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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第97話「父さんの約束」

リーナの新しい門出を見届けてから、数日が経った。店には、いつもの穏やかな日々が戻っていた。


その日の、少し早い時間だった。店の扉が、おずおずと開いた。入ってきたのは、一人の女性だった。地味だが、清潔な身なり。そして、その手には、まだ五つほどの幼い男の子がぎゅっとしがみついている。


「あの……」女性は、遠慮がちに言った。「こちらに、亡くなった主人が通っていたと聞いて」


【SOMA】――零。……訳ありのようだな。子連れでバーに来るとは、よほどの事情だ。


「どうぞ、おかけください」俺は、穏やかに椅子を勧めた。「お子さんには、甘い果実の水をお出ししましょう」


男の子は、俺をじっと見上げていた。そのつぶらな瞳が、どこか寂しげだった。



女性は、マレナと名乗った。半年前に、夫を病で亡くしたという。


「主人は、トーマスといいます」マレナは、静かに語り始めた。「この店に、時々、一人で通っていたそうです」彼女は、うつむいた。「亡くなった後、主人の遺品を整理していたら、手帳が出てきて」


彼女は、古びた小さな手帳を取り出した。そして、あるページを開いて、俺に見せた。


そこには、震えるような弱々しい字で、こう書かれていた。


『ダニーとの約束。あの店の、あれを、一緒に』


「ダニーは、この子です」マレナは、隣の男の子を、そっと抱き寄せた。「主人は、病の床で、この子に約束したんです。『元気になったら、父さんがいつも行ってた店の、特別なあれを一緒に食べような』って」


彼女の声が震えた。


「でも、主人は、その約束を果たせないまま……逝ってしまって」



俺は、静かに、その手帳を見つめた。


『あの店の、あれを、一緒に』。あまりに断片的な言葉。トーマスさんは、ダニーに、この店の何を食べさせたかったのか。それが、どこにも書かれていない。


「主人が何を指していたのか、……わたしにはわからないんです」マレナは、目に涙を浮かべた。「でも、この子は、ずっと待っているんです。『父さんとの、約束のあれ』を」彼女は、ダニーの頭を撫でた。「せめて、父親の最後の約束だけは、叶えてあげたくて」


その時、厨房からノアが出てきた。話を聞いていたのだろう。その顔は、いつになく真剣だった。


「……その、トーマスって人は」ノアが口を開いた。「どんな人だった。何か覚えてることは、ないか」


【SOMA】――零。ノアが食いついたな。……そうか。ノアも、父親を亡くしている。他人事とは思えないんだろう。


俺は、ノアに任せることにした。これは、料理人の領分だ。



「そうですね……」マレナは、記憶を辿った。「主人は、無口で真面目な人でした。給金は多くなかったけれど、月に一度だけ、この店に来るのを楽しみにしていて」


「月に一度」ノアが呟いた。「贅沢はできない。でも、たまの楽しみに通ってた、ってことか」


「はい」マレナは頷いた。「帰ってくると、いつも少し嬉しそうで。『今日も、あの優しい味を食べてきた』って」


「優しい味」ノアの眉が動いた。「派手な料理じゃない。……素朴で、ほっとする何か、だな」


ノアは、腕を組んで考え込んだ。俺も、記憶を辿ってみた。情報屋として、この店に来た客の顔は、ほとんど覚えている。トーマス。無口で、真面目そうな、月に一度来ていた男。……いた。確かに、いた。いつも同じものを頼んでいた客が。


「ノア」俺は言った。「トーマスさんは、いつも、あなたのまかない飯のような素朴な煮込みを頼んでいた。……蒼天果の入った、あの優しい煮込みだ」


ノアの目が、はっと見開かれた。



「あれか」ノアは呟いた。「……間違いない」彼は、確信した顔で頷いた。「あの煮込みは、特別な日じゃなく、普段、自分たちが食べるために作るまかないだ」彼は続けた。「贅沢な材料は使わない。でも、じっくり煮込んで、素材の優しさを引き出した。……そういう料理だ」


ノアは、マレナとダニーを見た。


「トーマスさんは、きっと、それを食べさせたかったんだ」ノアは、静かに言った。「豪華なごちそうじゃない。……家庭の食卓みたいな、あったかい一皿を、息子と囲みたかった」


