそっと思い出させていく。
≪第102話・了≫
次話――若き吟遊詩人リオは、忘れていた"弾く理由"を取り戻し、見事に初舞台を終えた。店には、また、いつもの穏やかな夜が戻る。そんなある日、ギルドからBAR ZEROに、一風変わった依頼が舞い込む。「とある人物の"護衛"を、お願いしたい」。それは、剣を握れぬ用心棒ヴァルドにこそ、ふさわしい依頼だった。




