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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第94話「言えなかったありがとう」

若者カルロが店に通い始めて、数日が経った頃だった。


その夜、一人の常連が店にやってきた。ドルグという名の、大柄な男だ。石工を生業にしていて、その手は、岩のようにごつごつしている。無口で、無骨。いつもは隅の席で、黙って一杯だけ飲んで帰る。そんな、寡黙な男だった。


だが、その夜のドルグは、どこか様子が違った。カウンターの前で、もじもじと落ち着かない。何か言いたげに、口を開いては閉じている。


【SOMA】――零。ドルグの旦那、何か抱えているな。あの無骨な男が、あんなにそわそわするとは。


「ドルグさん」俺は、そっと声をかけた。「何か、お悩みですか」


ドルグは、びくりと肩を震わせた。そして、意を決したように、太い腕を組んだ。


「……店主。折り入って、頼みがある」彼は、絞り出すように言った。「大切な相手に、どうしても渡したい贈り物があるんだ。……力を貸しちゃくれねえか」



「贈り物、ですか」俺は微笑んだ。「もちろん、お手伝いします。その大切な相手というのは、どなたですか」


ドルグは、ごほん、と咳払いをした。その厳つい顔が、ほんのりと赤く染まっていく。


「……かかあだ」彼は、ぶっきらぼうに言った。「女房だよ。もう、二十五年も連れ添ってる」


【SOMA】――零。ほう。二十五年か。長いな。


「もうすぐ、所帯を持って二十五年になる」ドルグは、ぽつりぽつりと語り始めた。「うちのかかあは、文句一つ言わず、俺みてえな無骨な男についてきてくれた」彼は、自分のごつごつした手を見つめた。「貧しい時もあった。俺が大怪我して働けなかった時も、あいつは笑って、俺を支えてくれた」


俺は、静かに頷きながら聞いていた。


「でも、俺は」ドルグの声が低くなった。「一度も、あいつに『ありがとう』を言えてねえ。……照れくさくて、どうしても言えねえまま、二十五年も経っちまった」



彼は、大きな体を縮めるようにうつむいた。


「不器用なんだ、俺は。……気の利いた言葉も、洒落た贈り物も、何一つできやしねえ」ドルグは、拳を握った。「だが、二十五年の節目だ。せめて一度くらい、あいつに感謝を伝えてえ。……どうすりゃいいのか、わからなくて、あんたを頼ってきた」


その不器用な告白に、俺の胸が温かくなった。


二十五年連れ添った妻へ、たった一言の「ありがとう」が言えなかった、無骨な男。だが、その言えなかった年月の分だけ、彼の感謝は、深く重く積もっている。


【SOMA】――零。いい相談じゃないか。金や地位の話じゃない。……こういうまっすぐな想いの相談こそ、お前の腕の見せどころだろう。


「ドルグさん」俺は、静かに微笑んだ。「よく話してくださいました。大丈夫です。あなたのその気持ち、きっと伝えられます」


ドルグの顔が、ぱっと上がった。


「ほ、本当か!?」


「ええ。ただ、そのために、あなたと奥様のことを少し聞かせてください」



俺は、ドルグに一杯出しながら、ゆっくりと話を聞いていった。


情報屋として培ってきた、聞き出す技術。だが、今は、詮索のためじゃない。この無骨な男の、心の奥にある二十五年分の想いを、丁寧にすくい上げるためだった。


ドルグは、ぽつぽつと語ってくれた。妻との馴れ初め。若い頃の思い出。二人で乗り越えてきた苦労。……その一つひとつを、俺は心に刻んでいった。


「二人が出会ったのは、どんな場所だったんですか」


「……村の祭りだ」ドルグの目が、少し遠くを見た。「あいつは、屋台で、あまい果実の酒をうまそうに飲んでてな。……その横顔に、俺は一目で参っちまった」彼は、照れくさそうに笑った。「もう、二十五年以上も前の話だ」


【SOMA】――零。ふむ。甘い果実の酒。それが、二人の始まりの味か。


俺の中で、一つの酒のイメージが、像を結び始めていた。



「わかりました」俺は微笑んだ。「では、奥様への贈り物。俺に一つ、心当たりがあります」


俺は、棚の奥から、一本の酒を取り出した。


深い琥珀色の、どっしりとした壺に入った酒。地の文で俺だけが知っている。紹興酒。前の世界の、中国の酒だ。この酒には、一つの美しい風習がある。かの地では、娘が生まれるとその年に酒を仕込み、地中に埋めて寝かせる。そして、その娘が年月を経て嫁いでいく日、ようやく掘り出して、祝いの席で振る舞うのだ。長い長い年月を、想いとともに寝かせて、人生の大切な節目に開ける酒。それは、時間そのものを贈る酒だった。


「この酒はね」俺は、静かに語った。「遠い異国では、長い年月をかけて大切に寝かせ、人生の節目に開けるものなんです」俺は続けた。「娘が生まれた時に仕込んで、その子が嫁ぐ日に開ける。……そうやって、二十年もの時間を、想いとともに閉じ込めておくんです」


ドルグが、その壺をじっと見つめた。


「二十年、もの……」


「ええ。あなたと奥様が歩んできた二十五年と、……どこか似ていると思いませんか」



「この酒の深い味わいは」俺は続けた。「長い年月が造り出したものです」俺は、ドルグを見た。「派手さはありません。ですが、じっくりと時間をかけて、深くまろやかに熟成していく。……まるで、あなたと奥様の二十五年のように」