マレナの目から、涙がこぼれた。


「そう……なんですね」


「ああ」ノアは頷いた。「作るよ。今から。トーマスさんが、ダニーに食べさせたかった、その一皿を」彼は、腕をまくった。「約束は、果たさなきゃな」



ノアは、厨房に立った。


その背中を、俺は見ていた。いつものノアとは、少し違った。まるで、自分自身の大切なものと向き合うような、そんな真剣さがあった。


やがて、温かな湯気とともに、優しい香りが漂ってきた。蒼天果の甘みと、じっくり煮込まれた根菜の、素朴でどこか懐かしい匂い。それは、家族の食卓の匂いだった。


ノアは、その煮込みを器によそった。そして、ダニーの前に、そっと置いた。


「坊主」ノアは、少しぶっきらぼうに言った。「これが、お前の父さんが食べさせたかった、やつだ」


ダニーは、その湯気の立つ一皿を、じっと見つめた。そして、小さなスプーンで、ひとくち口に運んだ。


その瞬間。


ダニーの大きな瞳から、ぽろぽろと涙があふれた。



「……おいしい」ダニーは、泣きながら言った。「とうさんの、においがする」


その小さな一言に、店にいた皆の胸が締めつけられた。マレナが、息子をぎゅっと抱きしめる。


「そうだね。……父さんの味だね」マレナも、涙をこらえきれず、ダニーと一緒にその煮込みを食べた。「あなた。……ダニーとの約束、ちゃんと叶えられたよ」


親子が寄り添って、一皿の煮込みを分け合っている。そこには、もういない父親の想いが、確かに温かく満ちていた。


ノアは、厨房から、その光景を静かに見つめていた。その目が、かすかに潤んでいるのを、俺は見逃さなかった。


【SOMA】――零。ノアのやつ。自分の父親のことを、思い出しているのかもな。



やがて、俺は、一本の酒を取り出した。


この場にふさわしい一杯を。淡い橙色の、この世界の酒。団欒果の酒。この酒は、団欒果という珍しい果実から造られる。団欒果は、一つの房に、小さな実がたくさんぎゅっと寄り添って実る。まるで、食卓を囲む家族のように。その寄り添った実を、房ごと搾って、皆で仕込む。その果汁は、一粒だけでは、ただ酸っぱい。だが、たくさんの実が合わさると、驚くほどまろやかで優しい味になる。……家族の温もりを、そのまま酒にしたような、そんな一杯だった。


俺は、それをマレナに差し出した。


「お子さんが大人になった時」俺は微笑んだ。「よかったら、また一緒にいらしてください。その時は、この団欒果の酒を、ダニーくんと酌み交わしてください。……きっと、トーマスさんも喜びます」


マレナは、涙ぐみながら、深く頭を下げた。



親子が帰った後、店にしんみりとした余韻が残った。


ノアは、厨房で一人、まだ鍋を見つめていた。俺は、そっと彼に声をかけた。


「ノア。……いい仕事でしたね」


ノアは、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。


「俺の親父は」彼は、静かに言った。「……ろくな親じゃなかった」その声には、複雑な感情が滲んでいた。「酒に溺れて、俺に約束なんて、一つもしてくれなかった」彼は、鍋を見つめた。「あんなふうに、子どものために何かを遺したいって思う親も、いるんだな」


俺は、静かに、彼の言葉を受け止めた。


「だから」ノアは続けた。「あの子に、ちゃんと届けたかった。父親の想いを。……俺がもらえなかったものを、あの子には、ちゃんと」


その言葉に、俺の胸も熱くなった。



「ノア」俺は、静かに言った。「あなたが作ったあの一皿は、トーマスさんの想いを、ちゃんとダニーくんに届けました」俺は続けた。「あなたにしかできない仕事でした」


ノアは、少し照れくさそうに、だが晴れやかに笑った。


「……そうだな」彼は頷いた。「料理は、誤魔化しがきかない。想いも同じだ」彼は、鍋を洗い始めた。「まっすぐな想いは、ちゃんと伝わる。……料理を通して、な」


その後ろ姿は、いつもより少しだけ大きく見えた。父を亡くした少年が、今は、誰かの父の想いを繋ぐ料理人になっている。……それは、何よりも尊いことだと、俺は思った。


【SOMA】――零。いい仲間を持ったな。


「ええ」俺は、心から頷いた。



夜が更けていく。


厨房からは、まだ、ノアが洗い物をする静かな音が聞こえていた。その音を聞きながら、俺は、カウンターで水のグラスを傾けた。


この店には、それぞれの過去を抱えた仲間がいる。ヴァルドも、アリシアも、ガルダも、ルナも、ノアも。皆、何かを失い、何かを乗り越えて、ここにたどり着いた。


だが、その痛みを知っているからこそ、彼らは誰かの痛みに寄り添える。そして、一杯の酒や一皿の料理で、その人の心をそっと救うことができる。


それこそが、この裏路地の小さなバーの本当の強さなのだと、俺は改めて思った。


明日も、この店は扉を開ける。それぞれの想いを抱えた仲間たちとともに。誰かの大切な一杯を、一皿を、届けるために。



≪第97話・了≫



次話――ノアが、父の想いを繋いだ温かな一夜。店の仲間たちの、それぞれの物語が、静かに動き始めていた。そんなある日。地下の鍛冶場から、鍛冶師ガルダが、珍しく浮かない顔で上がってきた。「零。……ちょいと、困ったことになった」。伝説の鍛冶師が抱えた、思わぬ悩みとは。

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