第95話「はじめての一杯」
カルロが店に通い始めて、ひと月ほどが経った。
その熱心さは、大したものだった。毎日、店にやってきては俺の手元を食い入るように見つめ、客たちの様子を真剣に観察している。掃除も、仕込みの手伝いも、嫌な顔ひとつせずこなす。少しずつ、この裏路地のバーに馴染んできていた。
そんなある日。カルロが、意を決したように、俺に切り出した。
「零さん」彼は、緊張した面持ちで言った。「俺に一度、お客さんに一杯、作らせてもらえませんか」
【SOMA】――零。ほう。カルロの旦那、ついにその気になったか。
俺は、少し考えた。まだ早いかもしれない。だが、この若者のまっすぐな目を見て、俺はその挑戦を後押ししたくなった。
「いいでしょう」俺は微笑んだ。「では、次に来たお客さんの一杯。あなたに任せます」
カルロの顔が、ぱっと輝いた。
だが、その日店の扉をくぐってきたのは、とびきり手強い相手だった。
初老の紳士だった。仕立てのいい、だが、少し着古した外套。銀色の髪を、きっちりと撫でつけている。その鋭い眼光は、まるで、すべてを見透かすようだった。彼は、無言でカウンターに座ると、ぶっきらぼうに言った。
「何か一杯。……ただし、つまらんものを出したら、二度と来んからな」
【SOMA】――零。……これは、また気難しそうな御仁だな。カルロの初めての相手にしては、少々、荷が重いかもしれん。
俺は、ちらりとカルロを見た。彼の顔は、緊張でこわばっている。だが、その目には、やってやる、という闘志が燃えていた。
俺は、小さく頷いた。「では、こちらの見習いがお作りします」
老紳士は、じろりとカルロを見た。その値踏みするような視線に、カルロが、ごくりと唾を飲んだ。
カルロは、張り切っていた。
「見ていてください!」彼は、意気込んで酒瓶を手に取った。あの、王都で見たという憧れのバーテンダーを真似るように。瓶を振り、なるべく華やかに、何種類もの酒を混ぜ合わせていく。少しでもすごいと思わせようと。少しでも目を引こうと。必死だった。
やがて、色鮮やかな一杯が出来上がった。カルロは、得意げに、それを老紳士の前に差し出した。
「どうぞ! 自信作です!」
老紳士は、その派手な一杯を、じっと見つめた。そして、ひとくち口に含んだ。次の瞬間、彼の眉が、ぴくりと動いた。
「……なんだ、これは」彼は、グラスを置いた。「ごてごてと飾り立てて、何を飲ませたいのか、まるでわからん」その声は冷たかった。「小手先だけの酒だ。……こんなものは、飲めん」
カルロの顔が、さっと青ざめた。
「そ、そんな……」カルロは、呆然と立ち尽くした。
老紳士は、席を立とうとした。カルロの初めての挑戦は、無残にも、打ち砕かれかけていた。
俺は、口を挟まなかった。ただ、静かに見守っていた。これは、カルロの戦いだ。俺が助け舟を出しては、彼の学びにならない。
だが、カルロは、うつむいたまま動けずにいた。頭が、真っ白になっているのだろう。
俺は、そっと彼に近づいた。そして、耳元で、静かに囁いた。
「カルロさん。あなたは今、誰のために、その一杯を作りましたか」
カルロが、はっと顔を上げた。
「……え?」
「あのお客さんを、見ていましたか」俺は続けた。「それとも、ただ、自分の腕を見せようとしていましたか」
その言葉に、カルロの目が、大きく見開かれた。
【SOMA】――零。思い出せ、カルロ。お前がこの店で学んだことを。バーテンダーの、本当の仕事を。
カルロは、ゆっくりと顔を上げた。そして、今度こそ、まっすぐに老紳士を見た。
その紳士の姿を、じっくりと観察する。着古した、けれど手入れの行き届いた外套。指先の、古い傷跡。そして、どこか疲れたような、寂しげな横顔。
カルロは、何かに気づいたようだった。
「あの……」彼は、おずおずと老紳士に声をかけた。「不躾なことをお聞きします。……あなたは、何かものづくりをされていた方ですか」
老紳士の眉が、ぴくりと動いた。
「……なぜ、そう思う」
「指の傷跡です」カルロは言った。「それに、さっき、俺のグラスを見た時の目。……ものの良し悪しを見抜く目でした」彼は続けた。「きっと、長い間、本物を作り続けてきた。そういう方なんじゃないかって」
老紳士は、しばらく黙っていた。そして、ふっと息を吐いた。
「……硝子細工の職人だった」彼は、ぽつりと言った。「五十年、ひたすら硝子を吹き続けてきた」
「もう引退してな」老紳士は、手元のグラスを見つめた。「腕は衰えちまった。目だけは、まだ本物を見分けられるが。……もう、何も作れやしない」その声には、深い寂寥が滲んでいた。「今日は、ただ昔を懐かしんで、ふらりと立ち寄っただけだ」
カルロは、その言葉を、静かに受け止めた。そして、深く頭を下げた。