ドルグの厳つい目が、潤み始めていた。


「奥様への贈り物は、高価な品物じゃなくていいんです」俺は、優しく言った。「この一杯を、二人で分かち合ってください。そして、その時、……たった一言でいい。『ありがとう』と伝えてあげてください」


「……俺に、言えるだろうか」ドルグの声が震えた。「二十五年、言えなかった言葉だ」


「言えますよ」俺は微笑んだ。「この酒が、きっと、あなたの背中を押してくれます。言葉が苦手なら、まずは、この一杯を黙って差し出すだけでもいい。……気持ちは、ちゃんと伝わります」



俺は、その紹興酒を、美しい小さな酒器と一緒に丁寧に包んだ。そして、ドルグに手渡した。


「温めて飲むと、より香りが立ちます」俺は言った。「二十五年分の感謝を、この温かい一杯に込めて、奥様とゆっくり過ごしてください」


ドルグは、その包みを、両手で大切そうに受け取った。まるで、壊れ物を扱うように。そのごつごつした手が、かすかに震えていた。


「……店主」彼は、深く頭を下げた。「ありがとう。恩に着る。俺には、こんなこと、一人じゃとても思いつかなかった」


「いいえ」俺は微笑んだ。「あなたの想いが素晴らしかったんです。俺はただ、それに合う一杯を選んだだけですから」


その時、コハクがふわりと飛んできて、ドルグの包みの上にちょこんととまった。そして、嬉しそうに「きゅう」と鳴いた。


《このおじさんの、におい。かたいけど、すごく、あったかい。……だいすきの、においだ》


俺は、その言葉に微笑んだ。コハクにも、ドルグの二十五年分の愛情が、伝わったようだった。



数日後の夜だった。


店の扉が開いて、ドルグが入ってきた。だが、その日の彼は、一人じゃなかった。隣に、小柄で優しそうな女性が寄り添っている。彼の妻だった。


「店主」ドルグは、少し照れくさそうに言った。「かかあが、どうしても礼が言いたいと言うんでな」


妻が、深々と頭を下げた。その目元が、うっすらと赤くなっている。


「あなたが、あの人にお酒を選んでくださった方ですね」彼女は、震える声で言った。「あの晩、この人が急に、温かいお酒を出してくれて」彼女は涙ぐんだ。「そして、ぶっきらぼうに『……長え間、ありがとうな』って。たった一言、それだけでしたけど」


彼女は、ハンカチで目元を押さえた。


「二十五年で、初めてでした。あの人が、あんなこと言ってくれたのは。……嬉しくて、涙が止まらなくて」



ドルグは、隣で真っ赤な顔で、ぼりぼりと頭を掻いていた。その不器用な優しさが、この夫婦の二十五年を物語っていた。


「よかったですね」俺は、心から微笑んだ。「奥様に、ちゃんと伝わって」


「ああ」ドルグは、ぶっきらぼうに、だが晴れやかに頷いた。「あんたのおかげだ。……あの一杯が、俺の二十五年分のつっかえを、溶かしてくれた」


その夜、俺は、二人に特別な一杯を振る舞った。二人が出会ったあの日、妻が飲んでいたという、甘い果実の酒を思わせる一杯を。


夫婦は、肩を寄せ合って、その一杯を味わっていた。二十五年の歳月が、二人の間に温かく流れている。言葉は多くなくても、その寄り添う姿が、何よりも雄弁に二人の絆を語っていた。


【SOMA】――零。いい光景だな。……言葉にできない想いってのは、時に、一杯の酒が運んでくれる。


「ええ」俺は、静かに頷いた。



夫婦が帰った後。カルロが、感慨深そうに、俺に話しかけてきた。


「零さん、すごいです」彼は言った。「お酒って、人の気持ちを運べるんですね。あのおじさん、ずっと言えなかった言葉を、あの一杯で伝えられた」


「ええ」俺は微笑んだ。「言葉は、時に難しい。特に、大切な想いほど、素直に言えないものです」俺は続けた。「そんな時、一杯の酒が、その背中をそっと押してくれる。……それも、バーテンダーの大切な仕事の一つなんです」


カルロは、うんうん、と何度も頷いていた。その目に、また一つ、新しい学びの光が宿っていた。


俺は、カウンターの中から、空になった二人のグラスを見つめた。


贈り物とは、高価なものでも、珍しいものでもない。……そこに、どれだけの想いを込められるか。ドルグの贈った一杯には、二十五年分の、言えなかった「ありがとう」が、溢れるほど詰まっていた。それこそが、何よりの贈り物だった。



夜が更けていく。


裏路地の小さなバーは、今夜も、誰かの言葉にできない想いをそっと一杯に託して、大切な人のもとへ届けていく。


不器用でもいい。素直に言えなくてもいい。……その想いは、きっと、どんな形でもちゃんと相手に届くのだから。


俺は、静かに水のグラスを傾けた。今夜も、この店で、一つの温かい想いが結ばれた。その余韻を噛みしめながら。


そして、俺は、また明日もこのカウンターに立つ。誰かの大切な一杯を、届けるために。



≪第94話・了≫



次話――ドルグ夫婦の、温かな一夜。店には、幸せな余韻が残っていた。そんなある日。見習いのカルロが、初めて、自分で一杯を作ってみたいと申し出る。だが、その相手は、とびきり気難しいと評判の老紳士だった。カルロの、初めての挑戦が始まる。

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