「すみませんでした」彼は言った。「俺、あなたのことを、何も見ていませんでした。ただ、自分をすごいと思わせたくて。……独りよがりな一杯を作ってしまった」彼は、顔を上げた。「もう一度、作らせてください。今度は、あなたのために」
老紳士は、驚いたようにカルロを見た。その目の奥に、かすかな光が灯った。
「……好きにしろ」彼は、ぶっきらぼうに言った。だが、その声は、さっきよりずっと柔らかかった。
カルロは、今度は、さっきとはまるで違った。
派手な技は、もう使わない。棚を丁寧に見回し、一本の酒を選び取った。淡い琥珀色の、素朴な酒だ。それは、この世界の燈火花の酒。夕暮れに、灯りのように淡く光る花から造られる酒だった。その花の優しい甘みを、じっくりと煮出し、時間をかけて発酵させる。派手さはないが、飲むと、心の芯からじんわりと温まる。そんな酒だった。
カルロは、それを温めた。丁寧に、ゆっくりと。まるで、冷えた心を温めるように。そして、何の飾りもなく、ただ静かに老紳士の前に差し出した。
「どうぞ」彼は言った。「派手さはありません。でも、あなたに、ゆっくり温まってほしくて」
老紳士は、その素朴な一杯を、じっと見つめた。そして、両手で包むように持ち、ひとくち口に含んだ。
その瞬間だった。
老紳士の、厳しかった顔が、ふっとほどけた。
「……ああ」彼は、深いため息をついた。「温かいな」その目が、潤んでいた。「この素朴な味。……昔、まだ駆け出しの頃、工房で仲間と安酒を酌み交わした。あの頃を思い出す」
彼は、しみじみと、その一杯を味わった。
「わしは、ずっと、本物ばかりを追い求めてきた」老紳士は、ぽつりと言った。「だが、この飾らない一杯が、今のわしには何よりも染みる」彼は、カルロを見た。「小僧。お前、いい目を持っているな。……わしの心を、ちゃんと見てくれた」
カルロの目に、涙がにじんだ。
「ありがとうございます」彼は、声を震わせた。
老紳士は、ゆっくりと、その一杯を飲み干した。そして、席を立つと、カルロの肩をぽんと叩いた。
「また来る」彼は言った。「次も、お前の一杯を頼むとしよう」
その言葉に、カルロの顔が、くしゃくしゃになった。
老紳士が帰った後。カルロは、しばらく、放心したように立ち尽くしていた。そして、ぽつりと言った。
「零さん。俺、わかった気がします」彼は言った。「一杯を作るって、こういうことなんですね」
「ええ」俺は微笑んだ。「最初の一杯は、あなたが、あなたを見せるための酒でした」俺は続けた。「でも、二杯目は、あの方のための酒だった。……その違いに、あなたは、自分で気づいた。それが、何よりの成長です」
カルロは、照れくさそうに頭を掻いた。だが、その顔は、ひと月前とは別人のように凛々しくなっていた。
その時、コハクが、ふわりとカルロの肩にとまった。そして、嬉しそうに鳴いた。
《カルロの、におい。かわった。まえより、ずっと、やさしい、においだ》
俺は、その言葉に微笑んだ。コハクにも、カルロの成長が伝わったようだ。
その夜。店を閉めた後。カルロは、もう一度、あの燈火花の酒を作ってみたいと言った。
「さっきは夢中で、どう作ったか、よく覚えてなくて」彼は、照れくさそうに笑った。「今度は、ちゃんと自分の手に覚えさせたいんです」
俺は、そのひたむきさに、目を細めた。
「いいでしょう」俺は頷いた。「では、一緒に作りましょうか」
カルロは、真剣な顔で、燈火花の酒を温め始めた。その手つきは、まだたどたどしい。だが、そこには、さっき掴んだ大切なものが確かに宿っていた。誰かのために心を込める、その、まっすぐな想いが。
【SOMA】――零。いい弟子を持ったな、零。
「ええ」俺は、静かに微笑んだ。「まだまだこれからですが。……きっと、いいバーテンダーになります」
カルロの作った、燈火花の酒。俺は飲めないから、乾杯は水で。だが、その温かい香りは、しっかりと俺の胸にも届いていた。若い担い手の、はじめての、心のこもった一杯の香りが。
夜が更けていく。
裏路地の小さなバーに、また一つ、新しい灯りが灯り始めていた。それは、誰かのために一杯を作る喜びを知った、若者のまっすぐな心の灯りだった。
いつか、カルロが一人前のバーテンダーになった時。彼は、どんな一杯を届けるのだろう。どんな人の心に寄り添うのだろう。その未来を思うと、俺の胸まで温かくなった。
俺は、静かに水のグラスを傾けた。灯火のように揺れる、カルロの若い情熱を見守りながら。
明日も、この店は扉を開ける。そして、カルロも、また一つ大切なことを学んでいくのだろう。一杯、また一杯と、人の心に寄り添いながら。
≪第95話・了≫
次話――カルロの初めての一杯は、一人の老紳士の心を温めた。見習いの成長を頼もしく思う、そんな日々。だがある夜、店に、思いがけない知らせが届く。しばらく顔を見せていなかった、あの女将軍リーナから。「折り入って、集まってほしい場所がある」と。それは、彼女の新しい門出に関わる、招待だった。




